北山村 (長野県)
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きたやまむら 北山村 |
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廃止日 | 1955年2月1日 |
廃止理由 | 新設合併 ちの町、宮川村、金沢村、玉川村、豊平村、泉野村、北山村、湖東村、米沢村 → 茅野町 |
現在の自治体 | 茅野市 |
廃止時点のデータ | |
国 | ![]() |
地方 | 中部地方(甲信越地方) |
都道府県 | 長野県 |
郡 | 諏訪郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 | 3,494人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 諏訪市、諏訪郡豊平村、湖東村、米沢村、小県郡大門村、北佐久郡芦田村、協和村、春日村、南佐久郡野沢町、栄村、畑八村 |
北山村役場 | |
所在地 | 長野県諏訪郡北山村大字湯川字上溝4341番地 |
ウィキプロジェクト |
北山村(きたやまむら)は長野県諏訪郡にあった村。現在の茅野市大字北山[注 1]にあたる。
地理
- 山:朝倉山、カシガリ山、車山、八子ヶ峰、蓼科山、双子山、北横岳、北峰、南峰、三ツ岳、縞枯山、茶臼山、冷山
- 湖沼:蓼科湖(1952年造営)、白樺湖(1946年造営、当初「蓼科大池」)
- 河川:渋川、滝ノ湯川、音無川(いずれも上川支流)、小斉川(滝ノ湯川支流)、常滑川(渋川支流)

歴史
北山村は1875年、筑摩県第十四大区第二小区に属する
古くから農業を主とし、明治初期には米のほか雑穀(麦・大豆・アワ・ソバ)などを栽培していたが、八ヶ岳山麓の標高1,000m台を耕作地とする寒冷地のため、生産環境は厳しかった。農閑期には住民の多くが屋根葺き用の木板や燃料用の木炭を生産していた。大正時代には養蚕が主力産業となり、村内経済を支えた。一方、江戸時代からの温泉を基盤に明治中期以降、首都圏住民の避暑保養地として蓼科高原の観光地化が本格化。1927年の大霜害を発端とする経済混乱を契機に高原での別荘地経営も始まった。また第二次世界大戦前から戦後にかけて露天掘りによる褐鉄鉱の鉱山が操業した。
1889年に発足した村役場は庁舎を湯川耕地の集落南端に近い
1954年に行われた諏訪郡内の合併議論では、同年9月22日に現在の茅野市域9町村と湖南村・中洲村(現・諏訪市)および原村の計11町村で打ち出した合併基本案について北山村は賛同を見合わせ、湖東村との2村による合併協議を開始した[3]。しかしまもなく湖東村が茅野町(現・茅野市)合併に傾いたことから協議は打ち切られ、翌1955年、北山村も茅野町に合併した[3]。
- 1875年(明治8年)2月18日 - 筑摩県第十四大区第二小区北山村が発足。
- 1876年(明治9年)8月21日 - 筑摩県廃止にともない、長野県南第十四大区第二小区となる。人口2,042人、488世帯
- 1877年(明治10年)2月15日 - 上諏訪警察署管轄になる。
- 1879年(明治11年)1月4日 - 郡区町村編制法施行(大小区制廃止)により長野県諏訪郡となる。
- 1879年(明治11年)6月30日 - 大小区制廃止にともない、米沢村との連合戸長役場(米沢村北山村戸長役場)を清水院跡(米沢村塩沢)に置く。
- 1888年(明治21年) - 上諏訪警察署北山分署(北山・豊平・泉野・湖東・米沢管轄)が設置される。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に基づき、北山村役場が発足。初代村長に辰野虎造が就任。
- 1889年(明治22年)- 芹ヶ沢・糸萱新田両耕地が北山村からの分村請願書を[3]、芹ヶ沢村を親村とする湖東村金山新田耕地が北山村への合併請願書[4]をそれぞれ県に提出するも共に実現せず。
- 1920年(大正9年) - 人口2,827人、634世帯(第1回国勢調査)
- 1935年(昭和10年) - 人口2,890人(第3回国勢調査)
- 1941年(昭和16年) - 北山村役場新庁舎を建設。
- 1947年(昭和22年) - 人口3,605人(第5回国勢調査)
- 1954年(昭和29年)10月30日 - 午後4時15分、北山村役場庁舎屋根裏より出火し庁舎全焼[2]。同年末に再建[2]。
- 1955年(昭和30年)2月1日 - ちの町・宮川村・金沢村・玉川村・豊平村・泉野村・湖東村・米沢村と合併して茅野町が発足。同日北山村廃止。
農林業
養蚕・製糸
北山村の養蚕は、麓の宮川村、玉川村、永明村に次いで明治初期までに早くも自家用の域を超え民業として成立し[5]、1890年には柳沢製糸場(16釜)が村内に起業して小規模ながら製糸も行われた。養蚕は大正期に最盛期を迎え、村内産業の主力となった。1917年現在で村内農家474戸中99%の469戸が手がけ、のちの茅野市域9か村では宮川村、玉川村に次いで多かった。同年には芹ヶ沢、翌1918年には糸萱の両養蚕組合が発足した。1920年から始まった繭価の下落を受けて各農家は収入減を補おうと収繭量の確保に努め、1923年には6年前の1.7倍近い34,054貫を生産した。
しかし1927年の長野県大霜害を皮切りに同年の金融恐慌、1929年の世界恐慌が直撃して繭価が大暴落した。繭価に連動して米など一般の農産物の価格も暴落したため、各農家は多額の負債をかかえ、県内のほかの農村部と同様に「農村恐慌」と呼ばれる経済混乱状態となった。北山村全体の収繭量は1936年には16,341貫と、ピーク時の半分以下に落ち込んだ。こののち、桑質向上のため諏訪郡養蚕部の指導で品種割合を変えた1933年の桑園改植や、蚕品種の統一、飼育法の改善の効果があらわれ、収繭量は1939年に25,153貫まで回復したが、戦中から終戦直後にかけて再び大きく衰退した。
この間、農家自身が製糸経営を行って利益確保を図る「組合製糸」として1929年12月、北山村・湖東村・豊平村および埴原田区を除く米沢村の4村の養蚕農家で保証責任北山浦生糸販売購買利用組合(北山浦製糸組合)が設立され、諏訪地方の組合製糸でつくる産業組合連合会の諏訪生糸販売組合連合会竜上社(のち諏訪生糸販売購買組合連合会竜上社)に加盟した[6]。1933年現在の組合員数は570人。北山村芹ヶ沢区
戦後、1947年に北山農業会が解散したことから1948年8月に北山村養蚕農業協同組合が発足した。県内養蚕農協と製糸業界の団体交渉で繭価が決定されるようになったことから、村内養蚕は茅野町合併後の1957年にかけて再び活発に行われるようになった。芹ヶ沢区の組合製糸工場は戦後1950年代初頭まで操業した。
稲作

稲作は、栽培限界とされる標高1,250mに近く、土地の肥沃度も低いことから特に冷害を受けやすい環境にあり、田の
明治中期以降、入会地から刈り取った草を代かき時に敷き込んで田の肥料とする昔ながらの刈敷に加えて、金肥として昭和初期にかけてニシンのしめ粕といった動物性肥料、大豆粕などの植物性肥料、それに過リン酸、硫安などの人工肥料が普及。これに合わせ耐肥性があり冷害に強い品種が作付けされるようになり、定期的に冷害による減収に見舞われつつも、明治末期には反収が2石を超え(1909年村内反収2.11石)、おおむね一定の収量が確保されるようになった。また養蚕を兼業するために、代掻き車や手押し除草機、足踏み脱穀機などの農機具の積極的な導入により、農作業の省力化を図った。
特に低温や低水温、霜、結氷に見舞われやすい水苗代の播種期については、従来から水深を深めに維持する「深水」管理を対策としてきたが、発芽の遅れや苗の腐敗などの障害が多発するため、1930年代から篤農家などの手で考案されたさまざまな対策が試みられた。
戦後、油紙で苗代を覆い保温する「保温折衷苗代」の技術が導入され、安定して育苗することが可能になった。このため、従来標高800m程度の宮川村やちの町を中心に栽培されていた多収穫品種「農林17号」を北山村内でも作付けする農家が増え、1953年における村内の農林17号作付け割合は60%に達した。また1951年に肥料統制が廃止されたことを受け、各農家は窒素肥料を大量に施肥して収量増に励んだ。しかし、1953年7〜8月の長雨と低温で発生した大冷病害では、こうした収量優先の営農方針がいもち病の拡大と不稔につながり被害が深刻化した原因となったため、以後、冷害に強い新品種の作付けに取り組むようになった。
水利の余地がないことから明治以降、新田開発は行われなかったが、戦時体制にともなう食料増産を目的とする特例として1938年5月に湯川区の
役畜・用畜

八ヶ岳山麓部では、傾斜地の農耕に従事させるため、役畜の飼育が戦前から戦後にかけて盛んに行われ、日本でも有数の役畜耕作地帯だった。地理的に原野への放牧、飼料となる草の採取が容易で、厩堆肥を火山灰土の土壌に供給できたことが背景にある。北山村では、1949年現在で役馬が294頭、役牛が36頭[9]所有されていた。
特に役馬は2戸に1頭の割合で所有され、村内頭数は9か町村中飛び抜けて多かった。戦後の蓼科高原観光の名物となった観光馬車は、役畜による農耕作業のない夏期に、各農家がこうした馬を活用して生まれたものである。また役牛を好む農家もあり、馬に比べ粗飼料で、生育期間が短く性格が温和で管理が容易である利点があった。
