本隊
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「大水滸シリーズの登場人物」の記事における「本隊」の解説
梁山泊本山を拠点とする軍。梁山泊の防衛や各地への遠征を担当する。兵の大半は二竜山で調練を受けて配属される。官軍と比べて兵数で劣る分を、指揮官の能力や兵の錬度で補う。上級将校が慢性的に不足しており、将校一人で数千単位を指揮する状況が多いという問題を抱えている。最終決戦では、陥落した双頭山・二竜山から脱出した戦力も加えて童貫戦に臨んだ。 呼延灼(双鞭・天威星) 本隊総隊長。1072年生まれ。身長 - 180cm、体重 - 80kg。 (水滸伝)宋建国の英雄・呼延賛の末裔。元汝寧州・代州の将軍。得物は原典同様に鉄製の双鞭。将来を嘱望されていたが軍の腐敗に嫌気がさし、志願して地方軍の国境警備に甘んじていた。軍人としては超一流で巧みな用兵を行う。不本意ながら梁山泊と交戦した際には自身が考案した連環馬(れんかんば)で一度は勝利するが、直後に皇帝や軍への不信から梁山泊へ身を投じる。 入山後は穆弘・李俊と共に本隊の総隊長を務める。当初は入山の経緯から周囲に馴染めずにいたが、弟を失った穆弘の言葉を受けて積極的に周囲と関わるようになった。性格は公正厳格で戦場では仲間の死にも動じないが、戦いを離れると涙する一面も見せる。愛馬は自身の伝手で手に入れた朝影(あさかげ)と名づけた踢雪烏騅。代州に妻子がいたが、その存在を周囲に明かすことは殆ど無かった。 上級将校や軍馬の不足に悩まされつつも、禁軍との戦いで活躍。童貫戦では連環馬で大損害を与えた。最終決戦では本隊の騎馬隊を統括・指揮する。 (楊令伝)当初は仮の頭領、楊令の梁山泊復帰後は本隊総隊長を務める。殆ど落伍者を出すことなく残存戦力をまとめていたが、新生梁山泊建築前の流浪と仮の頭領としての重責は呼延灼を大きく疲弊させ、老いを自覚するようになる。老いは武器にも表れており、得物の双鞭も鑢で削り軽量化しなければ揮えなくなっていた。 突如梁山泊に入山した息子・穆凌に戸惑いを隠せず、一時は梁山泊入りに反対しており、入山後もまともに話すことはなかったが、内心では気にかけていた。童貫との決戦時にかつての友人、趙安を倒した直後に趙安軍の騎馬隊に追われ、危機に陥った穆凌を助けるために致命傷を負いながらも一人で五千の騎馬隊を止め、穆凌(呼延凌)や史進らに看取られて息を引き取る。死の間際に息子を褒め、得物の双鞭を託した。なお、楊令伝における梁山泊メンバー最初の戦死者である。 関勝(大刀・天勇星) 本隊総隊長。1069年生まれ。身長 - 180cm、体重 - 85kg。 (水滸伝)元洪州・雄州の将軍。禁軍に所属していたが高俅に嫌われて地方軍へ飛ばされたため、国家に対して冷めた見方をしている。しかしながら軍人としての気概も捨てきれないため煩悶し、その反動から大人気ない行動をとっては部下達を振り回す。ただし呼延灼と並ぶ軍人として評価は高く、指揮官として冷徹な判断力も有している。 梁山泊に共感しつつも魯達の勧誘に応じようとはしなかったが、叛乱の嫌疑をかけられたため梁山泊入りを決意。梁山泊入山時には彼を慕った部下たちが一緒になって付いてきた。入山後は呼延灼・穆弘らと共に総隊長を務める。呼延灼とは地方軍時代から意識しあう関係で、共に戦うようになってから互いの実力を認め合った。 