白樺湖とは? わかりやすく解説

しらかば‐こ【白樺湖】

読み方:しらかばこ

長野県茅野(ちの)市北部、蓼科山(たてしなやま)西麓にある人造湖昭和19年1944灌漑(かんがい)用として作られたが、スケート場や行楽地として発展湖岸縄文時代御座岩(ございわ)遺跡がある。


白樺湖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/31 03:02 UTC 版)

白樺湖
所在地 長野県茅野市北山字池の平
(茅野市北山柏原財産区区有地)
長野県北佐久郡立科町大字芦田八ヶ野
(立科町町有地・茅野市北山柏原財産区区有地)
※北山柏原財産区区有地は財産区と同一構成の任意団体柏原農業協同組合所有地を含む。
位置 北緯36度6分6秒 東経138度13分46秒 / 北緯36.10167度 東経138.22944度 / 36.10167; 138.22944
河川 天竜川水系上川右支音無川
ダム湖 白樺湖 (旧称・蓼科大池)
ダム諸元
ダム型式 アースダム
ローム
堤高 11.0 m
堤頂長 70.0 m
堤体積 - m3
流域面積 5.2 km2
湛水面積 35 ha
総貯水容量 1,120,000 m3
有効貯水容量 - m3
利用目的 かんがい
(温水ため池)
事業主体 池の平土地改良区
電気事業者 -
発電所名
(認可出力)
-
施工業者 -
着手年 / 竣工年 1940年1947年
備考 かんがい面積: 110ha
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白樺湖(しらかばこ)は、長野県茅野市北佐久郡立科町の境、八ヶ岳中信高原国定公園に属する蓼科高原池の平にあるため池である。

概説

周囲約3.8キロメートル、面積約36ヘクタール人造湖で、湖面標高は1,416メートル

もとは農業用水を確保するため建設された人工の温水ため池で、湖内は茅野市北山柏原区民でつくる池の平土地改良区が水利権、漁業権、管理権のすべてを持つ。湖岸用地は茅野市域が北山柏原財産区(財産区と同一構成の柏原農業協同組合[注釈 1]所有地含む)の所有。立科町域は旧財産組合所有地を経て現在は町有地となっており、池の平ホテルが賃借する一部用地に限り茅野市北山柏原財産区有地となっている。

完成時、当時の物部薫郎県知事が蓼科大池(たてしなおおいけ)と命名したが、土地を所有する柏原区民には不評を買った。代わりに区民が発案した「白樺湖」が通称として用いられ、管理する北山村池の平耕地整理組合が池の平土地改良区に改称した1953年に正式名称となった[1]

1950年代から土地改良区および財産区自身の手で貸しボートやカヌーカヤックなどの観光娯楽設備が整えられ、さらに財産区自身が開発主体となって観光開発を実施[1]。区有地を貸し付ける形でスキー場ホテル遊園地などが整備され、長野県下有数のリゾート地となった。かつては凍結した冬の湖面でワカサギ釣りも行われた[1]

造成本来の目的である農業用溜池としても現役で、全量を音無川に流下し、茅野市北山、米沢、ちの地域の水田500ヘクタールに用水を供給している[1]。湖畔は国道152号(大門街道)が通っているほかビーナスライン蓼科有料道路)が通過している。

歴史

音無川源流の高層湿原に造成された白樺湖

建設

白樺湖がある池の平は、もともとシラカバカラマツアシなどの植物が茂る、音無川源流の静かな高層湿原で、周辺は古来から諏訪郡柏原村(のち北山村柏原区、現・茅野市北山柏原区)と、北大塩村(のち米沢村北大塩区、現・茅野市米沢北大塩区)の村民の入会地「柏原山」の一部として採草や炭焼に利用していた。大門峠の手前に山小屋があり、地元青年会の運動会場としても利用されていた[2]

この池の平の北半分を含む八子ヶ峰北側一帯は江戸時代、佐久郡芦田村(現・北佐久郡立科町)との所属を巡る争いの結果、柏原村が敗れて芦田村の所属となったが、池の平南側の芦田村立科八ヶ野地籍の琵琶石地籍100町歩余の土地について北山村柏原区民のうち購入賛成者でつくる御座石造林組合が1905年、芦田村側の財産組合から4000円余で購入。支払いが完了した1912年7月5日に御座石造林組合に所有権が移った[3]

