聖帝の治世とは? わかりやすく解説

聖帝の治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 11:03 UTC 版)

仁徳天皇」の記事における「聖帝の治世」の解説

即位元年1月3日、都を難波高津宮に遷した。大和国以外では初めての都となる。 即位4年天皇高い山から国を見渡すと、どの家にも煙が昇っていなかった。これにより民衆炊事できないほど貧しいことを知った。そこで以後三年間、課税労役全てとりやめることにした。そして自らは、宮の屋根壊れ雨漏りして直すこともしなかった。三年経過した即位7年、再び山の上から国を眺めると、どの家からも煙が立ち上っていた。諸国課税再開要請したが、結局即位10年まで課税停止延長された。 その後河内平野一帯大規模な治水工事行った日本書紀には、次の事績記されている。 河内平野における水害防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江開削茨田堤大阪府寝屋川市付近)の築造行った山背の隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北久世郡久御山町)に灌漑用水引かせた。 茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。 和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)、依網池(よさみいけ、大阪市住吉区)を築造した。 灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し広大な田地開拓した紀角宿禰百済遣わし初め国郡の境を分け郷土産物記録した紀角宿禰無礼働いたとして百済から日本送られ酒君鷹狩始めさせた。 朝貢拒否した新羅上毛野竹葉瀬田道兄弟派遣して討伐した 呉(南朝宋)と高麗高句麗)が朝貢してきた。 また、古事記には、次のとおり記されている。 この天皇御世に、大后(おほきさき)石之日売命の御名代みなしろ)として、葛城部を定め、また太子ひつぎのみこ)伊邪本和氣命の御名代として、壬生部定め、また別命御名代として、部(たぢひべ)を定め、また大日下王の御名代として、大日下部定め若日下部御名代として、若日下部定めたまひき。また、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江掘りて海に通はし、また江(をばしのえ)を掘り、また墨江すみのえ)の津を定めたまひき。

※この「聖帝の治世」の解説は、「仁徳天皇」の解説の一部です。
「聖帝の治世」を含む「仁徳天皇」の記事については、「仁徳天皇」の概要を参照ください。

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