治水工事
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治水工事(ちすいこうじ)とは、河川で行う改良工事。治水対策の一つ。河道の浚渫・拡張などにより水流を円滑にし、築堤を行うことで河川の氾濫などを防ぎ、運輸・灌漑の効率性をあげることを目的とする。上流の森林整備や土砂災害対策と合わせて、治山治水事業とよぶこともある。
歴史
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奈良時代の頃には近畿地方、特に平城京に人口が集中。燃料の確保のため、周辺の森林が伐採され土砂流出が顕著になり河川が閉塞、降雨時には氾濫を繰り返した。このため、しばしば河道掘削工事が行われた。また、地方においても780年に坂上田村麻呂が北上川にて、舟運を目的とした治水工事を行った記録が残されている。
戦国時代には強大な大名権力を持つ戦国大名が出現し、労働力を動員して大規模な治水事業を推進する例が見られる。甲斐国(山梨県)においては武田信玄が堤防の改修工事(信玄堤の造成)を行い、新田開発を行ったことが知られる。
関連項目
治水工事
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航路開拓と同じ頃、河口付近の港では上流から流入する土砂によりしばしば港が閉塞する問題がおきていたが、瑞賢は新川の開削工事の経験もあり、上流の治山と下流の治水を一体的に整備すべきとの認識を得ていたといわれる。 延宝2年(1674年)に淀川で大洪水が発生。天和3年(1683年)に若年寄稲葉正休が淀川の視察に訪れた際に瑞賢が案内役を務め、瑞賢の治水の考えは徐々に幕府上層部に影響を与えるようになった。そして、貞享元年(1684年)から同4年(1688年)までの第1期、元禄11年(1698年)から12年(1699年)までの第2期にわたり、大坂市街が位置する淀川下流の治水工事を任されることとなる。第1期では九条島切開による安治川の開削、大川・堂島川・曽根崎川の拡幅など、第2期では堀江川の開削、十三間堀川の開削、難波島切開による木津川の直線化などが実施され、河岸では新地開発も同時に行われた。安治川の開削で出た土砂によって安治川入港の目印となる波除山が築かれ、一名を瑞賢山と称した。 ほかにも全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を実施。その功により晩年には旗本に加えられた。その活躍は新井白石の『奥羽海運記』や『畿内治河記』に詳しく、「天下に並ぶ者がない富商」と賞賛されていた。
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