1935年ごろから区内で造成の機運が高まり、1938年、「溜め池に流入する量と、同量の温水を放流し、以て冷害を完全に除去せんとす」との目的を掲げて北山村池の平耕地整理組合が設立された[1]。組合が数回にわたって国や県に陳情を行った結果、造成工事は「県営北山村他三ヶ村農業水利改良工事」として1940年5月に着工した。

総工費24万円のうち、半分の12万円は国の補助金が充てられ、残りを県と地元とが3対7で負担したが、1944年には戦況悪化に伴う資金難を理由に県が工事を打ち切ったため[2]、不足の15万円を柏原区が負担し、地元住民や旧制諏訪中学校生徒らを動員して1946年11月に竣工した[1]

御座石造林組合が所有する琵琶石地籍は戦後、同組合を改組発足した任意団体の柏原農業協同組合の所有となり、実質的に柏原財産区の一部となった。湖は県営事業であったことから管理は引き続き県が行ったが、1948年4月に北山村池の平耕地整理組合(1953年、池の平土地改良区に改称)へ管理権が移管され[1]、湖のすべての権利を柏原区が持った。しかし堤体からの漏水が激しく、1949年にコンクリートを注入する漏水補強工事が県と地元で行われたが、柏原区全体の賛同が得られず区としては費用負担を拒否したため、区民有志でつくる代行組合の出資で行われた[2]

水を音無川に供給している白樺湖と、主に滝之湯堰に供給している蓼科湖(1952年)の完成後、茅野市域では、水稲の冷害被害は格段に減少した。白樺湖は完成当時、観光に利用する意図はまったくなかったが[2]、まもなくニジマスワカサギコイの養殖が始まった[2]。八子ヶ峰からも湖底の音無川旧河道や大門街道がはっきり見え、水没して枯死した白樺林が湖面に突き出ていた[2]

観光開発

柏原財産区や立科町、土地を賃借する外部事業者が高度成長期からバブル期にかけて急速に観光開発した湖畔。左端中央は2019年解体開始の旧「白樺湖ホテル山善」廃墟群(2018年
池の平土地改良区が運営する白樺湖観光センター

白樺湖の観光開発は、蓼科高原(北山湯川財産区)などのように資本力を持つ外部の観光デベロッパーの手に委ねず、観光施設やスキー場、別荘などを建設する企業や個人などに対し、北山柏原財産区が直接区有地(柏原農協所有地を含む)を貸し付けたり、財産区の自己資本で開発する方式で行われてきたことが特徴で、区有の林野や土地の売却は一切行われていない[2]。土地貸し付け収入は柏原財産区の主要財源となっており、収益は財産区を構成する在来の柏原区民に分配されている。柏原区民がつくる池の平土地改良区事業部は、白樺湖観光センターの運営、貸しボート営業などの直営観光事業を営む[2]

1949年2月に諏訪自動車が茅野駅 - 東白樺湖間に1日1往復の路線バス運行を開始した[4]ことを受けて、同年から柏原区内農家による貸馬組合が発足し、夏季の作業がない農耕用馬の有効活用として観光貸馬業が開始。区民によるバンガロー経営も始まった。1950年11月20日に宿泊施設や飲食店、土産物店などでつくる白樺湖地区観光協会(白樺湖観光協会)が、1952年に白樺湖旅館組合がそれぞれ発足した。

1951年には区に代わって漏水補強の費用を負担した代行組合が池の平耕地整理組合から湖上の管理運営権を得て貸しボート営業を始め、1954年に池の平土地改良区事業部へ営業が引き継がれた。1956年には戦前に柏原農業協同組合所有の琵琶石地籍が立科村から茅野町に編入され柏原区内となった。

一方、東白樺湖の芦田村外三ヶ村共有財産組合所有地では、池築造中の1944年、共有財産組合に対し北山村柏原区長の守矢仁作から土地の賃借の申込があり[5]、財産組合側が調べたところ、文部省実業学務局所管の実業教育国家統制機関として設立され、当地への進出を図っていた財団法人実業教育振興中央会(1935年設立、現・公益財団法人産業教育振興中央会)の「高原農業研究所」に転貸する意図が判明した。