また役畜が盛んである地域であることを背景に、大家畜の牛馬繋養機関として大戦中の1944年4月、蓼科高原の湯川南山に県立の長野県種畜場が松本市から移転新設した。種畜場には長野県役馬利用指導所(1945年-1949年)、長野県畜産技術講習所(1949年-1965年)も併設され、戦後の県内高原地帯で推進された酪農を中心に県内外の畜産振興に寄与した。のち県種畜場は1967年に塩尻市に新設された長野県畜産試験場に集約移転し、跡地は隣接していた北山小学校蓼科分校とともに、当時県企業局と一体となって蓼科開発に巨額投資していたトヨタ自動車に売却されてトヨタ自動車蓼科保養所(現・テラス蓼科)およびトヨタ自動車蓼科ゲストハウスとなった。
このほか、戦前から自給肉用としてウサギが広く飼われ、飼育は家の子どもの仕事とされた。暮れには毛皮商人が各農家を回り、肉は年末年始のごちそうとなった。のちにはアンゴラ繊維を取るアンゴラウサギの飼育も行われた。また山羊を1、2頭飼育し、春から晩秋にかけて1日約2リットル出る乳を沸かして飲用とした。輸出用羊毛のための綿羊も飼育されていた。
開拓事業
戦後、復員や引揚にともなう帰農者・新規就農者の収容と食糧増産を目的とする国の開拓事業の一環として、農林省が買収した未墾地に開拓農家が入植した。村内では1950年5月現在で蓼科高原の標高1200メートル付近の中山開拓地(中山開拓農業協同組合、1950年入植開始)に12戸、白樺湖畔の標高1500メートル付近の池の平開拓地(池の平開拓農業協同組合、1949年入植開始)に6戸がそれぞれ入植し、当初は雑穀を中心に、将来的には高原野菜と牧畜へ展開することを目指した農業を開始した。
まもなく蓼科高原、白樺湖の観光開発が本格化したため、池の平開拓地は1950年代後半に、中山開拓地は1960年代前半に、それぞれ観光開発事業者に土地を売却し開拓事業は事実上終焉した。
滝之湯堰・大河原堰

坂本養川が開削し、現在も茅野市域の耕地灌漑に使用されている農業用灌漑水路の
八ヶ岳山麓の山浦地方では、江戸時代にすでに本流の水量が分水の限界に達し、堰の新設が不可能となる一方、明治以降、管理が高島藩から流域各区に移管されたため、堰の上流と下流、それに複数の堰の間で、取水割合や堰の修理、経費をめぐる争議「水争い」が多発。茅野市発足後の昭和末期に至るまで、流血や死者をともなう無数の紛争や裁判が続いた。
滝之湯堰では源流の湯川耕地(湯川区)など上流の耕地と下流耕地との間で1888年以降、小競り合いや暴行事件が繰り返し発生したため、1889年には湯川耕地を除く下流15耕地が巡査1人の派遣を上諏訪警察署に請願し、1893年まで巡査が常駐して警備を行った。また1895年には下流の湖東、豊平両村8区が、上流区である北山村各区民の水利妨害による暴力で湖東・豊平村区民が死亡した場合、8区合同で弔慰金200円を支給することなどを定めるなど、激しい紛争が続いた。
こうした対立を解消するため、1890年には流域16区の分水割合を定めた規定を全面的に見直したほか、1893年には滝之湯堰普通水利組合(1951年、滝之湯堰土地改良区に改称)を設立して1897年に各区ごとの組合費納入算定基準を改定。ともに現在に至るまでこの取り決めが存続している。
一方、滝ノ湯川と渋川で取水し、村外を灌漑域とする大河原堰は、延長20kmにおよぶため常に水量不足が問題となり、灌漑域各区間での水争いが多発していたが、源流の北山村内では、両河川で共に大河原堰より下流で取水している滝之湯堰流域各区との間で分水割合を巡る争議がたびたび発生した。
- 横谷事件 - 1948年は田植え期から雨の少ない日が続き、同年6月には大河原堰、滝之湯堰とも末端ではほとんど水が流れてこない状況となった[10][注 6]。糸萱区横谷地籍の渋川にある横谷渓谷の大河原堰揚水地点(乙女滝下流)では6月10日ごろから、渋川の水を大河原堰に取り込もうとする大河原堰関係者(玉川・宮川村)と、それを阻止しようとする滝之湯堰関係者(北山・湖東・豊平村)が集結し衝突[10]。6月13日夜には出動した警官隊の目前で投石による死者1名が出た。こののち滝之湯堰側の北山・湖東・豊平の3村関係者が夜間に豊平村役場で対策会議を開いたところ、大河原堰側の玉川・宮川両村民が庁舎内に乱入して大論争が始まったが、その最中に突如大雨が降り始めたため、水不足が解消したことを悟った両堰関係者は解散し雨の中を帰宅。騒動は自然収束した[10][注 7]。
入会林野

入会地は古来より「
北山村域では明治初期、八ヶ岳山麓の原野に目を付けた出身地不明の士族による「開農社」と称するグループが、湯川村など10村入会の
また一部が5村の入会地だった柏原村の柏原山[注 10]では、古来より柏原村民が炭焼や採草を行っていた八子ヶ峰北麓一帯について、後年に同地を源流とする堰を開削した際に柏原村が抗議しなかったことを根拠に自村の所属とすることに成功した佐久郡(のち北佐久郡)芦田村との論争が明治に入っても続いたが、1889年、柏原耕地が専門家2人に鑑定を依頼したところ、共に芦田村の所属であるとの結果になった。さらに外山については明治中期から、共有山ではないとする柏原区と、共有山だとする米沢村北大塩区との論争も始まった。
各入会地は1889年の町村制施行に伴う財産区制度発足に伴い、旧村単位の財産区所有に移行。北山村域では御鹿山の鹿山財産区(北山村湯川・芹ヶ沢・糸萱区、湖東村金山・新井・山口・中村・上菅沢、豊平村下菅沢・福沢区の入会)、芹ヶ沢山の内山財産区(北山村芹ヶ沢・糸萱区、湖東村金山・新井区の入会)と外山財産区(内山の4区と湖東村山口、中村、上菅沢区の入会)の各共有財産区と、区単独の財産区として湯川山(滝ノ湯川流域)の湯川財産区、柏原山(音無川流域)の柏原財産区、渋川流域の芹ヶ沢財産区および糸萱財産区、村外である米沢村塩沢区の塩沢財産区(滝ノ湯川上流域左岸の一部)の各財産区が設けられた。
外山財産区および内山財産区所有となった芹ヶ沢山は、大正時代の1917年3月13日に7区が協定を結び、外山財産区について原野運営を共同で行う北山村湖東村一部事務組合(芹ヶ沢山一部事務組合)を設立して各区民ごとの権利割合を明文化した。
柏原財産区のうち、外山の八子ヶ峰北麓については1905年12月20日、芦田村内の池の平南部の琵琶石地籍100町歩余について、購入に賛成する区民有志でつくる任意団体「御座石造林組合」が芦田村外三村財産組合より立木を含めて4000円余で買い取る契約を結び、残金完済となった1912年7月5日に御座石造林組合の所有となり、1940年の温水溜め池(のちの白樺湖)築造着工にあたり柏原区に無償提供され戦後任意団体の「柏原農業協同組合」所有地となった[注 11]。また北大塩区との外山の共有権論争については、1909年にかけて大審院まで持ち込む裁判となったのち、1911年に和解契約書を取り交わして車山南麓の一部を北大塩区に分割した[注 12]。
明治中期以降、金肥の普及により採草需要が減少したことや、1897年の森林法制定で造林が推進されたことで原野の山林化が進み、新たに営林事業が行われるようになったことを受け、近隣他村では共有入会林野の分割解消が行われたところもあったが、北山村内では柏原山外山の一部を除きすべての共有財産区が維持された。
これらの財産区は、のち1960年にトヨタ自動車系列の東洋観光事業が湯川財産区および周辺の塩沢、外山、内山、鹿山財産区有地を買収または賃借して蓼科高原開発を開始したのを皮切りに、昭和末期にかけて長野県企業局(湯川財産区)、蓼科ビレッジ(外山・内山財産区)、共同開発興業(塩沢財産区)、東京不動産(鹿山財産区)、森永製菓(外山財産区)、全国共済農業協同組合連合会(湯川財産区蓼科分区)、長野県綜合開発コンサルタント(柏原財産区)、京王帝都電鉄(柏原財産区、中止)の各外部資本が、主に区有地賃借の形で別荘用地やゴルフ場といった大規模な観光開発を行う基盤となった。このほか鹿山財産区の一部区有地および柏原財産区の白樺湖一帯では、財産区自身が観光開発を行った。
農業協同組合
北山村では農村恐慌下の1928年、芹ヶ沢区
戦後1947年の農業協同組合法公布に伴い北山農業会は解散し、翌1948年に北山農業協同組合が発足した。本部を湯川区
北山農協は1992年にちの、茅野市、原村、富士見町の各農協と合併した諏訪みどり農業協同組合の北山支所を経て2004年、諏訪湖農協と合併して信州諏訪農業協同組合北山支所となった。支所は旧北山村内の4店舗廃止後も存続していたが、2019年に営業所に格下げされたのち、2024年に廃止された。
観光
村民による温泉経営
村内の湯川山と芹ヶ沢山には、江戸時代に高島藩が所有し湯請人に運営委託していた3温泉(現在の蓼科温泉郷・奥蓼科温泉郷)があり、明治以降、地元住民が県から借り受ける形で営業を行った。北山村発足直後の1879年には次の状況だった(「北山村誌」)。
- 湯川山
- 滝の湯 - 浴場 3・宿舎 3・年間入湯客 約1,500人
-
親湯 (巌温泉) - 浴場 1・宿舎 3・年間入湯客 約1,300人
- 芹ヶ沢山
- 渋の湯 - 浴場 2・宿舎 4・年間入湯客 約3,200人
さらに1888年には渋の湯道沿いの横谷渓谷に面した芹ヶ沢山に接する豊平村南大塩山に明治温泉が開業した[12]。
交通の便が悪いため、明治末にかけて近隣各村の高齢農民の自炊湯治を主とする湯治場の状態が続き、外部からの観光客は少なかったが、小説家の伊藤左千夫や日本画家の平福百穂らが、湯川区の歌人、篠原
