東山道とは? わかりやすく解説

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とうさん‐どう〔‐ダウ〕【東山道】


東山道

読み方:トウサンドウ(tousandou)

古代の交通路、また行区域


東山道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/23 16:15 UTC 版)

東山道(とうさんどう/とうせんどう)は、五畿七道の一つ。本州内陸部を近江国から陸奥国に貫く行政区分、および同所を通る古代から中世にかけての幹線道路を指す。


注釈

  1. ^ 他に陸奥国へ至る経路として東海道諸国を経て常陸国北部から陸奥国へ入る経路も重要で、後世にはこれの重要度が増し、武蔵国東部を経由するなど整備された。
  2. ^ 当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、畿内から陸奥国に向かう場合も、太日川、利根川(当時)・多摩川・富士川・安倍川・大井川・木曽川・長良川・揖斐川と渡河困難な大河が続く東海道よりも東山道の山道の方が通行に適していた。このため、東海道の渡河方法が整備される10世紀頃までは東山道は活発に機能していた
  3. ^ 武蔵国は、東京湾岸の令制国の中で唯一、東山道に属した。他の東京湾岸の令制国は東海道に属したが、元々の東海道は、相模国から海路で上総国安房国を渡り、そこから北上して下総国方面に向かう経路が取られていた。その後、海路に代わり相模国から武蔵国を経由して下総国に抜ける陸路が開かれたため、宝亀2年10月27日771年12月7日)に武蔵国は東海道へ編入された。
  4. ^ 後の中山道よりも西寄りの経路を辿っていた。
  5. ^ この当時の里を現在の距離に換算すると、約84.2 km。

出典

  1. ^ 市大樹「律令制下の交通制度」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 P10-13
  2. ^ 金沢清則. “上野国府とその付近の東山道、および群馬、佐位駅家について”. 2022年10月23日閲覧。
  3. ^ a b 武部健一 2015, p. 50.
  4. ^ 両者には歴史的時期に信濃国国府が移転された。
  5. ^ 武部健一 2015, pp. 50–51.
  6. ^ 武部健一 2015, p. 52.


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東山道

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令制国一覧」の記事における「東山道」の解説

近江国 おうみ/あふみ(江州・近州) 美濃国 みの(濃州飛騨国 ひだ(飛州信濃国 しなの(信州諏方国 すわ/すは - 721年信濃国より分立。731年再統合上野国 こうずけ/かうづけ(上州下野国 しもつけ野州陸奥国 みちのおく/みちのく/むつ(奥州/陸州) - 陸奥国7世紀常陸国より分立。石背国 いわせ/いはせ - 718年陸奥国より分立。数年後再統合石城国 いわき/いはき - 718年陸奥国より分立。数年後再統合出羽国 でわ/では(羽州山形県秋田県一部) - 712年和銅5年)に越後国出羽郡割いて出羽国建てる同年10月陸奥国最上置賜両郡を出羽国編入。※ 陸奥出羽戊辰戦争戦後処理の一環分割された。 陸奥国 (1869-) りくおう/むつ - 陸前陸中等を分割後の部分陸前国 りくぜん - 1869年陸奥国より分立。 陸中国 りくちゅう/りくちゆう - 1869年陸奥国より分立。 岩代国 いわしろ/いはしろ(岩州) - 1869年陸奥国より分立。 磐城国 いわき/いはき(磐州) - 1869年陸奥国より分立。 羽前国 うぜん - 1869年出羽国より分立、現山形県に相当。 羽後国 うご - 1869年出羽国より分立、現秋田県に相当。

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東山道

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近代以前の日本の都市人口統計」の記事における「東山道」の解説