童貫との決戦時に童貫の幕僚、馬万里と相討ちになり左腕を喪失、致命傷を負う。その状態で戦い抜いた後に張清、宣賛に別れを告げて息絶えた。民政についても思案し、その才も備えていたが発揮される機会はついに無かった。原典では三国志の関羽の子孫を称しているが、本作ではその設定はない。 『楊令伝』における呼延灼との会話で宣賛は自分が惚れ込み、人としての弱さがほとんど無かったと回想している。また、禁軍の葉超と交戦した史進や馬麟は、葉超の戦いぶりを関勝になぞらえて高く評価した。 穆弘(没遮爛・天究星) 本隊総隊長。1076年生まれ。身長 - 180cm、体重 - 80kg。 (水滸伝)元掲陽鎮の顔役。少年時代に目の前で兄を役人の息子に殺され、父親が何も行動しなかったため心に屈折した面を持つ。理知的な性格で宋江との出会いがきっかけで梁山泊の志に共鳴、反政府運動に参加する。優秀な指揮官だが激発したときの勢いは周囲に恐れられ、過去にイカサマ博打に負けて自分で片眼を抉り出したという逸話も持つ。最初は、失った片眼に木製の目玉をつけていたが、宋江に言われ、眼帯に変える。 呼延灼戦では弟の穆春を失い、自身も負傷により右足に後遺症が残るが、投降した呼延灼を同志として受け入れる度量の広さを見せた。禁軍・地方軍二十万の一斉侵攻の際に趙安の首を執拗に狙い続け、趙安に重傷を与えて趙安軍を一時後退させるが、その際に風で舞い上げられた土煙が目に入り敵の攻撃をかわしきれず、戦死。 呼延灼は、入山直後に穆弘から受け入れられた思い出を忘れずにいた。『楊令伝』において呼延灼は趙安と戦い、穆弘が討ち損じた首を奪ることになる。また、水中で死んだ同志と語らう童猛は、目玉が二つあれば趙安を討てたと穆弘が言っていたと楊令に語っている。 張清(没羽箭・天捷星) 本隊総隊長。1082年生まれ。身長 - 180cm、体重 - 85kg。 (水滸伝)元遼州の傭兵隊長。幼くして死別した父親から習った飛礫の技は抜群の腕前を誇る。やがて傭兵稼業に入り、各地の城郭を回る。高い報酬を取ったが、引き受けた仕事を一度も失敗しなかったことから魯達に眼をつけられ、梁山泊に誘われる。梁山泊の志には共感していたが、惚れた瓊英のために梁山泊と敵対する田虎に雇われた。 その後、魯達たちの活躍により梁山泊に同心。田虎一党を滅ぼして入山、穆弘の後釜として本隊総隊長を務める。主に歩兵の指揮を担当し、童貫戦では飛礫で童貫の肩を砕いて撤退に追い込んだこともある。終盤に入山した好漢の中でも最後の大物。着物や旗に緑色を好んで用いるため、緑衣の将軍とも呼ばれている。入山直後に瓊英と結婚し、最終決戦直前に一児をもうけた。 (楊令伝)呼延灼・史進と共に残存戦力を率いて流浪し、仮の頭領として周囲と軋轢が生じがちな呼延灼をよく支える。流浪中は得意の飛礫を封印していたが、楊令の帰還と前後して封を解いた。また、前作で生まれた息子、張朔とも初めて対面し飛礫を教える。 梁山泊再興後は再び本隊の総隊長を務め、童貫との決戦では劉譲に飛礫で重傷を負わせるなど活躍するが、劉譲の大軍に締め付けられ続ける。消耗しきったところに岳飛の攻撃を受け、相打ちを狙うも果たせず戦死。前作同様に緑色を好み、それを利用した影武者を用意した時期もあったが、部下を身代わりにすることを嫌ったため部下に緑衣の着用を禁じていた。 『岳飛伝』では生前に張清が発見した清針(方位磁針)を梁山泊水軍が軍事機密の装備として使用し、張朔が聚義庁の許可を得て岳飛に清針を提供している。 