1903年に渋の湯が芹ヶ沢・糸萱新田財産区に、1909年に滝の湯・親湯が湯川財産区に払い下げられ、ともに10年おきに希望する財産区民[注 13]が参加した口競りによる入札を行って湯請人(湯坊)を決め経営を請け負わせた[13]。同時期に北山旅舎組合、北山温泉衛生組合、山浦鉱泉組合の各温泉業団体が発足し、道路整備や宿泊料の協定、防火衛生設備の充実や共同広告の実施などを進めた。また明治末期には滝の湯に近い湯川財産区有地内に
1900年代には茅野駅と各温泉を結ぶ茅野駅馬車組合の乗合馬車の運行が始まり、夏季を中心に次第に賑わうようになった。1919年には湯川区民で滝の湯の湯請人、矢崎源治が「滝の湯自動車」を創設し小型バスで茅野駅─湯川間を2時間で結び、1927年には茅野駅─滝の湯間の運行も開始した。同年には芹ヶ沢区民で渋の湯湯請人の辰野茂もバス2台を用いた個人事業で「渋の湯自動車」を始めた[14]。また1929年には矢崎源治や茅野・上諏訪の商店主らが滝の湯自動車を母体に「東諏自動車」を設立し、米フォード社製バスで茅野駅─湯川─小斉の湯間の乗合バス運行を開始した。
交通機関の発達で、これら北山村内の温泉の湯治客は伊那・佐久地方や山梨県などに拡大した上、夏には避暑・静養を目的とする東京などからの観光客が急増。また大正期から盛んになった八ヶ岳登山も、北八ヶ岳からの縦走者の増加にともない、渋の湯などが登山基地として多く利用されるようになり、1922年には糸萱区の篠原寛によって芹ヶ沢山
観光開発の始まり

1923年8月、上諏訪町高島小学校の校医小沢侃二らは、親湯で虚弱児童の高山保養訓練を行って良好な結果を収め、1924年には「上諏訪児童愛護会」を組織して小斉の湯で保養訓練を行ってその実績が国や医学界に注目された。
湯川財産区は湯請人の手で1927年から1928年にかけて、滝の湯近くの
翌1928年には文部省が小斉の湯から親湯にかけての湯川財産区内の現在のプール平周辺のエリアを「蓼科高原」の名称で高山保養地に指定し[注 14]、東京高等師範学校附属中学校など東京の各校の寮が建設されたほか、東京各地の尋常小学校などの夏季林間学校が開かれるようになり、美遊喜館や高原ホテルが林間学校の児童生徒を受け入れた。
このあと1942年には入札の結果継続して湯請することができなかった高原ホテル湯請人の牛山勝一が、温水プールの北側に新たに山紫閣を開業[13][15]。栂ノ木平は戦後、この温泉プールにちなみ「プール平」と名乗った[注 15]。また北山村内では滝の湯や親湯など既存の温泉や戦後にかけて新たに開業した宿泊施設の多くが温泉プールを設けるようになった[注 16]。
同時期に当地を襲った農村恐慌を受け、湯川財産区は旅館増設に続き1930年には別荘地経営も開始した。同年5月に蓼科高原初の別荘が建設されたのを皮切りに、1934年には東伏見伯爵家の別荘「蓼科御殿」が建てられるなど、栂ノ木平周辺に次々と別荘が誕生した。土地は売却せずに借地権を与える形を採り[16]、1935年当時の年間借地料は1坪4銭であった[16]。
別荘地化から数年後には早くも「発展は物凄いばかりで俗化の傾向すら萌している」[17]と評せられるほどの変貌を遂げ、湯川財産区有地における高原地帯住家戸数は、開発開始から10年を経た太平洋戦争勃発直前の1941年には288戸にまで増加。これとは別に財産区との別荘建設の用地借受契約も186戸分に達した。同年の避暑・保養観光客の入り込み客数は約3万人に達し、近代型の保養観光地として、戦後の観光開発の基礎となった。
また岡谷市(諏訪郡平野村、1936年市制施行)に本社を置く諏訪自動車は、蓼科高原の旅客輸送需要の高まりを見て同地に路線を持つ東諏自動車の買収を再三試みたものの、東諏自動車側がこれに抵抗したため成功しなかった[14]。諏訪自動車はのち戦時体制に伴う国の陸上交通統制の圧力を借りる形で1941年に東諏自動車の吸収を果たし、北山村に進出した[14]。
一方芹ヶ沢山外山財産区の渋の湯周辺では、明治温泉がある隣接の豊平村南大塩山(南大塩外六ヶ耕地入会共有地組合所有地)と一体となった観光開発が試みられた。1937年に芹ヶ沢区民の小松栄治が渋の湯の姥の湯源泉から引湯し同地に借地する形で渋之湯小松栄館が開業[12]。翌1938年には渋の湯自動車の辰野茂が、渋の湯の入口にあたる渋の湯道沿いの用地を南大塩外六ヶ耕地入会共有地組合から借地し、渋の湯の稚児の湯源泉から引湯して渋辰野旅館を開業した[12]。
しかしこれら北山村内の観光産業は戦時体制化で加速度的に衰退し、蓼科方面を結ぶ諏訪自動車のバス路線は1943年10月に運休。1944年4月には小斉の湯が日本鋼管諏訪鉱業所の事務所と勤労奉仕隊員の学生宿舎として、滝の湯は東京の産婦人科医院の妊産婦避難施設として、親湯・高原ホテル・美遊喜館の3館は野比海軍病院の保養施設としていずれも所有権ごと強制的に接収された。
高原観光の復興
白樺湖

柏原区民有志でつくる御座石造林組合が戦前に芦田村外三ヶ村共有財産組合から南部の琵琶石地籍を買収した芦田村大字立科八ヶ野の池の平では、1946年に農業灌漑用温水ため池が完成し、当時の県知事が命名した「蓼科大池」に代わり、柏原区民が考案した「白樺湖」の名称が用いられた。
池の平では、文部省実業学務局所管の実業教育国家統制機関として設立された財団法人実業教育振興中央会(1935年設立、現・公益財団法人産業教育振興中央会)が戦時中の1943年、同地の産業開発に着目して進出した。柏原区長の守矢仁作らと白樺湖造営事業に深く関与するとともに、1944年には同地に高原野菜や酪農の研究を行う「高原農業研究所」を開設した[18]。農業用地は当初守矢が池の平北東部の芦田村外三ヶ村共有財産組合所有地を借り受けた上でこれを実業教育振興中央会に転貸する予定であったが[19]、共有財産組合がこれを知って拒否。1945年に共有財産組合が直接実業教育振興中央会に貸し付けた[19]。
守矢は諏訪自動車の役員も務めており、同社は1948年9月、省営バス(国鉄バス)に先手を打つ形で茅野-池の平間の免許を申請し[20][注 17]、1949年2月に認可されて路線バス1往復の運行を始めた[20]。同年には琵琶石地籍で財産区によるバンガローの経営や観光馬車の営業が始まり、これを受けて実業教育振興中央会は「高原寮」を開設して学生を中心に一般観光客も対象にした旅館経営に乗り出した[18]。
高原寮はまもなく「池の平ホテル」と改称し[18]、当時湖岸にあった三井不動産(元三井本社所有)の山荘「三井寮」[注 18]、柏原財産区買収完了後の池の平山番人を務めた柏原区民の両角万仁武が1934年から営んだ茶屋兼スキー小屋「丸万小屋」(雷小屋、1955年「雷ホテル」に改称)[注 19]、池の平に近い芦田村立科八ヶ野の「多留賀沢鉱泉」(樽ヶ沢温泉)の4者で1950年11月20日に白樺湖地区観光協会が発足した[18]。1951年には池の平土地改良区から湖上の管理運営権を得た代行組合によって貸しボートの営業が始まり、1952年には白樺湖旅館組合が発足。1953年には池の名称が正式に白樺湖に改められた。
柏原財産区では土地の賃貸料やバンガローなどの事業収益をもとに、任意団体の柏原農業協同組合所有地となった琵琶石地籍の白樺湖周辺に旅館やホテルの宿泊施設を建設するなど観光開発を推進し、1951年には湖東村金山区の保科尚文による「ヒュッテ
1954年には無線電話の回線が貸しボートのボートハウスを兼ねた池の平土地改良区事務所に開設されたほか、西白樺湖までの郵便物集配も始まった。茅野町合併後の1956年には琵琶石地籍が立科村(1955年合併で発足)から茅野町に移管され、正式に柏原区に編入された。
一方、池の平ホテルを運営する実業教育振興中央会が芦田村外三ヶ村共有財産組合から借り受けていた東白樺湖の用地は1948年、「池の平での営農は気候条件から不可能」と指摘する共有財産組合の反対を押し切って、国の施策による「池の平開拓地」開設のため県が周辺一帯を買収し、実業教育振興中央会が開拓地入植者として県から貸与を受けていた[19]。しかし同会は実際には貸与農地を使った池の平ホテル事業を展開したことから、共有財産組合は反発して県の買収取り消しと返還を要求した[19]。
結局1955年に実業教育振興中央会は「開拓者ではない」と認定され、県は貸与している県有地について買収を取り消して共有財産組合に返還することを決定[19]。返還を受けた共有財産組合は、このうち既に池の平ホテル敷地として使われてしまっている部分に限り、開拓地入植者でつくる柏原池の平開拓農業協同組合に無償譲渡し、ここから池の平ホテルに貸し付ける形を採ることで妥結した[19]。
蓼科高原

湯川財産区有地の蓼科高原では終戦後直ちに主に若者層の旅行者が増え[22]、戦時中に東諏自動車や渋の湯自動車を吸収合併した諏訪自動車は1946年8月、旧東諏自動車線の湯川-小斉温泉間を再開させたが資材不足で同年11月に再び休止した[22]。その後地元の要請と旅行需要の高まりを受けて1948年5月に小型バス3台、1日4往復体制で茅野駅-蓼科間の運行を再開[22]。同年6月から8月までの夏山輸送期間中に2万5000人、翌1949年の同期には5万3000人を輸送した。