近江 大津 明治6年1873年)の人口は五別所村を含む。 元号西暦町方人口元禄4年 1691年 18,774 元禄12年 1699年 17,810 正徳4年 1714年 17,568 享保4年 1719年 17,481 明和3年 1766年 16,072 天明3年 1783年 14,950 天保14年 1843年 14,892 明治6年 (総数) 1873年 17,924 (典拠は『新修大津市史』、『大津市志』) 坂本 明6年1873年の上坂本村人口は『共武政表』による。 元号西暦合計上坂本下坂享保17年 1732年 4,543 2,492 2,040 天保5年 1834年 1,608 天保11年 1840年 1,907 明治6年 (総数) 1873年 2,838 (典拠は『新修大津市史』) 膳所 貞享2年1685年)の膳所侍屋敷499戸、町屋409戸、寺22戸の合計930戸。元禄14年1701年)は侍屋敷461戸、町屋502戸、出屋敷180戸、寺23戸の合計1166戸。 元号西暦町方人口貞享2年 1685年 3,092 正徳4年 1714年 3,284 明治6年 (総数) 1873年 6,371 (典拠は『新修大津市史』) 八幡 (近江八幡) 元号西暦町方人口延宝8年 1680年 7,180 宝永7年 1710年 7,774 享保6年 1721年 7,568 享和3年 1803年 7,501 文政13年 1830年 7,080 天保9年 1839年 6,755 慶応4年 1868年 5,629 明治6年 (総数) 1873年 5,893 (典拠は『滋賀県八幡町史』) 彦根 元禄8年1695年)の推定武家人口1万9000人、寺社人口を含む推定総人口は36000人。 元号西暦町方人口元禄8年 1695年 15,505 享和年中 1802年15,675 明治2年 1869年 13,162 明治6年 (総数) 1873年 24,368 (典拠は『彦根市史』) 美濃 大垣 享保6年1721年)の社人僧侶合計240人。天保8年1837年)の宿役人町役人人足合計112人。『美濃路宿村大概帳』による宿内の人口は5136人。 元号西暦町方人口享保6年 1721年 5,543 天明5年 1785年 5,343 天保8年 1837年 5,522 天保14年 1843年 5,097 明治6年 (総数) 1873年 10,158 (典拠は『大垣市史』) 岐阜 明治6年1873年)の人口今泉村を含む。 元号西暦町方人口明暦年中 1655年頃 5,299 享保6年 1721年 5,884 明治6年 (総数) 1873年 10,800 (典拠は『岐阜市史』) 飛騨 高山 (飛騨高山) 一之町二之町三之町合計元号西暦総数三ヵ町合計元禄8年 1695年 3,757 正徳5年 1715年 6,942 享保18年 1733年 7,434 延享元年 1744年 7,212 天保13年 1842年 9,237 明治6年 1873年 13,081 11,180 (典拠は『岐阜県史』) 信濃 松本 享保10年1725年)の武家給人人口は6292人、他に江戸藩邸在府の者1300人、元治元年1864年)の武家給人人口は5284人であり、推定総人口は約1万5000人。 元号西暦町方人口元号西暦町方人口元号西暦町方人口延宝2年 1674年 8,620 寛政10年 1798年 8,967 天保3年 1832年 9,805 享保5年 1720年 8,206 享和2年 1802年 9,174 天保6年 1835年 9,923 享保7年 1722年 8,273 文化元年 1804年 9,117 天保8年 1837年 9,786 享保8年 1723年 8,073 文化6年 1809年 9,929 天保11年 1840年 9,081 享保10年 1725年 8,206 文化13年 1816年 10,006 天保13年 1842年 9,077 享保17年 1732年 9,578 文化14年 1817年 10,047 弘化2年 1845年 9,535 宝暦5年 1755年 9,173 文政2年 1819年 9,919 嘉永3年 1850年 9,891 安永3年 1774年 8,508 文政7年 1824年 9,990 嘉永7年 1854年 9,800 天明8年 1788年 8,541 文政9年 1826年 9,770 安政2年 1855年 9,052 寛政7年 1795年 8,709 文政11年 1828年 9,892 元治元年 1864年 9,440 寛政8年 1796年 8,774 文政12年 1829年 9,821 明治6年 (総数) 1873年 14,275 (典拠は『松本市史』、『信府統記』) 飯田 明6年1873年)の人口今泉村を含む。 元号西暦町方人口天和2年 1682年 4,082 宝永2年 1705年 4,483 宝暦4年 1754年 5,282 安永10年 1781年 5,830 寛政10年 1798年 5,816 文政10年 1827年 6,145 明治6年 (総数) 1873年 8,944 (典拠は『長野県史』) 善光寺町 (長野) 元号西暦善光寺領(総人口) 被官町年寄・僧・神官 寺社方(俗) 八町三ヵ穢多・非人享保6年 1721年 5,049 享保17年 1732年 5,693 延享元年 1744年 5,562 宝暦12年 1762年 6,285 明和元年 1764年 7,009 405 1,082 4,204 929 85 明和5年 1768年 6,504 安永3年 1774年 6,382 安永9年 1780年 6,574 文化5年 1808年 7,567 388 1,136 5,105 958 67 文化7年 1810年 7,567 文政5年 1822年 7,838 5,289 文政11年 1828年 8,048 天保11年 1840年 7,108 安政5年 1858年 7,639 342 1,242 4,972 1,083 元治元年 1864年 7,725 373 1,149 4,990 1,077 136 明治6年 1873年 6,928 (典拠は『長野県史』、『長野市史』) 松代 寛文11年1671年)の松代町方は389軒。 元号西暦町方人口明和4年 1767年 2,319 安政7年 1860年 2,786 明治6年 (総数) 1873年 7,976 (典拠は『長野県史』) 上田 元号西暦町方人口寛文3年 1663年 2,610 宝永3年 1706年 3,068 宝永7年 1710年 2,424 享保11年 1726年 2,714 宝暦5年 1755年 2,609 天明5年 1785年 2,180 文政5年 1822年 2,090 弘化2年 1845年 2,257 安政5年 1858年 2,610 明治元年 1868年 2,583 明治6年 (総数) 1873年 6,019 (典拠は『上田市史』、『長野県史』) 小諸 宝暦10年1725年)の町方人口は3849人(典拠近松二(1999年))明治6年1873年)の人口は6152人。 