このため共有財産組合は守矢の申込を拒否したのち、1945年11月に共有財産組合が実業教育振興中央会に直接貸し付ける契約を行ったが[5]、直後に復員や引揚にともなう帰農者・新規就農者の収容と食糧増産を目的とする国の開拓事業の一環として、実業教育振興中央会への貸付地を含む一帯に「池の平開拓地」(柏原池の平開拓農業協同組合)が設けられることになり、「気候条件から池の平での営農は不可能」と指摘して反対する共有財産組合が押し切られる形で1948年にいったん長野県に買収され県有地となり[5]、実業教育振興中央会は開拓地入植者として県から農地貸与を受けた。

ところが実業教育振興中央会は1949年に「高原寮」を開設し、まもなく「池の平ホテル」と改称して貸与農地を使用した旅館業を展開したことから[5]、共有財産組合はこれに反発して実業教育振興中央会は開拓者ではないとして被買収地の返還を県に要求した[5]。その結果、県は1955年に実業教育振興中央会に貸与する開拓用地について買収を取り消して共有財産組合に返還した上で[5]、共有財産組合はホテル敷地として既に使われてしまっている土地に限って柏原池の平開拓農業協同組合に無償譲渡し、そこから池の平ホテルに貸し付ける形を採ることで妥結した[5]

北山郵便局が電電公社から受託して北山村内の交換と加入の取り扱いを行っていた電話は、白樺湖地籍で1954年に設置が許可され、11戸に電話が置かれた[6]。同年に国鉄バス上田丸子電鉄丸子町駅 - 東白樺湖間で路線バスの運行を開始し、茅野駅 - 東白樺湖間の諏訪バス路線との連絡運輸を始めた[4]。のちに千曲バス松本電鉄も白樺湖まで乗り入れ、白樺湖は高原観光交通の要衝となった[4]1957年1月に池の平土地改良区直営の白樺湖スケート場が開業した。1962年7月に県営白樺湖ユースホステルが完成した。徐々に伸びていた入り込み客数は1963年から激増し、冬季はスケート合宿が盛んに行われ、湖畔に約250棟のバンガローが建設された[2]

これらバンガロー経営などの収益金を元に、柏原区民の手で湖畔に旅館やホテルなどの宿泊施設が整備された[2]。また共有財産組合から所有地を引き継いで町有地とした立科町も、柏原区と同様のスキームで町自身が1961年から湖畔での別荘地開発を開始した。

1964年5月10日に蓼科有料道路白樺線(蓼科 - 白樺湖)が開通したことを受け、1965年から白樺湖と蓼科の間で諏訪バス、千曲バス、国鉄バスによる3社共同運行の路線バスが運行を開始した。同年に白樺湖・八子ヶ峰スキー場(現・白樺湖ロイヤルヒルスキー場)が開設され、個人別荘や企業・学校の寮も次々と建設された。高度成長期のレジャーブームに乗って県内を代表する観光地となり、観光施設数は1957年の宿泊施設11施設、個人別荘6棟[2]から、1985年に宿泊施設約45施設、個人別荘約500棟、企業・学校寮約40施設を数えるまでになった[2]

一方、観光開発の影響で、ホテルや旅館から流入する汚水によって湖水の汚濁が急速に進んだ。化学的酸素要求量 (COD)、大腸菌群数が共に環境基準値を超え、1969年ごろからはアオコが発生するようになって[7]音無川が合流する上川の水を灌漑に利用する下流の米沢北大塩区などでは、水田が緑色に染まる事態となった。このため柏原区と関係事業者、茅野市および立科町が白樺湖浄化対策協議会を設立した。1975年に開始された国の「特定環境保全公共下水道整備事業」の第1号として事業認可を受け、両市町による白樺湖下水道組合が発足した[7]。汚水が白樺湖に流れ込まないよう湖周に4本の汚水幹線を敷設し、各施設の下水を一括して処理する「白樺湖下水道浄化センター」を白樺湖直下の大門街道沿いに開設して、1981年から運用を開始した[7]