1949年5月には蓼科観光協会が発足し、温泉保養地から観光地への脱皮を目指して初の観光ポスターを作成。茅野駅構内に観光案内所を開設して観光宣伝事業を始めた。プール平では旧保健郷道路に面し冬季にはスケートリンクが設置された広場(馬場)周辺に、観光貸馬数十頭の基地(立場)や「万葉堂」などの土産物店・飲食店が建ち並ぶ「蓼科銀座」[注 25]と呼ばれる通りが出現した[23]。
一方1952年には、湯川区出身者中心の中山開拓団が農業開拓に携わっていたプール平の入り口にあたる湯川山の採草地に農業用貯水池「蓼科湖」が築造され、蓼科高原の範囲が中山地籍や南山地籍に広がった。これに合わせて開拓団員の手で同年、湖の南岸に23棟のバンガローが建設されたのを皮切りに、湖岸には次々とバンガローが設けられた。
この年には戦前からの滝の湯・親湯・小斉の湯(1954年、「蓼科観光ホテル」に改称)・高原ホテル・三幸館(旧美遊喜館)・山紫閣の蓼科高原6湯請人が出資して蓼科観光株式会社が設立され、蓼科湖畔の観光開発を湯川区から受託。冬季の観光客誘致を目指して天然スケートリンクの整備に取り組んだ。同社のスキームによって他村の温泉経営者も加わる形で「湖畔ホテル」[注 26]と「蓼科湖ホテル」[注 27]が開業し、土産物店として「蓼科湖ハウス」のほか、プール平の「万葉堂」[注 28]も湖畔に出店した[23]。
一方で同社は、自家用バス2台を購入して無償を建前とする観光客輸送(実質的には有償の違法輸送)[22]も始めた上、蓼科線を持つ諏訪自動車に対して会社に出資するよう要求したが、諏訪自動車側がこれを断ったため、一時両社の関係が悪化した[22]。まもなく地元選出の代議士、小川平二の仲介で和解し、自家用バス輸送は廃止された[22]。
湯川財産区はこの間も、蓼科6温泉の営業は10年ごとの入札請負制に基づいて落札した財産区民にしか認めなかったが、経営者が固定しないため事業急拡大を目論んだ設備投資がしにくい弊害があった[13][注 29]。このため1960年に6温泉や蓼科湖などを含む湯川山206haを東洋観光事業株式会社(トヨタ自動車販売子会社、のち松本電気鉄道子会社)が湯川財産区から3億円で買収した際には、6温泉および蓼科湖ホテルと湖畔ホテルは賛同してこれを推進。それぞれいったん東洋観光事業の所有となったあと、それぞれの湯請人が買い戻しまたは借り受ける形で経営権を固定した[13][注 30]。
奥蓼科
芹ヶ沢山外山財産区の渋の湯は天狗岳への登山口に面していることから、終戦と共に訪れた登山ブームを受けて渋の湯や渋の湯道沿いの各温泉では特に登山客の利用が急増。1950年代半ばには外山財産区から豊平村南大塩山にかけての一帯を「奥蓼科」と名乗るようになった[24]。
姥の湯源泉を引く小松栄館は1950年、「渋の湯ホテル」[注 31]に改称して登山客の宿泊に力を入れ、1953年には
石遊場に近い県道穂積茅野線沿いの緑山地籍では、大正末期に開業しまもなく閉業した湖東村笹原区の「笹原温泉」の建物を移築して1936年に開業した「緑山温泉」があり、戦時中に日本鋼管諏訪鉱業所の徴用工収容施設となったため廃業したが、1951年に湖東村金山区民の保科政人がこの旧緑山温泉の源泉を引湯して横谷峡谷上流部の右岸に「渋川温泉」(保科館)[注 32]を開業した。また同年には糸萱区民の宮坂元雄が緑山に宿泊施設の「緑山バンガロー」[注 33]を開業した。
横谷温泉(横谷温泉旅館)は1938年に施設が全焼する火災に見舞われたが、1953年に創業者の篠原寛によって再建を果たし営業を再開した[注 34]。また渋辰野旅館(辰野館)は1956年、八ヶ岳稜線の登山道に面した麦草峠付近の白駒池(南佐久郡北牧村)にあった「麦草小屋」を元に旅館「白駒荘」を開設した[25]。
蓼科湖築造の背景:農業水利と別荘地開発の対立

湯川中山の採草地に1952年完成した蓼科湖は、滝ノ湯川支流の小斉川の水を旧来より堰に利用していた滝之湯堰側と、湯川財産区が開発を始めたばかりの別荘地への利水を目論んだ湯川区との、1930年代の水争いが発端となって誕生した[26]。
北山村内の芹ヶ沢区および糸萱区と豊平村、湖東村の滝之湯堰流域計16区でつくる滝之湯堰普通水利組合(現・滝之湯堰土地改良区)は1930年ごろ、流末の渇水予防のために流域に貯水池を築造する構想を持っていた[26]。その矢先の1933年、湯川区は財産区が開発した小斉地籍の別荘地に供給する水を確保するため、栂ノ木平(プール平)東方の沢にある小斉川の湧水部をコンクリートで固めて引水する工事を行った[26]。
これに対し滝之湯堰側は水利妨害排除の訴訟と仮処分の申請を行い、警察立ち会いのもと、滝之湯堰側は滝ノ湯川源流域にある城の平地籍の湧水を飲用水として湯川財産区の別荘地に供給することを認める一方で、小斉川湧水部については湯川区がコンクリート構造物を撤去し原状復帰すること、および将来の滝之湯堰貯水池建設時には湯川区が滝之湯堰普通水利組合に一時金を寄付することを取り決めた協定が両者間で結ばれた[26]。
しかし湯川区側はその後も協定に基づく原状復帰を履行しなかったため、滝之湯堰側は協定の取り消し請求と再度の訴訟を起こすとともに、1935年には湯川区が撤去しようとしない湧水の構造物を取り除く工事を始めた滝之湯堰側に対し、湯川区民が詰めかけてこれを阻止しようとしたため、滝之湯堰関係区民も集結して数百人が栂ノ木平の広場(現・プール平テニスコート周辺)で対峙する、後年プール平事件と呼ばれる衝突が起きるなど[26]、両者間で刑事事件や民事訴訟が相次いで発生した[26]。
1936年、上諏訪警察署長の調停で湯川区が滝之湯堰普通水利組合に寄付金を支払って和解したのち[26]、戦後の1949年になって、湖の管理と農業水利権は滝之湯堰が、ボートやスケートなどの湖面利用および養魚といった観光利用権は湯川区が持つ条件で、堰と湯川区の両者負担により、湯川財産区内の現在地に小斉川の貯水池を建設することで一致した[26]。湖は長野県の土地改良事業として県単工事で築造され、以後滝之湯堰と湯川区との水争いはなくなった[26]。
しかしこののち別荘地開発と農業水利に関わる同様の紛争は、観光開発の拡大に伴い、サカサ川水論(大河原堰×芹ヶ沢山内山・外山財産区、1964年~1973年)、蓼科山麓保健休養地開発水利論争(大河原堰×長野県公営企業局、1970年)などに広がっていくことになった。
諏訪鉄山
北山村内芹ヶ沢山の鉄鉱石鉱床は古くから知られ、元亀・天正年間に武田信玄が当地で鉄の精錬を行ったという言い伝えもあった[27][28]。鉱床は主に酸化鉄などを含有する褐鉄鉱で構成され、硫酸酸性の鉱泉成分が旧石器時代にかけて沢の緩傾斜地に沈殿し形成されたとみられている[28]。
1879年5月には湯川耕地の柳沢幸助らが芹ヶ沢山外山の
日本鋼管諏訪鉱業所

浅野財閥傘下の日本鋼管株式会社(現・JFEエンジニアリング)は1928年、西村より鉱業権を譲受し、北山村湖東村一部事務組合の許可を得て試掘を開始した[29]。
日本鋼管は芹ヶ沢山の含燐褐鉄鉱について、トーマス転炉製鋼法を用いる新しい製鋼法を採用して製鋼利用するめどを立て[27][注 36]、日中戦争勃発の1937年に直営の日本鋼管諏訪鉱業所を設置。翌1938年に日本鋼管川崎製鉄所(のち日本鋼管京浜製鉄所、現・JFEスチール東日本製鉄所京浜地区)に20tトーマス転炉5基を持つ工場が操業を開始したことを受け[30]、関東運輸株式会社(旧・浅野同族株式会社回漕部)が下請けとして鉱業所を運営し、露天掘りによる鉄鉱石の採掘を本格化させた。1944年には日本鋼管傘下の鉱業関係会社と直営鉱業所を統合して設立された戦時国策会社の日本鋼管鉱業株式会社に移管され、日本鋼管鉱業諏訪鉱業所となった。
鉱区・設備
鉱区は含燐褐鉄鉱を産出する諏訪鉱区(諏訪鉱)の
主力である諏訪鉱区は芹ヶ沢山から湯川山にかけての約2km四方内にある沢筋を中心に各鉱床が点在する小規模鉱山で、最大の長尾根鉱床で長さ600m幅170m、1950年代前半まで鉱業所の中心となった石遊場鉱床は東西360m南北110m、厚さはおおむね2mから10mであった[31]。終戦までは長尾根鉱床および石遊場鉱床、池ノ胡桃鉱床が稼行の中心で、戦後は1950年代前半まで石遊場鉱床で稼行したほか、新たに鉱床を確認した緑山鉱床、鉄砲尾根鉱床、中山第三鉱床などに稼行が移った。
褐鉄鉱は含燐の諏訪鉱、普通の明治鉱とも低品位(鉄含有率45%未満)であったため、戦時末期には石遊場に鉱物中の酸化鉄を還元する簡易焼結炉20基を設け、鉄含有率を45%以上に引き上げた焼結鉱を作って日本鋼管川崎製鉄所へ送鉱した。コンクリート製600t貯鉱槽2基を石遊場に、また同2000t貯鉱槽1基を芹ヶ沢神社(芹ヶ沢子之社)と湖東村山口区
茅野駅構内北東側には側線に隣接する高さ2mほどのコンクリート擁壁上に設けた約2,000坪の敷地(のちの茅野市民会館および同駐車場用地、現・茅野市民館の一部)に諏訪鉱業所事務所と鉱石置場、鉱石積込場を置き[33]、花蒔貯鉱場からトラックで輸送した鉱石を擁壁下の駅構内側線に停めた貨車上に直接積み卸した[34]。1943年には鉄道省名古屋鉄道局茅野自動車区の省営トラック(国鉄トラック)北山線が開設され、省営トラックで隊列を編成したピストン輸送が行われた[35]。
戦時体制とその崩壊