上野 高崎 天保14年1843年)の宿内のみの人口は3235人(『中山道宿村大概帳』)。明治2年1869年)の東京在勤藩士618人。 元号西暦合計(総数) 藩士町方人口その他貞享4年 1687年 5,734 享保5年 1720年 5,735 明和年中 1770年頃 7,830 天明4年 1784年 6,458 享和元年 1801年 6,516 明治2年 1869年 10,632 2,183 8,306 143 明治6年 1873年 11,285 (典拠は『高崎市史』) 前橋 (厩橋) 文化10年1813年)から文政6年1823年)の間は向町外四町が町分を脱退している。天保9年1838年)の扶持遣候者は1200であることより、藩主在城中の推定総人口1万1000人(町方5000人、武家6000人)。 元号西暦合計町方寺社元号西暦合計町方寺社寛政元年 1789年 4,388 4,280 108 文政12年 1829年 3,914 寛政2年 1790年 4,308 4,207 101 文政13年 1830年 3,952 寛政3年 1791年 4,386 4,288 98 天保2年 1831年 3,926 寛政4年 1792年 4,429 4,332 97 天保3年 1832年 3,964 3,907 57 寛政7年 1795年 4,395 天保5年 1834年 3,931 寛政8年 1796年 4,404 天保6年 1835年 3,912 3,855 57 寛政9年 1797年 4,489 天保7年 1836年 3,880 3,826 54 寛政10年 1798年 4,613 4,502 111 天保8年 1837年 3,723 3,671 52 文化5年 1808年 4,424 天保10年 1839年 3,675 3,621 54 文化6年 1809年 4,532 4,444 88 天保11年 1840年 3,628 3,581 47 文化7年 1810年 4,518 4,430 88 天保12年 1841年 3,601 文化8年 1811年 4,464 4,376 88 天保13年 1842年 3,709 3,667 42 文化9年 1812年 4,494 4,407 87 天保14年 1843年 3,718 3,680 38 文化10年 1813年 4,422 天保15年 1844年 3,967 3,925 42 3,262 嘉永元年 1848年 4,787 文化11年 1814年 3,325 3,261 64 嘉永2年 1849年 4,975 4,900 75 文化12年 1815年 3,275 3,210 65 嘉永6年 1853年 4,938 文化13年 1816年 3,304 嘉永7年 1854年 5,037 4,980 57 文化14年 1817年 3,317 3,261 56 明治6年 (総数) 1873年 15,063 (典拠は『前橋市史』) 沼田 元号西暦町方人口寛保2年 1742年 3,503 寛延元年 1748年 3,076 明治6年 (総数) 1873年 3,828 (典拠は『沼田市史』) 桐生 元号西暦桐生新町町方 明暦3年 1657年 508 寛文13年 1673年 750 寛保2年 1742年 1,279 宝暦7年 1757年 1,482 寛政3年 1791年 2,256 文政2年 1819年 3,353 安政2年 1855年 4,092 明治6年 (総数) 1873年 3,894 (典拠は『桐生市史』) 館林 元号西暦町方人口延宝2年 1674年 3,739 享保13年 1728年 4,945 文政2年 1819年 3,355 天保7年 1836年 3,259 弘化3年 1846年 3,205 安政6年 1859年 4,161 明治2年 1869年 4,432 明治6年 (総数) 1873年 9,007 (典拠は『桐生市史』) 下野 足利 足利町は、本町新田上町新田下町横町を含む。『日本地誌提要』による明治6年1873年)の足利人口2124人で、足利本町のみの人口と思われる元号西暦合計足利町学校鑁阿寺五箇村享保19年 1734年 4,438 2,702 231 563 942 安政2年 1855年 5,875 3,373 285 831 1,386 明治4年 1870年 6,766 4,161 826 1,779 (典拠は『足利市史』) 押原 (鹿沼) 元和8年1622年)の戸数は、東田町67軒、東内86軒、西田町47軒、西内町53軒の合計253軒。延宝元年1675年)は538軒。明治6年1873年)の人口は『共武政表』による。 元号西暦町方合計原西町押原東町享保10年 1725年 1,491 享保14年 1729年 1,175 延享元年 1744年 1,674 宝暦7年 1757年 1,530 安永5年 1776年 2,412 享和2年 1802年 2,762 1,506 1,256 文化2年 1805年 2,676 文政11年 1828年 2,676 天保9年 1838年 2,851 天保14年 1843年 2,844 嘉永4年 1851年 3,362 明治6年 (総数) 1873年 4,202 (典拠は『栃木県史』、『壬生通宿村大概帳』) 宇都宮 天保14年1843年)の宿内のみの人口は6457人(『日光道中宿村大概帳』)。 元号西暦町方人口元禄8年 1695年 9,744 明和8年 1771年 8,254 天保7年 1836年 9,569 明治6年 (総数) 1873年 15,061 (典拠は『栃木県史』、『宇都宮史勢概要』) 烏山 元号西暦町方人口元禄16年 1703年 2,322 享保元年 1716年 2,500 享保11年 1726年 2,087 享保16年 1731年 1,784 安永9年 1780年 2,400 安政3年 1856年 1,510 元治元年 1864年 1,533 慶応元年 1865年 1,512 明治6年 (総数) 1873年 2,435 (典拠は『烏山町史』)。 陸奥磐城 白河 元禄5年1692年)の城下町構成は、家中1237軒、寺社315軒。 元号西暦町方人口寛文5年 1665年 7,544 寛文7年 1667年 6,823 元禄7年 1694年 7,424 元禄11年 1698年 6,911 元禄14年 1701年 6,486 元禄15年 1702年 6,521 文政元年 1818年 6,293 文政5年 1822年 8.727 文政6年 1823年 6,458 天保14年 1843年 5,959 明治6年 (総数) 1873年 7,250 (典拠は『白河市史』、『奥州道中宿村大概帳』、『福島県史』)。 平 元号西暦合計家中町方寺社門前正徳元年 1711年 8,279 4,456 3,325 498 享保16年 1731年 2,746 明治6年 1873年 4241 (典拠は『いわき市史』) 小名浜 小名浜米野中島中町西町の4町を含む。 