治水工事と桜の植樹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 10:23 UTC 版)
治水工事が行われる以前の白石川はしばしばその流域に水害をもたらしていた。1637年(寛永14年)には、発生した洪水によって金ヶ瀬元屋敷にあった家が全て流されただけでなく土地も流失し、後に領主の片倉氏の計らいで住人は移住することになった。1913年(大正2年)に発生した水害では、柴田郡全体で損失が180万円に上り、加えて冷害による凶作に追い討ちをかけられた流域の町村は困窮し、勅使として派遣された原敬の慰問を受けた。この年の洪水を契機に流域の町村は宮城県に白石川の治水を強く働きかけるようになり、やがて県治水会の決議までこぎつけた。1917年(大正6年)から治水工事が始まり、流路の整理や堤防の構築が行われ、1923年(大正12年)の秋までこの事業は続いた。 治水工事の完成を約半年後に控えた1923年(大正12年)の春、大河原町に1000本余りのソメイヨシノが寄贈された。寄贈主は大河原出身で、当時、東京商機新聞の社長だった高山開治郎である。寄贈された桜は治水工事で造られた白石川の堤防に植樹され、住人の有志や柴田農林学校の生徒によって保護、育成された。これが現在「一目千本桜」と呼ばれる桜の名所であり、柴田町の船岡城址公園と共に日本さくら名所100選に選ばれている。
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