軍需省が要求する送鉱量の急増に省営トラックの輸送力が追いつかなくなったことから、同省は1943年12月、戦時特例の「特殊専用側線」制度を適用して当時鉱業所を運営していた日本鋼管に鉱石輸送用の茅野駅専用側線[36][注 39][注 40](俗に諏訪鉄山鉄道とも呼ばれた)を翌1944年9月までに敷設するよう命じた。花蒔貯鉱場から上川沿いに米沢村、永明村を経て茅野駅に達する約10kmの駅専用側線は運輸通信省が建設を受託施工し、鉱業所が日本鋼管鉱業に移管された後の1944年末に供用を開始。国鉄上諏訪機関区のC12形蒸気機関車が乗り入れて輸送を始めた。
しかし中央本線の輸送力が平時から貧弱であったことと、戦局の急速な悪化を受けて国内の鉄道貨物は混乱し空き貨車の手配も困難であったことから、軍需省の現実離れした過大な計画どおりに京浜地区に送鉱することはそもそも不可能だった[37]。さらに1945年に入ると地方都市への空襲も激化して製鉄所への鉱石輸送は麻痺状態に陥り[37]、各地からの送鉱が途絶えたことで国内の鉄鋼生産は軒並み停止状態に陥った[38]。日本鋼管川崎製鉄所では原料不足から同年2月の第3高炉休風を皮切りに7月には全高炉の休風に追い込まれ[38]、トーマス転炉も稼働を停止したことから諏訪鉱区産の含燐褐鉄鉱を原料とした製鉄は不可能となった。
しかし軍部はなおも連合軍上陸後の「本土決戦」における製鉄拠点であるとして、諏訪鉄山を「非常措置」の対象とし、「諏訪地方決戦製鉄設備急設要項」と称する計画策定を始めた[37]。そして山梨県の日本電化工業日下部工場に送鉱して鉄鉱および化学肥料の生産を行う現地製鉄作業案を内示したものの、程なく終戦を迎えて諏訪鉱業所の採鉱作業は終了した[37]。鉱業所最大の鉱床であった長尾根鉱床は、この戦時末期の濫掘で終戦時にはほぼ鉱床を掘り尽くした[27]。
1944年8月現在の鉱山労働者は1,639人で、内訳は鉱山作業員が鉱員328人、徴用工221人、臨時工69人。建設作業員が鉱員339人、徴用工682人。徴用工は諏訪郡内で兵役に服していなかった壮年男性約700人と、朝鮮半島の朝鮮人青壮年約200人で、ともに石遊場近くの緑山温泉に収容され採鉱作業に従事した。また立命館大学学生20人、諏訪中学校4年生100人が勤労奉仕隊員として小斉の湯に収容され、中学生は二交代制で石遊場での焼結作業に従事したほか、横浜に収容されていた連合国軍(アメリカ・イギリス・オランダ)捕虜約250人が長尾根近くの収容所に移送され採鉱作業に従事していた。
終戦後、9月10日に連合国軍兵士は横浜に、朝鮮人徴用工は博多にそれぞれ引き揚げた。鉱業所では明治鉱床で普通褐鉄鉱の採掘がごく小規模に継続されたもののほぼ休山状態となった[27][28]。諏訪鉱業所は翌1946年からのインフレ激化の中、化学肥料原料として特にリン含有量の高い燐鉱および鉄明礬石鉱の生産を試みて操業を再開したものの、再開後に採算割れが判明し、納入先に見込んだ企業も肥料生産事業を見合わせたため再び休山に追い込まれた[28]。
軍需を背景に国家総動員体制が供給する安価で大量の労務者に支えられた[39]戦時中から一転して窮地に陥った諏訪鉱業所は、農機具の製造のほか、戦時体制で没落した蓼科高原に観光客が戻ることはないと踏み鉱業所の事業として別荘建屋を買い集めて運び去り戦災地が広がる住宅難の東京で販売する珍策までも行おうとした[40]。鉱業所の経営が迷走混乱する中、1947年には供用開始以来目的を果たすことができなかった茅野駅専用側線がわずか2年余で全面撤去された[注 41]。
日本鋼管は1949年1月、側線用地を沿線の地元町村に無償譲渡した。北山、米沢、湖東、豊平の4村は、長野県が戦後策定した「八ヶ岳総合開発計画」に基づく交通機関整備の一環として、側線跡地を「北山鉄道」として復活させようと同月から運輸省、農林省、長野県などに陳情を繰り返したものの実現せず、用地は1951年1月に北山、米沢、ちのの各町村道に認可されて一般道路となり[41]、「鉄山道路」と通称された。
諏訪鉱業開発諏訪鉱業所

日本鋼管は1948年5月、諏訪興業株式会社を設立し[42]、関東運輸による操業開始時から鉄山運営を指揮してきた日本鋼管鉱業諏訪鉱業所所長の高野太治郎を社長に据えて諏訪鉱業所の鉱業権を譲渡した[27][28]。日本鋼管川崎製鉄所では翌1949年6月、戦時中に休風した全高炉のうち、トーマス転炉用高燐銑を出銑する第4高炉が火入れを行って復旧したことを受け[43]、同年7月にトーマス転炉も操業を再開して[43]含燐褐鉄鉱の受け入れが可能になった。鉱業所も本格的に操業を再開し[28]。1950年には諏訪鉱業開発株式会社に改称した[42]。
諏訪鉱業開発は諏訪鉄山撤退時点でも日本鋼管が株式の35%を保有する[44]筆頭株主で、本社は東京都千代田区神田錦町の日本鋼管神田橋分室に置き、諏訪鉄山の施設のほか、茅野駅に隣接する鉱業所事務所、鉱石置場、鉱石積込場を承継した[27][33]。計画生産能力は諏訪鉱(含燐褐鉄鉱)が月産5,000t、明治鉱(普通褐鉄鉱)が同1,500t[27]。1950年の朝鮮戦争勃発で採鉱量が急伸し、1953年にかけて毎年年産5万t以上、月産4,500t前後の褐鉄鉱を産出した。
採掘した褐鉄鉱は石遊場の切羽で直接トラックに積み込み茅野駅まで輸送して発送した[45]。明治鉱は索道で石遊場に送っており、明治鉱のうち1952年夏から採掘が始まった清水官林鉱床はガソリン動力の軌道で明治採鉱場まで運んでいた[45]。ピーク時の1951年の従業員数は約150人だった。
急速な鉱床の枯渇
太平洋戦争中に鉱床がほぼ尽きていた長尾根鉱床に加え、朝鮮戦争が終結した1953年には他の各鉱床でも採鉱に耐えうる鉱石が尽き始めたことから、諏訪鉱業所の生産量は同年以降、縮小に転じた[27]。諏訪鉱業開発は諏訪鉄山の資源枯渇を見越して1952年から1960年にかけて全国各地の小規模な低品位褐鉄鉱山などの鉱業権を多数譲受し、このうち秋田鉱業所(秋田県)、青森鉱業所(青森県)、尾勢鉱業所(岐阜県)、伊那鉱業所(長野県伊那市)、網走鉱業所(北海道)、豊栄鉱業所(長野県埴科郡豊栄村)の各鉱業所を開設[27][46][42]。採掘が終了した明治鉱から石遊場までの索道設備を撤去して1956年開設の秋田鉱業所に移設するなど[47]、縮小が不可避となった諏訪鉱業所の設備や資機材、従業員をこれら他地域の鉱山に続々と転出させていた[27][注 42]。
戦後の操業本格化からわずか10年後の1959年には、主力鉱床だった石遊場を含む7鉱床が枯渇で既に採鉱終了に追い込まれて撤退もしくは残鉱整理のみを行っており、稼行中の鉱床は糸萱上の鉄砲尾根鉱床[注 43]と五味出鉱床[注 44]、それに大部分が採掘済みだった湯川山の中山第三鉱床[注 45]の計3切羽[28]。長尾根鉱床での残鉱整理分[28]を合わせた生産量は、戦後最盛期の3割にも満たない月産約1,200t程度であった[28]。現地事務所は糸萱区
減少する諏訪鉄山の可採鉱量把握のため、周辺の金堀場、蕨原、
電力
諏訪地方では明治から大正初期にかけて諏訪電気株式会社が電力供給区域を逐次拡大していたが、北山村では同社の供給開始を待たずに1915年5月18日、村会議員の篠原重蔵が[49]自宅所在地に地元の滝ノ湯川を利用した発電を目的とする湯川水力電気株式会社を設立し、湯川区と電力供給契約を締結した。
功徳寺近くの湯川区
篠原は1916年1月に北山村長に就任したが[1]、1917年9月には村長を退任して[1]会社を増資し湯川電気株式会社に改称[53]。翌1918年、柏原区多々羅沢地籍の音無川に発電量の大きい水路式の交流発電機(出力70kw、最大電圧2,500V)による第二音無川発電所(のち諏訪電気音無川発電所、1931年廃止)を建設して[51][54]北山村全域への送電を開始した。1921年に諏訪電気に買収された。
文化
江戸時代、上諏訪の町人を起点に諏訪郡一円に広まった俳諧熱は明治以降も続き、北山村でも郡内各村と同じく俳句、短歌に親しむ村民が多く、明治中期以降、結社や研究会が結成された。
- 荻原春堂(玄寄、1807年-1886年) - 俳人。湯川区民。
- 北澤鹿右衛門(饒楽、1858年-1886年) - 俳人。芹ヶ沢区民。
- 篠原
志都児 (本名・篠原円太、1881年-1918年) - 歌人。伊藤左千夫門下。湯川区民で農業を営みつつ短歌研究や作歌活動に精通し、同門で諏訪郡上諏訪町角間区出身の島木赤彦をはじめ、長塚節、斉藤茂吉らとの交友も深く、赤彦らが1903年に創刊した諏訪地方の文学雑誌『氷むろ』(比牟呂)同人としても活動。大正初期にかけて「田園歌人」として名を成した。蓼科高原を避暑保養地として広く知らしめるきっかけをつくったことでも知られる。短歌結社「北山短歌会」を結成。 - 両角竹舟郎(1882年-1954年) - 俳人。高浜虚子門下。柏原区民で、虚子による定型・季題の伝統を守り、諏訪地方の俳句界に貢献。俳句結社「交阿会」を結成。
教育
北山村域では1873年の学制頒布を受けて歓喜小校(柏原村歓喜院境内)、旭映小校(湯川学校・湯川村功徳寺境内)、開宗小校(芹ヶ沢学校・芹ヶ沢村泉渋院境内)がそれぞれ開校。1885年の教育令改正を受けた連合村単位の学区設定では、米沢村北大塩学校を本校とし、湯川、芹ヶ沢、埴原田の各校は同校に合併して支校となった。
1889年の連合村制度廃止と町村制施行に伴い北大塩学校から分離し、湯川区に北山尋常小学校、芹ヶ沢区に北山尋常小学校芹ヶ沢分教場が設置された。芹ヶ沢分教場は尋常科3年までを受け持ち、分教場児童も尋常科最終学年の4年次のみ湯川の本校に通った。1900年、小学校令改正に伴い高等科を設置し北山尋常高等小学校に改称。1901年12月22日、湯川区と芹ヶ沢区の中間地点にあたる高台の湯川区