元号西暦町方人口正徳元年 1711年 6,086 享保16年1731年頃 6,147 明治6年 (総数) 1873年 3,079 (典拠は『いわき市史』) 中村 元西暦合計城下小人座掃常府歩卒 寺社匠人商人天和元年 1681年 15,387 10,857 560 801 3,169 宝永6年 1709年 12,749 5,780 2,821 979 2,361 享保2年 1717年 11,691 5,674 700 2,168 894 2,255 延享3年 1746年 7,243 4,282 653 1,786 798 2,130 宝暦11年 1761年 7,688 3,820 496 1,130 648 1,594 明治6年 1873年 1,890 (典拠高橋梵仙日本人口史之研究』) 岩代 若松 (会津若松) 町屋戸口寛文6年1666年)に3256軒、寛文9年1669年)に3515戸、享保20年1735年)に3380戸、文化4年1807年)に3028戸。また侍屋敷会津騒動以前には443軒だった。 元号西暦町方人口慶安2年 1649年 22,582 寛文6年 1666年 18,435 延宝5年 1677年 20,832 元禄10年 1697年 20,700 延享3年 1746年 16,700 宝暦元年 1751年 16,078 天明7年 1787年 11,700 天明8年 1788年 11,670 文化9年 1812年 10,610 明治6年 (総数) 1873年 20,588 (典拠は『会津藩家世実紀』、『会津鑑』、『若松市史』、『会津若松市史』、『町名の由来:おらが街のミニ歴史』) 郡山 (岩代郡山) 人口定有人口で、出稼ぎ下男下女を除く。 元号西暦郡山町合計郡山上町郡山下町貞享4年 1687年 802 元禄2年 1689年 799 元禄7年 1694年 844 元禄8年 1695年 832 宝永6年 1709年 799 宝永7年 1710年 831 享保4年 1719年 797 享保9年 1724年 778 享保14年 1729年 791 享保15年 1730年 789 享保16年 1731年 785 享保17年 1732年 810 享保18年 1733年 792 享保19年 1734年 783 享保20年 1735年 807 元文元年 135年 816 元文3年 1738年 859 元文5年 1740年 868 延享2年 1745年 884 延享5年 1748年 921 天明2年 1782年 2,656 寛政12年 1800年 1,025 享和元年 1801年 1,710 慶応3年 1867年 5,205 明治3年 1870年 2,614 明治6年 (総数) 1873年 4,782 (典拠高橋美由紀在郷町歴史人口学』、『郡山市史』) 二本松 元号西暦町方人口宝永2年 1705年 4,543 天明8年 1788年 3,118 明治6年 (総数) 1873年 10,435 (典拠は『二本松市史』) 福島 (岩代福島) 元号西暦町方人口元禄16年 1703年 4,261 延享3年 1746年 3,726 天明8年 1788年 3,360 明治6年 (総数) 1873年 5,813 (典拠は『福島県史』) 陸前 仙台 最盛期仙台総人口は6万人以上と推定されている。 元号西暦合計町方寺院寺院出家寺院方俗寛文8年 1668年 27,702 18,493 9,209 延宝2年 1674年 29,297 20,073 9,224 貞享3年 1686年 25,055 22,501 2,554 元禄8年 1695年 25,590 22,706 2,884 631 2,253 寛保2年 1742年 26,623 20,374 6,249 863 5,386 明和9年 1772年 23,098 20,479 2,619 2,619 天明6年 1786年 15,617 11,610 4,007 594 3,413 享和2年 1802年 17,798 13,302 4,496 652 3,840 文政8年 1825年 18,444 13,749 4,695 710 3,985 嘉永5年 1852年 15,408 明治2年 1869年 22,411 明治6年 (総数) 1873年 51,998 (典拠は『封内風土記』、『宮城県史』、『岩手県史』、『仙台市史』) 塩竈 元号西暦町方人口宝暦12年 1762年 1,952 安永3年 1774年 1,986 明治6年 (総数) 1873年 3,225 (典拠は『塩竈市史』) 石巻 虻田村人口は、元禄12年1699年)に1494人、明和3年1766年)に1632人、安永2年1773年)に713人(高屋敷を除く)、明治6年1873年)に2065人。安永2年1773年)は、石巻村住吉湊村統計を欠く。 元号西暦合計石巻村門脇村湊村元禄12年 1699年 7,334 3,713 1,947 1,674 明和3年 1766年 9,799 4,162 2,708 2,929 安永2年 1773年 5,796 2,969 2,827 明治6年 (総数) 1873年 10,325 5,121 2,605 2,599 (典拠は『石巻市史』) 陸中 花巻 元号西暦町方人口元号西暦町方人口元号西暦町方人口元号西暦町方人口天和3年 1683年 4,654 元文3年 1738年 6,364 宝暦12年 1762年 4,987 天明4年 1784年 4,517 貞享元年 1684年 4,611 元文4年 1739年 6,365 宝暦13年 1763年 4,035 天明5年 1785年 4,565 元禄3年 1690年 4,842 元文5年 1740年 6,268 明和元年 1764年 4,079 天明6年 1786年 4,548 元禄4年 1691年 4,821 寛保元年 1741年 6,193 明和2年 1765年 4,091 天明7年 1787年 4,585 元禄6年 1693年 5,025 寛保2年 1742年 5,881 明和4年 1767年 4,353 天明8年 1788年 4,568 元禄7年 1694年 5,339 寛保3年 1743年 4,757 明和5年 1768年 4,216 寛政元年 1789年 4,598 元禄8年 1695年 5,417 延享2年 1745年 4,894 明和6年 1769年 4,126 寛政2年 1790年 4,586 元禄9年 1696年 4,960 延享3年 1746年 4,890 明和7年 1770年 4,119 寛政3年 1791年 4,595 元禄12年 1699年 5,188 延享4年 1747年 4,780 明和8年 1771年 4,126 寛政4年 1792年 5,406 元禄13年 1700年 5,187 寛延2年 1749年 4,592 