稲作のルーツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 16:26 UTC 版)
長岡重治は僅かな開墾地で麦や豆などの雑穀を栽培したが、米を食べられるのは年に1、2回しかなかった。アメリカ人によって指揮された北海道開拓使は稲作禁止令を出して麦作を奨励していたが、どうしても米を食べたかった長岡重治は、島松で稲作にこぎつけていた中山久蔵に師事して寒さに強い赤米の種籾を分けてもらった。 こうして1877年(明治10年)にアシリベツ(現在の清田小学校付近)で札幌では初めての水田を拓いたが、厚別川の水は冷たすぎて稲は育たず、春に蒔いた種籾を回収するのがやっとだった。そこで、10年かけて厚別川から水路を築き、水温を上げて田へ引水することでようやく収穫が安定した。明治20年代(1890年頃)には1反あたり5~6俵の収量が得られるようになった。その後1892年(明治25年)に見上権太夫が水利権を獲得し、付近は水郷地帯へと発展する。北海道庁が北海道での稲作推進に転換するのは翌1893年(明治26年)のことである。
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