高等学校
- 組合立長野県永明高等学校北山分校 - 定時制分校、1948年5月開校。湖東分校(定時制)と統合して1952年閉校し花蒔分校(湖東村山口区花蒔)となる。のち長野県茅野高等学校花蒔分校。花蒔分校は1966年に募集停止し跡地は花蒔公園となった。
中学校
- 北山村立北山中学校 - 北山小学校と校舎共用の形で1947年開校。湖東村との組合立化による校舎設置構想もあったが、北山村単独で1952年、小学校隣接地の湯川区
炭焼場 地籍(現・茅野市北山保育園)に校舎新設。のち茅野町立北山中学校。1958年に茅野町立北部中学校北山部となり、校舎が完成した1960年、米沢部、湖東部、豊平部とともに茅野市立北部中学校に統合。
小学校
- 北山村立北山小学校 - 旧称は北山村立北山尋常小学校(1889年-1900年)、北山村立北山尋常高等小学校(1900年-1941年)、北山村立北山国民学校(1941年-1947年)。1901年建設の初代校舎(北校舎)が老朽化に伴う耐久性検査の結果使用禁止となったため、1954年に西体操場を残して木造2階建ての二代目校舎に建て替えた。のち茅野町立北山小学校。現・茅野市立北山小学校。
宗教
(1876年現在[55])
神社
- 子之社(芹ヶ沢区)- 村社、祭神・大巳貴命
- 子之社(湯川区)- 村社、祭神・大巳貴命
- 子之社(柏原区)- 村社、祭神・大巳貴命
- 子之社(糸萱区)- 村社、祭神・大巳貴命
寺院
交通
道路

- 大門街道 - 古来より大門峠から北山、湖東、豊平村を経て永明村で甲州街道に合流する善光寺道または大門道と呼ばれる主要道路があり、明治期に諏訪郡会による郡費管理ののち、県道大門街道に昇格した。北山村内における当時の県道ルートは、湯川区
寺上 の筆塚から芹ヶ沢区水上 を経て渋川を飛岡 橋(1916年以前は現橋より約100m下流のお茶清水正面付近にあった)で越し、同区下島のお茶清水より段丘上に上がったのち、北山村・湖東村境沿いに南下して湖東村山口区角石 で渋の湯道と合流していた(現在はすべて市道)。一方、湯川区寺上の筆塚から芹ヶ沢区城口 の渋川橋北詰に至る「湯川道 」は、旧来北山尋常高等小学校の校地東側にあったもの(現在の北山小学校校地内市道)を大正末期、児童の通学道路として小学校の南側に付け替えて整備したもので「新道 」とも呼ばれ、1932年にはこの湯川道新道から渋川橋、湯殿坂 、せいかん坂を経て角石地籍に至る芹ヶ沢集落経由ルートが飛岡橋経由に代わって県道大門街道に編入された。のち1955年に県道上田茅野線となり、1993年に国道152号に編入[注 48]。 - 穂積線 - 八ヶ岳茶臼山南方の大石峠(標高2185m)は近世から佐久郡大石村と諏訪郡芹ヶ沢村を結ぶ大石道があり、江戸時代には馬による物資輸送が行われ、明治以降に北山浦諸村で盛んになった養蚕業従事のための住み込み雇人が佐久側から入るルートにもなった(登山道として現存)。1927年以降の農村恐慌を受けた県の「救農土木事業」の一環として、1932年から1933年にかけて大石峠南隣の別の鞍部(標高2120m、現・麦草峠)を新たに開削して北山村より南佐久郡穂積村(現・佐久穂町)に至る道路の改修工事が行われ、北山村と湖東村の地域農民が従事した。北山村内では芹ヶ沢区四つ辻の
国道 地籍から糸萱区に至る「糸萱道 」が相当し、工事後の1935年に県道穂積茅野線に昇格。のち県道野沢茅野線(1955年)、県道茅野佐久町線(1966年)を経て1982年に国道299号に編入[注 49]。
自動車路線
- 諏訪自動車株式会社
- 茅野営業所(のち諏訪バス株式会社茅野営業所、現・アルピコ交通株式会社茅野営業所)
- 米沢線(茅野-塩沢ー湯川)※一部が現・通勤通学バス米沢線。旧東諏自動車線。
- 北山線(茅野-山寺-芹ヶ沢-湯川)※現・通勤通学バスピアみどり線。
- 渋川線(茅野-山寺-芹ヶ沢-糸萱-鉄山-渋川、糸萱-笹原)※一部が現・麦草峠線。当時の鉄山停留所は現在の緑山停留所。
- 池の平線(茅野-山寺-湯川-白樺湖)※一部が現・通勤通学バス白樺湖・車山高原線。1949年開設。1955年白樺湖-樽ヶ沢間延伸開業。
- 蓼科線(茅野-山寺-湯川-滝ノ湯-プール平ー親湯)※一部が現・北八ヶ岳ロープウェイ線。旧東諏自動車線。
- 奥蓼科線(茅野-山寺-堀-笹原-渋の湯、笹原-白井出)※現・奥蓼科渋の湯線。旧渋の湯自動車線。山寺経由以外に笹原止めの南大塩経由系統もあった。
- 茅野営業所(のち諏訪バス株式会社茅野営業所、現・アルピコ交通株式会社茅野営業所)
- 日本国有鉄道自動車局中部地方自動車事務所(のち国鉄中部地方自動車局)
- 下諏訪自動車営業所
- 白樺湖線(丸子町-大門落合-白樺湖) - 旅客自動車線。 1952年7月に和田峠線(上田-下諏訪)支線として入大門-白樺湖(のち西白樺湖)間が開業。国鉄は当初大門街道を経由して北山村内を縦断し茅野までの路線開設を計画し免許申請したが、地元柏原区の区長が役員を務めていた諏訪自動車が池の平線を半年先行して免許申請して認可を受け開業(1949年)したことで国鉄側は白樺湖止まりとなった。
- 茅野町合併直後の1955年3月に白樺湖-東白樺湖-芦田-長窪古町間が開業して上田、小諸の2方面から白樺湖への乗り入れを開始。1957年に小諸線(1972年白樺高原線に改称)支線に変更されて信越地方自動車事務所小諸自動車営業所(のち信越地方自動車部小諸自動車営業所→関東地方自動車局小諸自動車営業所→ジェイアールバス関東小諸支店)に移管。1965年に信濃三本松-白樺湖-南平-蓼科温泉(プール平)間(のち蓼科高原線)が諏訪自動車、千曲自動車との共同運行で開業したほか、1968年には霧ヶ峰線(霧ヶ峰-白樺湖)が下諏訪自動車営業所との共同管理線として開業したが、蓼科高原線は1992年に、白樺湖線と霧ヶ峰線は2004年にそれぞれ廃止。
- 白樺湖線(丸子町-大門落合-白樺湖) - 旅客自動車線。 1952年7月に和田峠線(上田-下諏訪)支線として入大門-白樺湖(のち西白樺湖)間が開業。国鉄は当初大門街道を経由して北山村内を縦断し茅野までの路線開設を計画し免許申請したが、地元柏原区の区長が役員を務めていた諏訪自動車が池の平線を半年先行して免許申請して認可を受け開業(1949年)したことで国鉄側は白樺湖止まりとなった。
- 伊那自動車営業所(元・名古屋鉄道局甲府管理部茅野自動車区→中部地方自動車事務所茅野自動車営業所)
- 下諏訪自動車営業所
鉄道路線
- 日本鋼管鉱業諏訪鉱業所茅野駅専用側線(花蒔─茅野間) - 延長約10キロ。軍需省の命で日本鋼管鉱業が敷設保有した茅野駅の特殊専用側線[36]で1944年末供用開始、1947年施設撤去。トラックへの鉱石積み込み施設として芹ヶ沢区下島(花蒔下)地籍に設けていた日本鋼管鉱業花蒔貯鉱場と茅野駅構内を結んだ(国鉄資料では花蒔貯鉱場の貨物を扱った国鉄トラック北山線信濃松原駅の名を採って松原-茅野間としている)。全線が茅野駅構内の貨物側線であったため、一般的な鉄道路線と異なり停車場も停留場もない簡素な路線であったが、「諏訪鉄山鉄道」とも俗称された。花蒔貯鉱場では貯鉱場下からいったん東方の芹ヶ沢区
下原 地籍の渋川左岸沿い(芹ヶ沢区子之社西)に設けた引き上げ線に列車を引き上げたあと、渋川に沿って下り勾配で西方の米沢村塩沢区方面に向かうスイッチバック構造を採っていた。- 供用開始が大戦末期の輸送混乱期ですぐに鉱石輸送自体が不能となった上、1945年に入ると送鉱先である日本鋼管川崎製鉄所も原料不足による高炉休風が相次ぎ、結局全高炉が止まって1949年まで復旧できなかったことから、専用側線は供用開始以来ほぼ何の実績もないまま鉱業所休山中の1947年に日本鋼管が全施設を撤去した。用地は沿線自治体に無償譲渡され、北山村、米沢村、ちの町の町村道、のち茅野町道、茅野市道となったあと(通称・鉄山道路)、花蒔貯鉱場跡から米沢塩沢区にかけての旧北山村内区間と隧道があった旧永明村・米沢村境の鬼場橋付近を除くほぼすべてのルートが1963年供用開始の蓼科有料道路の一部に転用。1987年に一般道路となり県道(茅野停車場八子ヶ峰公園線)に編入された。
- 佐久諏訪電気鉄道線(柏原-茅野間) - 未成線。第1期線(信越線田中駅-中央線茅野駅間)の一部として1924年5月1日着工。延長4マイル。北山村内では芹ヶ沢、湯川、柏原の3か所に駅を設ける計画[57]で、芹ヶ沢区下島地籍の段丘上から下原地籍の渋川左岸に至る下り勾配の切り通し、下原から渋川右岸の同区水上地籍に至る渋川鉄橋橋脚建設および湯川区炭焼場地籍(北山尋常高等小学校校庭南東側)の上り勾配切り通し掘削工事が1929年ごろまで行われたが[58]、昭和恐慌により切り通し工事の途中で中断された[58]。
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
芹ヶ沢区・糸萱区
- 朝倉山城(塩沢城) - 戦国時代、大門街道入り口にあたる湯川区を見下ろす朝倉山(北山村芹ヶ沢区・米沢村塩沢区境界)山頂に設けられた武田家の砦。稜線沿いに堀切で分割された主郭などの郭群跡が残る。
- お茶清水 - 飛岡(現在の芹ヶ沢区