安永元年 1772年 4,152 寛政5年 1793年 5,422 元禄14年 1701年 5,278 寛延3年 1750年 4,547 安永2年 1773年 4,138 寛政6年 1794年 5,383 正徳元年 1711年 5,199 宝暦元年 1751年 4,438 安永3年 1774年 4,637 寛政7年 1795年 5,399 正徳2年 1712年 5,261 宝暦2年 1752年 4,513 安永4年 1775年 4,539 寛政8年 1796年 5,376 正徳3年 1713年 5,399 宝暦3年 1753年 4,544 安永5年 1776年 4,538 寛政10年 1798年 5,393 享保3年 1718年 4,974 宝暦5年 1755年 4,563 安永6年 1777年 4,548 享和3年 1803年 5,431 享保5年 1720年 5,055 宝暦6年 1756年 4,753 安永7年 1778年 4,523 天保10年 1839年 5,415 享保12年 1727年 4,866 宝暦7年 1757年 4,453 安永8年 1779年 4,552 天保11年 1840年 5,401 享保18年 1733年 4,857 宝暦8年 1758年 3,691 安永9年 1780年 4,544 明治6年 (総数) 1873年 4,426 享保19年 1734年 4,928 宝暦9年 1759年 3,751 天明元年 1781年 4,550 元文元年 1736年 4,921 宝暦10年 1760年 3,811 天明2年 1782年 4,561 元文2年 1737年 4,327 宝暦11年 1761年 3,863 天明3年 1783年 4,569 (典拠高橋梵仙日本人口史之研究』) 盛岡 武家人口盛岡藩全体で28000人以上で推移しており、武家寺社人口含めた盛岡城下町最盛期人口は約4万人以上と推定される元号西暦町方人口元号西暦町方人口元号西暦町方人口元号西暦町方人口天和3年 1683年 12,324 享保5年 1720年 15,362 宝暦8年 1758年 13,498 天明2年 1782年 16,240 貞享元年 1684年 12,272 享保12年 1727年 16,008 宝暦9年 1759年 14,411 天明3年 1783年 16,258 貞享2年 1685年 12,988 享保18年 1733年 15,368 宝暦10年 1760年 14,661 天明4年 1784年 16,206 貞享4年 1687年 13,167 享保19年 1734年 20,597 宝暦11年 1761年 14,371 天明5年 1785年 16,308 元禄2年 1689年 13,293 元文元年 1736年 16,423 宝暦12年 1762年 12,759 天明6年 1786年 16,289 元禄3年 1690年 13,132 元文2年 1737年 18,059 宝暦13年 1763年 15,133 天明7年 1787年 16,330 元禄4年 1691年 13,200 元文3年 1738年 16,101 明和元年 1764年 15,374 天明8年 1788年 16,292 元禄5年 1692年 13,691 元文4年 1739年 16,125 明和2年 1765年 15,392 寛政元年 1789年 16,338 元禄6年 1693年 13,662 元文5年 1740年 16,191 明和4年 1767年 15,744 寛政2年 1790年 16,416 元禄7年 1694年 14,628 寛保元年 1741年 15,992 明和5年 1768年 15,338 寛政3年 1791年 16,436 元禄8年 1695年 13,678 寛保2年 1742年 16,244 明和6年 1769年 15,258 寛政4年 1792年 17,963 元禄9年 1696年 13,689 寛保3年 1743年 16,234 明和7年 1770年 15,372 寛政5年 1793年 17,987 元禄11年 1698年 13,736 延享2年 1745年 15,907 明和8年 1771年 15,415 寛政6年 1794年 17,886 元禄12年 1699年 14,266 延享3年 1746年 15,897 安永元年 1772年 15,421 寛政7年 1795年 17,917 元禄13年 1700年 14,209 延享4年 1747年 15,967 安永2年 1773年 15,438 寛政8年 1796年 17,887 元禄14年 1701年 14,120 寛延2年 1749年 14,154 安永3年 1774年 16,326 寛政10年 1798年 17,941 宝永元年 1704年 13,676 寛延3年 1750年 15,726 安永4年 1775年 16,237 享和3年 1803年 18,024 宝永2年 1705年 13,857 宝暦元年 1751年 15,838 安永5年 1776年 16,243 天保10年 1839年 17,995 宝永3年 1706年 13,905 宝暦2年 1752年 16,221 安永6年 1777年 16,248 天保11年 1840年 17,966 正徳元年 1711年 15,218 宝暦3年 1753年 16,444 安永7年 1778年 16,226 明治6年 (総数) 1873年 21,306 正徳2年 1712年 14,820 宝暦5年 1755年 16,909 安永8年 1779年 16,253 正徳3年 1713年 15,225 宝暦6年 1756年 15,887 安永9年 1780年 16,238 享保3年 1718年 15,228 宝暦7年 1757年 15,787 天明元年 1781年 16,251 (典拠高橋梵仙日本人口史之研究』) 郡山 (陸中郡山, 紫波) 元号西暦町方人口元号西暦町方人口元号西暦町方人口元号西暦町方人口天和3年 1683年 2,167 元文3年 1738年 2,507 宝暦12年 1762年 2,317 天明4年 1784年 2,213 貞享元年 1684年 2,113 元文4年 1739年 2,516 宝暦13年 1763年 2,118 天明5年 1785年 2,231 元禄3年 1690年 2,110 元文5年 1740年 2,458 明和元年 1764年 2,167 天明6年 1786年 2,219 元禄4年 1691年 2,073 寛保元年 1741年 2,461 明和2年 1765年 2,157 天明7年 1787年 2,236 元禄6年 1693年 2,161 寛保2年 1742年 2,447 明和4年 1767年 2,275 天明8年 1788年 2,220 元禄7年 1694年 2,234 寛保3年 1743年 2,442 明和5年 1768年 2,129 寛政元年 1789年 2,235 