白樺湖観光の衰退と復興の試み

白樺湖の年間入り込み客数は1980年代にかけて年々増加し、同年代末にピークを迎えたが、1991年の152万8100人[8]を最後に前年割れが続き、約20年後の2012年には最盛期の半分にあたる74万8700人[9]にまで落ち込んだ。この間、「白樺湖グランドホテル」(1953年開業)や「白樺湖観光ホテル」(1956年開業)、「ホテル大蔵」(1952年売店開業、1958年旅館化)のほか、2007年には柏原区出身者が経営する湖畔大手の宿泊施設の一つ「白樺湖ホテル山善」(1951年開業)が破産するなど、複数の宿泊施設が経営難で相次いで廃業した。

同時期には隣接する湯川財産区旧区有地の蓼科高原でも、蓼科温泉6温泉のうち滝の湯と親湯を除く、「高原ホテル」、「ホテル三幸」、「山紫館」、「蓼科観光ホテル」の4施設が1990年代以降相次いで廃業するなど同様の経過を辿っていたものの、開発・管理主体である土地所有者の東洋観光事業が、廃業前にそれぞれの施設の所有権等を引き取り、廃業後再利用のめどを判断した上で速やかに施設解体・整地を行って[10]廃墟化を防いでいた。しかし白樺湖では地主である柏原財産区をはじめ、そうした管理が行える体制と資本を持つ主体が地域に存在しなかったため[11][注釈 2]、廃業施設群が権利不明瞭のまま放置され次々と廃墟化する事態となった。

さらに10年ほどの間に加盟事業者数が68施設から40施設に激減した白樺湖観光協会は2009年、運営に行き詰まり、茅野市を通じて借り受けた温泉施設「すずらんの湯」(1996年開業)建設費のうち未返済分の約3億8000万円を事実上踏み倒す形で解散した[12]

白樺湖周辺は観光発展ともに観光業に従事する移住者が急増して1978年に新たに「白樺湖区」が柏原区から分離発足し、世帯数・区民数は1995年に247戸・491人と親区の柏原区を超えたが、観光の衰退とともに減少に転じ、2010年には125戸・225人と半減した[11]。別荘地も柏原財産区、柏原農協あわせて586区画を造成しているが、貸し付けは2006年現在で483区画、うち建築済みは388区画にとどまり、2010年現在で上水道給水を受けている戸数は117戸にすぎない[11]。財産区の土地貸し付け収入も、ピークの1993年には年間7911万7000円を得ていたが、「山善」などの破綻廃業が続いた2000年代後半に入っての落ち込みが大きく、2010年は3203万9000円にとどまった[11]

2011年に宿泊施設5施設が、白樺湖のイメージアップに取り組むことを目指して白樺湖温泉旅館組合を発足させた。

2019年、巨大廃墟と化していた西白樺湖湖畔の白樺湖ホテル山善の建物群のうち、旧「雷ホテル」跡地である湖畔の南館について、柏原財産区が1億2000万円あまりを負担して地権者である柏原農協名義による代執行で解体された[13]。さらに南館から国道152号直下に地下通路を建設して連絡していた山側の中館、北館については財産区が約1億円を負担、不足分は国費約1億円を注入し[13]2021年までに解体された。南館跡地は隣接する池の平土地改良区直営の白樺湖観光センターや駐車場(ともに柏原農協所有地)と合わせ、茅野市が公園や駐車場などを整備したが[14]、中館、北館跡地については未定である。湖畔にはこのほか、「ホテル大蔵」、「白樺湖観光ホテル」、「白樺湖グランドホテル」をはじめとする、大小の事実上廃墟化した施設が残っているが、それぞれの所有権の問題があり[13]2025年現在解体のめどは立っていない。

2020年には地域の観光事業者でつくる「白樺湖レイクリゾートプロジェクトチーム」が野外イベント「湖畔の時間」を開催[15]。茅野市と立科町は2022年、蓼科湖や女神湖を含む一帯について、民間主体の事業に行政が公費を与える形で廃墟撤去や交通整備などを進める「レイクリゾート構想」を発表した[16]

脚注

注釈

  1. ^ 芦田村からの池の平買収にあたり1911年に柏原区有志が設立した「御座岩造林施業森林組合」を1948年に改組した任意団体で、農業協同組合法に基づく農業協同組合ではない。
  2. ^ 柏原財産区はバブル期には地代以外の観光諸収入を含め毎年1億円以上の収入があったと推測されているが、利益を旧来区民(土着区民とその係累区内在住親族のみが権利を有する)に配分消化することを原則とする組織であるため、地主の立場を越えて主体的に観光地管理を行えるだけの体制づくりと資本蓄積が成されておらず、バブル崩壊後の社会変化に対応できなかった。