水上 、湯川区飛岡 地籍周辺)を通っていた戦国時代の大門道は武田家の「中の棒道」といわれ、のちの下島地籍にある湧水は信玄が茶を点てて飲んだと伝えられる。周辺は戦時中、日本鋼管鉱業諏訪鉱業所花蒔貯鉱場と専用線の貨物駅が設けられた。 - 休息石 - 芹ヶ沢区内の渋川橋に至る村道(のち県道上田茅野線、現・国道152号)と県道穂積茅野線(のち県道茅野佐久町線→国道299号、現・茅野市道)が分かれる四つ辻(現・芹ヶ沢交差点)にかつて存在した石。武田信玄が休息したとのいわれがあった。ここより北に渋川橋までの緩い下り坂は「
湯殿坂 」と呼ばれ、信玄が渋の湯の湯を運び入浴した言い伝えがある。またこの四つ辻から東の地籍である「国道 」は、この場所で信玄が「国への道はいずれか」と尋ね、家来が東を示したことから名付けられたとされる。 -
冷山 ・渋の湯 - 八ヶ岳の冷山(標高2193m)は、川中島合戦後にこの地を訪れた信玄が「この水冷たし」と言ったことから名付けられたとされる。このとき信玄は湯川村滞在時に夢で湯谷権現を見たことから冷山の麓の渋の湯に登り、21日間(三廻り)泊まって回復したことから、「三廻り止める」にさんずいを付けた「澁の湯」と名付けたという。
湯川区

- 上之段石器時代遺跡 - 湯川区集落の北方。尖石遺跡(豊平村南大塩区)・駒形遺跡(米沢村北大塩区)と並ぶ八ヶ岳山麓縄文遺跡を代表する遺跡の一つで、黒曜石産地であった和田峠・星糞峠の入り口に位置する。宮坂英弌が1936年に発掘調査を行い、畑の地下80センチメートルの場所に縄文時代中期の立体的把手と石囲炉址を発見した。晩期を中心に早期以降の縄文時代各期の土器が出土しているほか、平安時代にかけての遺物が多数出土している。尖石遺跡とともに1942年、国の史跡に指定。
- 原の城 - 戦国時代に飛岡橋より北方の湯川集落入り口に設けられた武田家の砦。北山小学校の西方一帯に相当する。軍勢の中継地や街道の関所として用いられたと見られ、大規模な掘り割りや土塁が設けられていた。
- 枡形城 - 戦国時代に原の城北方、滝ノ湯川左岸に設けられた武田家の砦。滝ノ湯川と「砦の沢」と呼ばれる東西に伸びる掘り割りに挟まれた台地に土塁や空堀を設けたもので、城門には武田家の城に特有の「丸馬出し」が設けられていた。付近には江戸時代、高島藩の関所が設けられた。戦後実施された耕地整理に伴い、砦の沢の一部が残る以外遺構は現存しない。
- 鬼石 - 湯川区から蓼科高原に上る古道・滝の湯道沿いにある石。上面に大きな鬼が浅間山から蓼科山へ一またぎした次の一歩の足跡が付いたとされている。のち横に蓼科有料道路が開削された。湯川区からの滝の湯道は、鬼石付近よりやや上で芹ヶ沢区からの滝の湯道と合流しており、以奥の滝の湯道は蓼科有料道路に転用された。この言い伝えでは、豊平村
鬼場 (鬼のさらに次の一歩の跡)、玉川村矢作神社(粟沢、神々が鬼退治のため矢を作った神社)、永明村矢ヶ崎 (ちの町本町、放った矢が飛んだ先)、宮川村茅野 (矢を受けた鬼の血が流れた地)、米沢村埴原田 (鬼を焼いた灰に覆われた地)は、この時の一連の出来事に基づく地名とされる。 - だるま石 - 鬼石よりさらに上、滝の湯道(現・県道茅野停車場八子が峰公園線)とお
鹿山 (現・東急リゾートタウン蓼科=鹿山財産区区有地)に入る道との分岐付近にある。立ち達磨と寝達磨の2つの石があり、旅人が寝達磨に腰を下ろしたところ、尻が石から離れなくなり、にらめっこしたが旅人が根負けして石にあやまったところ、自然への感謝の気持ちを忘れるなと石に諭された言い伝えがある。
柏原区
- 銭岩 - 白樺湖南岸より約100m上の別荘地内にあり、武田信玄が軍用金を埋めたという伝説があった。かつて炭焼きのために訪れた柏原区民が宋銭を発見している。
- 御座岩 - 白樺湖北岸。御座岩岩陰遺跡があり、下部の洞窟から縄文早期の遺物が発見されたが、洞窟部は白樺湖造営に伴い水中に没した。古東山道から信濃国府(上田)方面への道が分岐する古代交通の要衝で、諏訪明神が休んだ「御座岩」、武田信玄が北信濃出兵時に腰掛けた「腰掛岩」とも呼ばれる。
脚注
注釈
- ^ 現在の柏原区・湯川区・芹ヶ沢区・糸萱区と、湯川区を親区とする蓼科区、芹ヶ沢区を親区とする蓼科中央高原自治会、柏原区を親区とする白樺湖自治会・車山高原自治会・緑の村自治会(『茅野市暮らしのガイドブック2019年』p.20、茅野市)。
- ^ 現在茅野市役所が毎年刊行またはインターネット上に公開している『茅野市の統計』(茅野市役所企画総務部企画課編)の年表「茅野市のあゆみ」では、1941年の役場庁舎完成の「同年」に全焼し、1954年の再建まで北山村は13年間役場庁舎を持てなかったという扱いをしているが、これは全焼と再建が同年であったことと混同した誤記を長年チェックせず転載を続けている市役所の誤りである。役場隣接の北山小学校「学校日誌」1954年10月30日付には、火災状況および新校舎(1954年9月着工、同年12月完成)建築現場に入っていた大工らによる西体操場への延焼防止活動など学校側対応の記載がある。
- ^ 約2か月で再建された役場庁舎は合併後、北山農業協同組合、諏訪みどり農業協同組合北山支所を経て信州諏訪農業協同組合北山支所に転用され、2011年の同支所新店舗移転後も現存していたが、2019年に支所が北山営業所(2024年廃止)に縮小再編されたのちの2022年ごろに解体された。
- ^ 1965年公開の舟木一夫主演『高原のお嬢さん』(日活)
- ^ 白樺湖は全量を音無川に、蓼科湖は築堤下の分水工からトンネル経由で滝之湯堰に9割、糸萱区で常滑川より取水し芹ヶ沢区
除平 ・矢花 ・城口 ・水上 と湯川区久保田の各地籍を灌漑している久保田堰に1割供給している。 - ^ 諏訪測候所(当時・諏訪市湖柳町670番地。現・湖岸通り5丁目2番11号、諏訪特別地域気象観測所)の観測データによると1948年5月の月間降水量は56.5mmで、当時の例年5月の半分にとどまった。
- ^ 1988年発行の『茅野市史・下巻』では、豊平村役場における滝之湯堰側の会議開催と大雨が降り出したことによる騒動収束は、死者が出てから4日後の「十七日の夜」(p.670)の出来事としているが、中央気象台(現・気象庁)の天気図および諏訪測候所の観測データによると、前線を伴った低気圧が関東地方を通過した1948年6月14日夜(15時~22時)に同測候所で前月1か月分を上回る63.3mm(1時間最大27.5mm)の降水があり、以後本州南岸に前線が停滞した影響で6月21日まで連日降水を観測しているため、実際の騒動収束は死者発生翌日の6月14日夜であった可能性が高い。
- ^ 滝之湯川右岸、現在の蓼科東急ゴルフコースおよび東急リゾート別荘地一帯。
- ^ 渋川上流域右岸、現在の蓼科ビレッジ別荘地一帯。標高の低い下半分を
内山 、標高の高い上半分を外山 に分け、芹ヶ沢村および同村の新田村(親村住民の移住開墾を開基とする集落)であった糸萱、新井、金山の計4か村は全域を、中村、山口、上菅沢の3村は外山のみを入会。 - ^ 柏原区北方一帯。柏原北東方面は柏原村のみ入会の内山、音無川上流域(現・八子ヶ峰周辺一帯および車山高原)は柏原・北大塩2村入会の外山、音無川中流域(現・緑の村周辺)は柏原・北大塩2村入会および中村、山口、上菅沢3村の札入会山。
- ^ 御座石造林組合買収地の琵琶石地籍は茅野町合併後の1956年に茅野町大字北山に編入された。
- ^ 内山と外山に挟まれた札入会山における、湖東村中村、山口、上菅沢の3区を含めた入会権はその後も残ったが、茅野市合併後の1959年に関係各区の間で協定書が取り交わされて札入会権が解消されている。
- ^ 伝統的に財産区民は旧来の財産区民との縁戚関係がある区内在住者だけが加わることができ、他区からの移住者は財産区民になれない仕組みである。
- ^ 当時の「蓼科高原」は同じ湯川山でも戦後蓼科湖が築造された中山地籍など村内の八ヶ岳山麓部の大部分は含んでおらず、後年の同呼称に比べ極めて限定された範囲の名称であった。
- ^ 『茅野市史』では昭和初期の開発当初に「プール平」と名付けられたと解釈できる記述を行っているが、旅行や温泉に関するガイドブックや雑誌類に「プール平」の呼称が主だって現れるのは終戦以降(森川信「蓼科高原」、『旅 1948年8月号』p.23、新潮社、1948年など)で、それ以前の類書では、高原ホテルと美遊喜館を中心とする滝の湯、親湯、小斉温泉までの限定した区域の名称として「蓼科高原」「蓼科温泉」の表現を用いており(上田貢『山郷の諏訪』p.27、飯島書店、1935年/小川清行「新興避暑地蓼科高原温泉郷」、『写真月報 1935年8月号』pp.70-74、写真月報社、1935年/石村新吉『東京附近温泉の旅』p.120、朋文堂、1936年など)、「プール平」の名はみられない。住所表記は「北山村栂ノ木平」(名古屋逓信局「第二種自家用電気工作物施設者概要」、『管内電気事業要覧』第18回p.103、電気協会東海支部、1939年)となっている。
- ^ 当初の大温泉プールは1960年代半ばには廃止されたものの、戦時中にプール北側に開業した山紫閣を含め各施設がそれぞれ自前の温泉プールを建設して営業した。
- ^ 省営バスは戦前から諏訪湖北岸で諏訪自動車と激しい競合を繰り広げており、諏訪自動車の免許申請からおよそ半年後に国鉄(当時・運輸省鉄道総局)も和田峠線入大門から池の平を経由して茅野に至る路線延長の申請を行ったが、諏訪自動車の先行申請と重複する池の平以南は却下され、北山村など山浦地方への国鉄バスの進出を阻止する形となった。この時諏訪自動車も国鉄バス白樺湖線および和田峠線に重複する池の平-丸子町間の免許申請を国鉄への対抗措置として行い同様に却下されている。