元禄8年 1695年 2,169 延享2年 1745年 2,436 明和6年 1769年 2,169 寛政2年 1790年 2,229 元禄9年 1696年 2,116 延享3年 1746年 2,436 明和7年 1770年 2,173 寛政3年 1791年 2,235 元禄12年 1699年 2,240 延享4年 1747年 2,424 明和8年 1771年 2,157 寛政4年 1792年 2,640 元禄13年 1700年 2,226 寛延2年 1749年 2,361 安永元年 1772年 2,151 寛政5年 1793年 2,648 元禄14年 1701年 2,231 寛延3年 1750年 2,396 安永2年 1773年 2,132 寛政6年 1794年 2,616 正徳元年 1711年 2,164 宝暦元年 1751年 2,394 安永3年 1774年 2,289 寛政7年 1795年 2,627 正徳2年 1712年 2,189 宝暦2年 1752年 2,404 安永4年 1775年 2,252 寛政8年 1796年 2,610 正徳3年 1713年 2,223 宝暦3年 1753年 2,415 安永5年 1776年 2,243 寛政10年 1798年 2,623 享保3年 1718年 2,158 宝暦5年 1755年 2,438 安永6年 1777年 2,245 享和3年 1803年 2,652 享保5年 1720年 2,272 宝暦6年 1756年 2,520 安永7年 1778年 2,227 天保10年 1839年 2,632 享保12年 1727年 2,332 宝暦7年 1757年 2,334 安永8年 1779年 2,254 天保11年 1840年 2,623 享保18年 1733年 2,386 宝暦8年 1758年 1,992 安永9年 1780年 2,248 明治6年 (総数) 1873年 2,522 享保19年 1734年 2,386 宝暦9年 1759年 2,029 天明元年 1781年 2,252 元文元年 1736年 2,446 宝暦10年 1760年 2,026 天明2年 1782年 2,249 元文2年 1737年 2,659 宝暦11年 1761年 2,007 天明3年 1783年 2,255 (典拠高橋梵仙日本人口史之研究』) 陸奥 青森 元号西暦町方人口享保12年 1727年 6,381 延享元年 1744年 5,904 寛延3年 1750年 5,163 明和元年 1764年 8,950 安永2年 1773年 9,039 安永3年 1774年 9,031 寛政11年 1799年 6,137 文化2年 1805年 6,491 天保14年 1843年 6,033 嘉永5年 1852年 7,779 明治6年 (総数) 1873年 10,965 (典拠は『青森市沿革史』,『青森市史』) 弘前 武士階級(家中)を含めた弘前総人口記録として残っている元号西暦合計(総数) 家中町方寺社元禄3年 1690年 15,890 元禄7年 1694年 17,362 正徳5年1715年13,788 明和元年/2年 1764年/1765年 31,200 14,600 16,600 天明元年 1781年 33,821 16,974 16,847 寛政年中 1795年24,521 12,923 10,814 784 寛政12年 1800年 26,730 文化元年 1804年 14,505 文化7年1810年25,426 14,928 10,498 天保5年 1834年 21,048 天保7年 1836年 35,488 20,480 14,535 473 天保8年 1837年 36,036 21,004 14,540 492 嘉永6年 1853年 37,517 23,431 14,086 安政5年 1858年 14,850 安政6年 1859年 38,595 23,964 14,631 慶応2年 1866年 38,848 21,926 16,061 861 明治3年 1869年 39,568 明治6年 1873年 32,886 (典拠は『弘前市史』、『津軽事典』) 八戸 寛延2年1749年)の家中人口は2833人。天明4年1784年)の家中人口は3015人。 元号西暦町方人口寛延2年 1749年 4,075 天明4年 1784年 4,122 明治6年 (総数) 1873年 9,518 (典拠は『八戸市史』) 三戸 元号西暦町方人口元号西暦町方人口元号西暦町方人口元号西暦町方人口天和3年 1683年 1,491 元文3年 1738年 1,746 宝暦12年 1762年 1,825 天明4年 1784年 2,022 貞享元年 1684年 1,454 元文4年 1739年 1,745 宝暦13年 1763年 1,451 天明5年 1785年 2,036 元禄3年 1690年 1,474 元文5年 1740年 1,643 明和元年 1764年 1,459 天明6年 1786年 2,018 元禄4年 1691年 1,480 寛保元年 1741年 1,632 明和2年 1765年 1,453 天明7年 1787年 2,031 元禄6年 1693年 1,491 寛保2年 1742年 1,639 明和4年 1767年 1,519 天明8年 1788年 2,014 元禄7年 1694年 1,485 寛保3年 1743年 1,636 明和5年 1768年 1,864 寛政元年 1789年 2,037 元禄8年 1695年 1,517 延享2年 1745年 1,656 明和6年 1769年 1,876 寛政2年 1790年 2,029 元禄9年 1696年 1,566 延享3年 1746年 1,660 明和7年 1770年 1,891 寛政3年 1791年 2,034 元禄12年 1699年 1,676 延享4年 1747年 1,671 明和8年 1771年 1,911 寛政4年 1792年 2,439 元禄13年 1700年 1,652 寛延2年 1749年 1,597 安永元年 1772年 1,917 寛政5年 1793年 2,446 元禄14年 1701年 1,650 寛延3年 1750年 1,595 安永2年 1773年 1,957 寛政6年 1794年 2,426 正徳元年 1711年 1,654 宝暦元年 1751年 1,568 安永3年 1774年 2,035 寛政7年 1795年 2,435 正徳2年 1712年 1,652 宝暦2年 1752年 1,632 安永4年 1775年 2,016 寛政8年 1796年 2,420 正徳3年 1713年 1,702 宝暦3年 1753年 1,646 安永5年 1776年 2,023 寛政10年 1798年 2,443 享保3年 1718年 1,629 宝暦5年 1755年 1,632 安永6年 1777年 2,031 享和3年 1803年 2,469 