黄信(鎮三山・地煞星) 本隊将校。1077年生まれ。身長 - 170cm、体重 - 65kg。 (水滸伝)元青州軍の将校。梁山泊の蜂起前から花栄の部下として反政府活動に従事。秦明の入山後に正式に参加して二竜山・双頭山の将校を務める。外見的な特徴は特に無く、喪門剣(そうもんけん)と名づけた長剣を得物にする。董万の奇襲を受けた際に再起不能の重傷を負ったが、数合わせに駆り出された北京大名府攻略戦における審亮との一騎討ちの最中に気力でこれを克服、本隊将校として復帰する。 騎馬隊の指揮は果敢で粘り強く優秀だが、席次や扱いに対しての愚痴や不平不満が多いのが欠点(その欠点ゆえに一軍の指揮が認められないと呼延灼は評した)。『水滸伝』本編では朱富や丁得孫に不満を漏らし、『楊令伝』では戴宗も愚痴を聞かされたと回想している。史進や楊令が一軍を率いていることに不満を感じていたが、後に楊令については実力を認めた。童貫との最終決戦で戦死。 韓滔(百勝将・地威星) 本隊将校。1064年生まれ。身長 - 165cm、体重 - 65kg。 (水滸伝)元代州の民兵指導者で、部下を率いて開墾を続ける篤農家のような事を行っていた。かつて代州で活躍した軍人、韓審を父に持つ。語尾に「~じゃのう」と付ける年寄り臭い喋り方が特徴の人情家。代州へやってきた武松・李逵と親しくなる。梁山泊にシンパシーを抱いていたが、親友の呼延灼を助けるべく一度は梁山泊と戦う。彭玘と共に武松・李逵に捕らえられ、入山を決意。 入山後は将校として調練などに携わるが、間もなく重病に冒され己の死期を悟る。扈三娘の晁蓋への恋心を見抜き告白するよう促すも、晁蓋暗殺により実現しなかった。更に病が悪化しながらも軍指揮を務め、闇塩の道の手がかりを消すために占拠した北京大名府からの撤退時に、趙安の奇襲から宋江を守って戦死。実は(終盤まで)唯一、呼延灼の妻子の存在を知っていた。 『楊令伝』では息子の韓成が登場。韓成は農地を開墾するようにという父の言いつけに背き、梁山泊軍に加わった。呼延灼は韓成を祖父、韓審の勇猛さと韓滔のとぼけた所を受け継いでいると評している。 彭玘(天目将・地英星) 本隊将校。1065年生まれ。身長 - 175cm、体重 - 55kg。 (水滸伝)元代州の地主・民兵指導者。最愛の妻を急病で失った過去から、生死に対して恬淡とした所がある。呼延灼・韓滔とは親友で、時として人の死に涙する呼延灼を叱咤することも。韓滔とは、二人で互いの綽名を考えた。呼延灼と共に一度は梁山泊と戦うが、結局は同志として入山する道を選ぶ。精強な民兵を率いていた老練な指揮官で、若手の多い梁山泊軍では渋い働きを見せる。 韓滔が死病に侵されていることを知っていたが口止めされていた。韓滔の戦死後は彼の年寄り臭い喋り方を受け継ぐ。五丈河沿岸の戦闘で殿軍を務め、趙安の追撃から身を挺して郭盛と項充を撤退させ戦死。彼と韓滔の死は呼延灼に深い悲しみを与えた。 『楊令伝』で韓成は韓滔よりも彭玘に育てられたこと、彭玘をもう一人の父親のように感じていたことを楊令に語っている。また、杜興は、彭玘の死後に韓滔と彭玘の喋り方を自分が受け継いだことを引き合いに出して、職務を背負い込もうとする宣賛を諭している。 杜興(鬼瞼児・地全星) 本隊将校。1058年生まれ。身長 - 175cm、体重 - 70kg。 (水滸伝)元李家荘の執事。あばた面が特徴。李応の父に拾われ、子供の頃から執事として育てられた。役人対策などで李応をよく補佐していた。主に全てを捧げる思いを抱いていたが、入山後の人事で史進の副官を命じられて李応と切り離されてしまう。 自暴自棄となり部下の負傷兵達を苛め抜くが、活を入れられた兵達から逆に慕われるようになる。毒舌で史進らを苛めるが、李応の死を知った際はさすがに落ち込んだ。後に双頭山の副官や本隊の将校になり、董平や呼延灼・宣賛をサポートする。梁山泊よりも、常に李応のことを考えていた。梁山泊崩壊時には梁山泊に残ろうとしたが、宣賛に引きずられるようにして脱出する。 (楊令伝)李応の娘・李媛を補佐するべく、重装備部隊の副官となる。部隊運用が一段落した後に聚議庁に戻り、楊令や宣賛の相談役を務める。毒舌ぶりは未だに健在で、韓滔・彭玘の年寄り臭い話し方も受け継いでいる。若者のために先の短い老人が手を汚すという考えを持つ。 童貫戦の後は軍監や西域との交易の路を拓くための使節、巡邏隊のサポートなど地味だが重要な役割を果たす。李媛による李英への弾劾騒動の根底に『替天行道』が説いた国家打倒と建設の二つの志に対する軍人たちの齟齬があることを見抜く。そして事故に見せかけた自裁により騒動を収め、梁山泊内部に二つの志への齟齬があることを楊令・呉用・宣賛に示した。 杜遷(摸着天・地妖星) 本隊将校。1063年生まれ。身長 - 190cm、体重 - 85kg。 (水滸伝) ‹章タイトル―第2巻第7章 宋万、林冲らとともに王倫を粛清する› 王倫率いる梁山湖の山寨で第2位の地位にいたが、宋万と同じく王倫の堕落に不満を抱いていた。林冲の山寨奪取に協力し、梁山泊旗揚げに貢献する。思慮深く部下想いな性格ゆえ通常部隊の指揮官としては有能だった。焦挺には入山時から面倒を見ていたこともあり、親父のように慕われる。 雷横の戦死後、一時双頭山の大隊長になるが、祝家荘戦のため再び本隊へ配属される。独竜岡攻撃戦で火攻めの罠から部隊を身を挺して守り戦死。その死に様は、焦挺の目にはっきりと焼き付いた。 (楊令伝) ‹章タイトル―第2巻第3章 甥の祖永が登場する› 『楊令伝』で甥の祖永が登場。杜遷のあだ名をもじった『摸着雲』を名乗り、伯父のような戦いぶりに憧れる。祖永を治療した白勝は、杜遷が白勝と安道全、林冲の三人を兄弟のようだと評していたと聞かされ、自分だけが生き残ったことに理不尽さを感じた。また、杜遷が致死軍入りを打診するも機敏さが欠けていたため、諦めたことを公孫勝が回想している。 宋万(雲裏金剛・地魔星) 本隊将校。1071年生まれ。身長 - 180cm、体重 - 90kg。 (水滸伝) ‹章タイトル―第2巻第8章 王倫が粛清された新生梁山泊で自らを鍛え直す› 王倫率いる梁山湖の山寨で第3位の地位にいたが、行動を起こそうとしない王倫に不満を抱いていた。山寨奪取を狙って潜入した林冲に共感、杜遷と共に協力して王倫の粛清と梁山泊旗揚げに貢献する。大柄で、槍を遣う。自分の腕に慢心していたが致死軍の過酷な訓練に衝撃を受け、自らを鍛え直す。純粋な性格。強烈な存在感はないが兵には慕われた。独竜岡攻撃戦で全身に矢を受けながらも、部隊を身を挺して守り戦死。なお、『楊令伝』に登場する宋万は同姓同名の別人。 (楊令伝) 楊令伝に登場する方臘の護衛隊長を呉用は大柄な体格から宋万を連想し、名前を捨てたその隊長を宋万と呼ぶ。