- ^ 白樺湖南岸、現在の白樺湖公民館の南方山手にあった。1943年に三井本社が豊平村塩之目区の藁葺き民家を購入して移築したもので、戦後の財閥解体で三井不動産所有となった。1949年に「三井不動産蓼科山寮」となり、三井系列社員の厚生施設として運営された。
- ^ 白樺湖西岸の御座石遺跡前に立地。のち隣接するホテル山善に買い取られ湖岸の「ホテル山善南館」となった。
- ^ 白樺湖西岸の御座石遺跡近くの山手側に立地。2年後の1953年に白樺湖開拓や御座石遺跡出土品保存に貢献した篠原喜重・銀一親子が譲受して「ホテル山善」となり、1980年代にかけて急拡大して西白樺湖を代表するホテルとなったが2007年に廃業。旧雷ホテル跡地の南館を含めて長く湖畔の巨大廃墟として有名になり問題ともなったため、国の予算も投入されて2019年から2021年にかけて順次解体撤去された。保科は山善譲渡後、池の平土地改良区事務所(ボートハウス)近くの大門街道沿いで喫茶店「緑苑」を営み早世したが、緑苑も買い取られたあと1962年からホテルを併営。現在も食堂として営業する。
- ^ 1953年開業。現在の国道152号と県道諏訪白樺湖線の分岐部に位置し土産物店も併営。廃業後2023年まで空き家として残っていたが現在は更地。
- ^ 1952年開業。「夕月館」とも。現在の「白樺湖ホテル・パイプのけむり」駐車場付近に立地。
- ^ 白樺湖南岸に1953年開業。1970年代以降経営者がたびたび変わり、バブル期にかけて巨額投資して成長したが2000年ごろ廃業。以後四半世紀にわたって廃墟として残っている。
- ^ 芦田村側の東白樺湖南部に1955年簡易旅館として開業。1971年に普通旅館となり、土産物店を併営した。廃業後2016年ごろ解体され、跡地は2022年、バンガローエリアに転用された。
- ^ のちに諏訪バス蓼科線バスターミナルを兼ねて開設された東洋観光事業蓼科高原総合開発事務所(現アルピコリゾート&ライフ本社)の周辺。広場は1980年代前半にテニスコートとなった。蓼科銀座には別荘滞在者向けの食料品店や理髪店などのほか、バブル期には高級レストランも進出したが、現在は土産物店の万葉堂とそば店のみが残る。
- ^ 湖畔ホテルは玉川村北久保区で温泉を経営していた小林完智が蓼科湖築造に合わせて移住して湖北岸の高台(現・「道の駅ビーナスライン蓼科湖」駐車場東側、飲食店敷地)に開業した。滝の湯からの引湯を受けて湖畔寄りに温泉プールを設けて営業し、1980年代に廃業して不動産業に業態転換し、建物は1990年代前半まで残っていたが解体整地された。プールは東洋観光事業の釣り堀となったあと埋設され2017年まで「子供の広場」(のち「蓼科湖レジャーランド」)の遊具が置かれたのち、駐車場の拡張用地を経て「道の駅ビーナスライン蓼科湖」が建設された。
- ^ 蓼科湖ホテルは湖畔ホテル温水プールの南に隣接する湖岸の半島部に立地し1969年ごろまで営業。廃業後まもなく跡地は東洋観光事業のゴーカートコース(2015年廃止撤去)になった。
- ^ 共に蓼科湖北西端に立地。蓼科湖ハウスは「湖美山荘」のち「湖の美荘」として湖面の貸しボートのほかバンガローや民宿も経営し2017年まで営業。のち旧蓼科観光ホテル(小斉の湯)経営者の孫で毎日新聞記者を経て衆院議員を務めた矢崎公二が「蓼科BASE」に改装した。蓼科湖の「万葉堂」はのち「萬葉荘」として食堂や土産物店、レンタサイクルを営んだ。建物は現在コーヒーショップなどに転用されている。
- ^ 昭和以降は6温泉の経営に新規に加わる湯川区民は少なく、おおむね区内の特定の家族やその縁故者が落札結果に応じ6温泉を相互に入れ替わる形で経営が続けられており、またその多くが北山村長を務めていた。
- ^ その後6温泉は高度成長期からバブル期にかけて施設の増築新築を繰り返して規模を拡大したが、1990年代に入ると経営難に直面し、山紫閣、高原ホテル、ホテル三幸は1999年までに東洋観光事業に所有権が移されたあと廃業、蓼科観光ホテルも廃業しており、いずれも施設は東洋観光事業の手でまもなく解体整地され廃墟化することなく姿を消している。
- ^ のち1968年に親湯が買収。2010年ごろに廃業した。
- ^ 2009年に廃業したのち施設は解体整地され現存しない。
- ^ 1969年に施設を建て替えて「ホテル緑山」となり、2000年代に廃業して解体。跡地には内山・外山財産区から土地を賃借して同地で1964年から別荘地開発を行っている不動産会社の株式会社蓼科ビレッジが別荘地管理センターを2022年に建設した。
- ^ 横谷温泉旅館はバブル期に本館や大浴場などの新築を行う巨額投資を行ったことから、同族企業の保証債務も合わせて60億円を超える債務を抱えて2011年に民事再生を申請。その後も営業を継続しながら経営再建を進めたが、2024年5月に新型コロナ雇用調整助成金などの1億円近い不正受給が発覚したのち、2025年2月から設備故障を理由に休業している。
- ^ のちの諏訪自動車(現・アルピコ交通)鉄山バス停留所→緑山バス停留所周辺。
- ^ 褐鉄鉱中のリン成分は転炉の熱源および化学肥料の原料として活用した。
- ^ 各鉱床とも糸萱区金堀場地籍を起点に北方から東方にかけての緑山および蓼科湖方面に至る各沢筋に分布。長尾根鉱床の下流末端部には後年、日本鋼管が温泉を採掘した入浴施設「石遊の湯」が立地した。
- ^ 糸萱集落の北東、のちの蓼科湖付近に至る湯川山の一帯で、中山第一、中山第二鉱床はほとんど採掘されずに終わった。現在の蓼科高原カントリークラブコース東隣の沢(常滑川支流上流部)にあった池ノ胡桃鉱床とあわせ、もともと芹ヶ沢区などの農家が所有する田畑が広がっており、日本鋼管が農地への復旧を約束して借り上げていたが、戦後荒れ地の状態で復旧されることなく返還された。中山3鉱床の区域のほとんどは現在ゴルフコース内となっている。
- ^ 本来「専用鉄道」の手続きが必要な延長3キロ以上の路線を簡易で迅速な手続きが可能な「側線」と見なす、戦時特例の「特殊専用側線」制度が適用され、全線が茅野駅の側線扱いとされた。なお『茅野市史』など地元資料ではすべて花蒔貯鉱場の名を採り「茅野ー花蒔間」としているが、『日本国有鉄道百年史』では国鉄トラック線の同貯鉱場貨物取扱駅であった信濃松原駅(湖東村山口区)の名を採って「茅野-松原間」と記述している。
- ^ 専用側線が「国鉄北山線」とも呼ばれたとの説が2000年代半ばごろからインターネット上に出現して以降流布されているが、これは当側線着工前に既に開設され1983年まで存在した「国鉄トラック北山線」と混同した誤りである。
- ^ 花蒔貯鉱場の用途廃止時期ははっきりしないが、戦後の出鉱量ピークであった朝鮮戦争期間中の1952年ごろには、2線残存していた石遊場-花蒔間索道は送鉱に使用しておらず、石遊場鉱床出鉱分および1線のみ残存していた明治鉱-石遊場間索道で石遊場に上げた明治鉱出鉱分は共に花蒔貯鉱場に送ることなく石遊場の現地でトラックに積み込み茅野駅に直送する輸送形態を採っており(片山信夫「諏訪鉄山の稼行状況と含燐褐鉄鉱の利用」、『褐鉄鉱鉱床にともなうカリ・燐及び砒素』p.98、日本学術振興会鉱物新活用委員会編、碩学書房、1953年)、専用側線廃止とほぼ同じ時期であったとみられる。
- ^ 諏訪鉱業開発に限らずかつての日本の中小鉱では、鉱山の盛衰に伴って労働者や設備、資機材が土着することなく短期間のうちに全国規模で離合集散するのが一般的であり、鉱山の遺構や記録、証言が地元に残りにくい原因となっている。
- ^ 糸萱区上程堀場地籍。
- ^ 金堀場地籍北部にあった長径50mほどの小規模鉱床。
- ^ 現在の蓼科湖南方の旧白林荘バンガロー敷地付近から蓼科高原カントリークラブのクラブハウス南方にかけての区域。
- ^ のちの釣り堀の道路向かいの西側にあたる。
- ^ のちの茅野市域における諏訪電気の供給区域は1915年当時、麓の永明、宮川、玉川の3村にとどまっていた。
- ^ 2001年の国道152号柏原バイパス開通に伴い柏原集落内ルートは市道に格下げ。
- ^ 1983年の糸萱大橋開通に伴う糸萱区内の渋谷橋経由ルートと1998年の国道299号芹ヶ沢バイパス開通に伴う芹ヶ沢集落内ルートはともに市道に格下げ。
- ^ 北山村域外ではこれ以外に茅野町時代の1957年、矢ヶ崎-泉野間が開業している。
出典
- ^ a b c 鈴木善作『地方発達史と其の人物 長野県の巻』p.320、郷土研究社、1941年。
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参考文献
- 『茅野市史・中巻』茅野市、1988年11月
- 『茅野市史・下巻』茅野市、1988年3月31日
関連項目
- 長野県の廃止市町村一覧
- 群馬鉄山(日本鋼管鉱業群馬鉱業所) - 諏訪鉄山を運営した日本鋼管が1943年に鉱業権を取得した鉄鉱山で、日本鋼管鉱業移管後の1944年12月に操業開始。諏訪鉄山と同様に低品位の褐鉄鉱を露天掘りで採掘し、諏訪鉱業所と異なり戦後も鋼管鉱業経営が維持されたが、資源枯渇のため1965年に閉山。
外部リンク
- 長野県諏訪郡北山村 (20B0110022) | 歴史的行政区域データセットβ版 - Geoshapeリポジトリ
- 北山村 (長野県)のページへのリンク