享保5年 1720年 1,671 宝暦6年 1756年 1,557 安永7年 1778年 2,043 天保10年 1839年 2,423 享保12年 1727年 1,760 宝暦7年 1757年 1,396 安永8年 1779年 2,071 天保11年 1840年 2,412 享保18年 1733年 1,673 宝暦8年 1758年 1,348 安永9年 1780年 2,062 明治6年 (総数) 1873年 2,986 享保19年 1734年 1,705 宝暦9年 1759年 1,369 天明元年 1781年 2,067 元文元年 1736年 1,771 宝暦10年 1760年 1,432 天明2年 1782年 2,067 元文2年 1737年 1,708 宝暦11年 1761年 1,398 天明3年 1783年 2,071 (典拠高橋梵仙日本人口史之研究』) 出羽 羽前 米沢 武家人口は、元禄5年1692年)に31173人(武家含めた推定総人口は約4万人)、元禄14年1701年)に29960人、安永5年1776年)に24061人、天保11年1840年)に25608人、文久2年1862年)に32036人。 元号西暦町方人口文禄4年 1595年 6,027 元禄5年 1692年 12,129 元禄6年 1693年 12,078 元禄14年 1701年 11,481 安永5年 1776年 16,099 天保11年 1840年 6,667 天保12年 1841年 6,678 天保13年 1842年 6,696 天保14年 1843年 6,717 天保15年 1844年 6,728 弘化2年 1845年 6,761 弘化3年 1846年 6,773 弘化4年 1847年 6,802 嘉永元年 1848年 6,840 嘉永2年 1849年 6,809 嘉永3年 1850年 6,920 嘉永4年 1851年 6,962 嘉永5年 1852年 6,972 嘉永6年 1853年 6,947 嘉永7年 1854年 6,973 安政2年 1855年 6,998 安政3年 1856年 6,871 安政4年 1857年 6,896 安政5年 1858年 6,881 安政6年 1859年 6,888 万延元年 1860年 6,969 文久元年 1861年 6,979 文久2年 1862年 6,943 明治6年 (総数) 1873年 24,945 (典拠は『山形県史』、吉田義信置賜民衆生活史』) 山形 最上騒動時期元和8年町方人口は『義俊家中寺社方在町分限帳』により、合計不一致原文ママ正保元年1644年)の城下町戸数町方寺社方2411軒、家中597軒であり、家中1戸当たり7人仮定する推定総人口1万8160人。 元号西暦合計町方寺社方元和8年 1622年 19,796 16,055 3,641 正保元年 1644年 13,981 12,092 1,889 元禄10年 1697年 13,507 13,032 475 元文3年 1738年 17,508 延享3年 1746年 12,586 宝暦3年 1753年 15,214 明治6年 (総数) 1873年 17,631 (典拠は『山形歴史』、『山形市史』、『山形県史』) 新庄 宝永6年1709年)の町方人口は3439人、家中人口は1,525人(内江詰め50人)(典拠は『最上郡史』)。明治6年1873年)の人口は8361人。 鶴岡 明和7年1770年)の庄内藩家中1万0676人中鶴ヶ岡城城下に9206人、酒田の亀ヶ崎城城下に892人、江戸578人、それぞれ在住した。 元号西暦合計(総数) 家中給人町寛文7年 1667年 7,837 天和2年 1682年 8,497 元禄7年 1694年 10,197 元禄13年 1700年 10,951 享保10年 1725年 8,102 明和7年 1770年 17,705 9,206 8,499 天保11年 1840年 8,406 明治6年 1873年 24,964 (典拠は『鶴岡市史』) 羽後 酒田 元号西暦町方人口慶長17年 1612年 2,182 元和8年 1622年 4,105 天和3年 1683年 12,604 享保10年 1725年 14,580 享保12年 1727年 10,193 明和7年 1770年 14,845 明治6年 (総数) 1873年 18,619 (典拠は『酒田市史』、『鶴岡市史』) 本荘 慶長末(1615年頃)の本荘城下町武家屋敷850軒(陪臣50軒、士100軒、足軽小人700軒)、町屋敷600軒、寺社20軒、合計約1470軒。元禄6年1693年)の本荘城下町武家2363人(給人中小姓721人、歩行322人、諸奉公人1320人)、町方4560人(出戸町3651人、古雪町909人)、寺水呑門前322人、合計7245人。享保2年1717年)の本荘城下町武家奉公人520戸、町家699戸、寺社32戸、合計1251戸(以上典拠は『本荘市史』)。明治6年1873年)の人口は6423人。 横手 享保7年1722年)の町方戸数は約4500戸。明治6年1873年)の人口は8169人。 久保田 (秋田)・湊 (土崎港) 嘉永3年1850年)の武家人口は35621人。内訳は久保田給人(1万5662人)、在々給人(1万1784人)、職人足軽等(8175人)。また久保田・湊諸寺院は973人、久保田在々僧侶社人等は6369人。久保田分の穢多乞食325人。最盛期城下町人口久保田・湊を併せ4万人以上と推定される明治4年1871年)に久保田から秋田改名する元号西暦町方合計久保田町湊町享保15年 1730年 20,833 15,262 5,571 延享4年 1747年 21,313 宝暦年中 1755年頃 5,935 天保15年 1844年 16,387 11,450 4,937 嘉永3年 1850年 16,990 安政2年 1855年 17,636 安政4年 1857年 17,693 安政6年 1859年 18,082 明治6年 (秋田土崎湊総数) 1873年 46,677 38,118 8,559 (典拠は『秋田沿革史大成』、『綜合郷土研究』、『土崎港町史』、『秋田県史』) 大館 宝永3年1706年)の大館武家442軒、町家409軒で、武家含めた推定総人口は3700人。 元号西暦総数町方文化8年 1811年 2,142 文政年中 1825年頃 3,700 安政4年 1857年 3,144 安政6年 1859年 2,832 明治5年 1872年 4,882 明治6年 1873年 7,687 (典拠は『大館市史』) 能代 町戸数は、元禄7年1694年)に1032軒、宝永元年1704年)に1093軒、享保15年1730年)に1249軒、寛保3年1743年)に1546軒。 元号西暦合計町方寺社方文化年中 1810年頃 8,269 7,998 271 文政13年 1830年 7,042 明治6年 (総数) 1873年 9,174 (典拠は『能代市史稿』)

