東山道先鋒総督軍側の動向
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「甲陽鎮撫隊」の記事における「東山道先鋒総督軍側の動向」の解説
東山道先鋒総督軍は3月1日(太陽暦3月24日)、東山道(現・中山道)を進軍し、下諏訪で本隊と別働隊に分かれた。伊地知正治率いる本隊はそのまま中山道を進んだが、板垣退助の率いる別働隊(迅衝隊)は、案内役の高島藩一箇小隊を先頭に、土佐迅衝隊(約100人)、因幡鳥取藩兵(約300人)らと共に甲州街道を進み、幕府の天領であった甲府を目差した。甲府城入城が戦いの勝敗を決すると考えた板垣退助は、「江戸~甲府」と「大垣~甲府」までの距離から東山道先鋒総督軍側の圧倒的不利を計算した上で、急ぎに急ぎ、あるいは駆け足で進軍し、3月5日(太陽暦3月28日)、甲府城入城を果した。 その後、勝沼字柏尾(山梨県甲州市、旧勝沼町)において板垣ら東山道先鋒総督軍と交戦した鎮撫隊は、兵力・武力とも官軍と比べ脆弱で、わずか2時間の交戦で壊滅した(甲州勝沼の戦い)。鎮撫隊の残党は上野原(現山梨県上野原市)まで退却後、各自勝手に江戸まで敗走した。
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