出典

  1. ^ a b c d e f g 「白樺湖」『茅野市史・下巻』p.686、茅野市、1988年3月31日。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 「観光事業の振興」『茅野市史・下巻』pp.762-766、茅野市、1988年3月31日。
  3. ^ 「芦田山入山と買収」『茅野市史・下巻』p.144、茅野市、1988年3月31日。
  4. ^ a b c 「観光交通網の形成とビーナスラインの建設」『茅野市史・下巻』p.774、茅野市、1988年3月31日。
  5. ^ a b c d e f g 小林泉編『蓼科山と財産組合』, pp.261-267, 立科村外一町・一町一村財産組合, 1957.
  6. ^ 「電信・電話事業の進展」『茅野市史・下巻』p.758、茅野市、1988年3月31日。
  7. ^ a b c 「観光開発と自然保護」『茅野市史・下巻』p.800、茅野市、1988年3月31日。
  8. ^ 「平成15年観光地利用者統計調査結果」長野県商工部観光課、2004年。
  9. ^ 「平成30年観光地利用者統計調査結果」長野県観光部山岳高原観光課、2019年8月。
  10. ^ 「蓼科開発の夢と挫折 温泉プール先駆け…ホテル閉館 地名残し幕」,『信濃毎日新聞夕刊』, p.3, 信濃毎日新聞, 1997-07-13.
  11. ^ a b c d 古谷健司、小池正雄「白樺湖周辺における観光開発の展開構造」『森林計画誌45』2012年
  12. ^ 「白樺湖観光協会が解散 茅野市へ3億8千万未払い 温泉施設建設費、返済めど立たず」『信濃毎日新聞』2009年5月31日付朝刊34面、信濃毎日新聞株式会社。
  13. ^ a b c 「茅野・白樺湖畔の廃業ホテル 残る本館も解体着手へ 費用2億円 地元財産区に観光庁が半額補助 跡地利用は白紙」, 『信濃毎日新聞朝刊』, 2021-08-29, p.28, 信濃毎日新聞社.
  14. ^ 「白樺湖畔の大規模廃屋ホテル 撤去進む」『長野日報』2019年10月4日付、株式会社長野日報社。が
  15. ^ 長野県・白樺湖で野外イベント「湖畔の時間 2020」」『観光経済新聞』2020年12月3日付、観光経済新聞社
  16. ^ 蓼科・白樺湖エリア「レイクリゾート」の構想発表 茅野市と立科町」中日新聞 2022年7月7日付 中日新聞社

参考文献

関連項目

外部リンク


白樺湖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:07 UTC 版)

北山村 (長野県)」の記事における「白樺湖」の解説

柏原財産区有地池の平1946年完成した農業灌漑用温水ため池は、当時県知事命名した蓼科大池」に代わり柏原区民が考案した「白樺湖」の名称が用いられ1950年11月20日には白樺湖地区観光協会が、1952年には白樺湖旅館組合それぞれ発足1953年には池の名称正式に白樺湖に改められた。 茅野駅-白樺湖間の路線バス1往復運行始まった1949年には観光貸馬業の営業始まった。これは火山性土壌のため、財産区有の入会林野から大量草肥水田投入するための生産運搬手段として、村内広く普及していた農耕馬の夏季の有効利用狙ったのだった同年にはバンガロー経営始まったほか、1951年には池の平土地改良区から湖上管理運営得た代行組合によって貸しボート営業それぞれ始まった柏原財産区ではこれらの事業収益をもとに、白樺湖周辺旅館ホテル宿泊施設建設するなど観光開発推進した。さらに1954年には無線電話回線貸しボートボートハウス兼ねた池の平土地改良区事務所開設されたほか、西白樺湖までの郵便物集配始まった

※この「白樺湖」の解説は、「北山村 (長野県)」の解説の一部です。
「白樺湖」を含む「北山村 (長野県)」の記事については、「北山村 (長野県)」の概要を参照ください。

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