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東山道

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郡寺」の記事における「東山道」の解説

近江国 (飛鳥白鳳寺院数:約70カ所)で、最古前期穴太廃寺である。 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考栗太郡遺跡 霊山寺遺跡? 『西宮記』巻8 群行 甲賀郡 甲賀寺跡 『続日本紀』天平16年11月壬申滋賀郡 志我山寺(崇福寺跡) 『続日本紀』大宝元年8月甲辰野洲郡 小篠原遺跡? 益須寺跡 『日本書紀』持統8年3月己亥 蒲生郡 御前遺跡蒲生寺 『聖徳太子伝私記犬上郡 上寺左経記寛仁3年10月29日犬上郡 竹ヶ鼻遺跡? 廃寺隣接上寺?) 浅井郡 浅井寺跡華頂要略』巻第55上 神崎郡 大郡遺跡愛知郡 長野遺跡坂田郡 大東遺跡? 廃寺隣接 伊香郡 井口遺跡? 廃寺隣接 高島郡 日置前遺跡? 廃寺隣接 美濃国での寺院分布は「多藝郡山県郡、(恵奈郡成立している場合土岐郡以外の各郡に、1カ所以上存在する」との指摘があり、最古宮処寺跡宮代廃寺跡(垂井町不破郡)、願興寺廃寺御嵩町可児郡)のいずれかである。 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考武儀郡 弥勒寺官衙遺跡 弥勒寺跡 (関市) 厚見郡 厚見寺(瑞龍寺 (岐阜市)) 型押文字瓦「厚見寺瓦」 各務郡 広畑野口遺跡? 山田寺(5廃寺最古最大) 席田郡郡府周辺 席田廃寺:席田郡定額尼寺日本三代実録飛騨国17廃寺最古寿楽寺廃寺(飛騨国伽藍?)である。 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考大野郡 三仏寺廃寺 ヘラ書き文字瓦「大寺荒城郡 上町遺跡信濃国最古明科廃寺安曇野市当初安曇郡)である。 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考水内郡 県町遺跡 善光寺前身 金刺舎人科野国造)が有力 高井郡 長者屋敷八幡浦遺跡? 周辺に左願寺廃寺 須坂市博物館展示 埴科郡 屋代遺跡群 雨廃寺 廃寺に伝埴科大領館跡隣接 伊那郡 恒川官衙遺跡 存在推定 更級郡 社宮司遺跡 青木廃寺諏方郡 垣外官衙遺跡 諏訪大社上社神宮寺 小県郡 信濃国分寺尼寺 佐久郡 長土呂遺跡周辺? 上野国最古山王廃寺(車評→群馬郡上毛野氏放光寺)である。 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考新田郡 天良七堂遺跡(国史跡) 寺井廃寺 緑野郡 緑野寺(浄法寺) 『続日本後紀承和元年5月乙丑佐位郡 三軒遺跡(佐位郡正倉跡国史跡上植木廃寺 吾妻郡 唯一金井廃寺東吾妻町指定史跡邑楽郡大泉町古永」想定矢島廃寺 多胡郡 多胡碑周辺 下野国 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考那須郡 那須官衙 浄法寺廃寺 なす風土記の丘小川館・展示 芳賀郡法田遺跡 大内廃寺(栃木県史跡) 河内郡 上神主・茂原官衙遺跡 下野薬師寺跡 足利郡 国府遺跡 寒川郡 千駄塚浅間遺跡 都賀郡 下野国分寺 武蔵国771年後に東海道となる。最古寺谷廃寺滑川町)である。勝呂廃寺(坂戸市入間郡)は、物部直広成一族郡司になったことで氏寺から郡寺へと性格変わったと書かれている高麗郡衙の付属寺院として女影廃寺 (日高市)が造られと書かれている郡名比定郡衙比定寺院根拠備考榛沢郡 中宿遺跡(埼玉県史跡) 岡廃寺 豊島郡 御殿遺跡 存在推定 都筑郡 長者原遺跡 存在推定 幡羅郡 幡羅遺跡 西別府廃寺 橘樹郡 千年伊勢山遺跡 影向寺 多磨郡 多磨寺(武蔵国府京所地区) 型押文字瓦「多寺」「□磨寺」 足立郡 氷川神社周辺大久保領家廃寺・宿宮前遺跡比企郡 西浦山王遺跡? 小用廃寺 入間郡 霞ヶ関遺跡群? 埼玉郡 池上小敷田北島遺跡? 男衾郡 百済遺跡? 豊島郡 御殿遺跡 久良岐郡 弘明寺 陸奥国 郡名比定郡衙比定寺院根拠備考賀美郡 東山官衙遺跡 菜切谷廃寺(宮城県史跡) 玉造郡 名生館官衙遺跡 伏見廃寺 名取郡 仙台郡山遺跡 郡山廃寺 伊具郡 角田郡山遺跡 存在推定 安達郡 郡山台遺跡 郡山台廃寺 白河郡 関和久官衙遺跡 借宿廃寺 標葉郡 郡山五番遺跡 存在推定 行方郡 泉官衙遺跡国史跡植松廃寺 磐城郡 根岸官衙遺跡 夏井廃寺(国史跡) 磐瀬郡 栄町遺跡 上人遺跡(国史跡) 牡鹿郡 赤井遺跡 出羽国では、払田柵跡第二次雄勝城であり山本郡衙(城柵郡家後の仙北郡)の可能性がある

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東山道(中山道)

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戊辰戦争」の記事における「東山道(中山道)」の解説

1月9日岩倉具定が東山道鎮撫総督任じられ21日京都出発した。なお、大垣藩鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に属していたが、直後に新政府に対して異心が無いことを表明して東山道軍の先鋒となっている。東山道(中山道)筋の諸藩定府大名多く江戸居住そのもの旧幕府への加担としての疑惑持たれことから沿道諸藩対応に苦慮した。だが、多くの藩では国元では抵抗行わず藩主鎮撫総督恭順意思示したことで一旦下された謹慎所領没収などの処分解除されている。むしろ、北関東に入ると、諸藩への対応よりも同地において発生した世直し一揆などの動きへの対応に迫られることになった

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