また、元王倫の配下だった宋万と杜遷を信用していなかったが、現場の指揮官たちは信頼していたことも思い出している。 焦挺(没面目・地悪星) 本隊将校。1079年生まれ。身長 - 185cm、体重 - 95kg。 (水滸伝)当初は杜遷の部下。相撲で役人の息子を殺してしまったため追われることになり、王倫の山寨に母を伴って入山する。病気の母を死ぬまで面倒を見てくれた安道全に恩義を感じ、杜遷と林冲のメッセンジャーを務めて、王倫の粛清と梁山泊旗揚げに貢献する。相撲(本作ではレスリングという設定)が得意な巨漢で、茫洋とした風貌だが、記憶力にも優れる。 独竜岡での戦いにおいて、戦死した杜遷・宋万の後任として大隊長に昇格。任務の重さに悩みながらも活躍する。しかし独竜岡陥落時に宋軍の退却路を調査中、矢の罠を受けて致命傷を負う。宋江や呉用らが見守る中、安道全の手当てを受けるも甲斐なく、母の下へ行くと言い残して事切れた。 『楊令伝』では相撲の腕を自慢する山士奇に対して、郭盛が焦挺の相撲の腕前と林冲に鍛え上げられたエピソードを語り、山士奇では相手にならないと評している。 童威(出洞蛟・地悪星) 本隊将校。1080年生まれ。身長 - 170cm、体重 - 65kg。 (水滸伝)李俊の弟分で闇塩の商売に関わっていた。弟の童猛とは一卵性双生児のため、見分けが付くように髭を剃っている。弟とは操船や剣の技量なども同等で、双子の繋がりからか、お互いの感覚などを感じあうことがある。李俊に従い梁山泊に入山。独竜岡戦で宿元景の騎馬隊と戦い、味方を助けるために血路を開こうと敵に突っ込み戦死。童猛は髭を半分だけ剃って、祝家荘の戦いに臨んだ。なお、原典で生き残った百八星としては、北方水滸伝初の戦死者である。 『楊令伝』で童猛は洞庭山の水路調査にあたり、洞庭湖の様々な場所に死んだ同志を重ね見ていたが岩の多い場所を童威と思い、語らっている。また弟分のひとり、狄成は童威が一人で妓楼へ出入りしていたことを童猛に明かしている。 李袞(飛天大聖・地走星) ‹地走の星› 本隊将校。1079年生まれ。身長 - 175cm、体重 - 65kg。 (水滸伝)元博州の村の私兵隊長。賊徒になることを良しとせず、村を守るために樊瑞・項充と用心棒のような稼業を生業としていた。飛刀を使うが武術は大して強くない。臆病だが率直な性格で、部下には慕われている。官軍に追われた盧俊義と燕青を匿ったことから一念発起、樊瑞と項充を連れて梁山泊入りする。二竜山での調練を経て本隊将校となる。しかし配属直後の対呼延灼戦で、連環馬に踏み潰され戦死。彼の死は樊瑞の人生に大きく影響を及ぼす。 (楊令伝) ‹章タイトル―第2巻第2章 項充が李袞の思い出を語る› 『楊令伝』では項充が杜興や扈三娘たちとの会話で、李袞は頭ごなしに命令せず納得させて部下を動かす男だったと振り返っている。また、李袞を死なせた呼延灼に対して項充は微妙な感情を抱いている。 単廷珪(聖水将・地奇星) 本隊将校。1077年生まれ。身長 - 170cm、体重 - 60kg。 (水滸伝)元雄州軍の将校で関勝の部下。魏定国とは親友。綽名の由来は遼軍との戦いで水攻めに成功したことがあるため。特に思想的なものは無く、関勝を慕い共に梁山泊について来た。双頭山に配属され、黄信と同じように董万の奇襲で再起不能の重傷を負う。復活した黄信の真似をするも上手くいかず、廃兵になったショックから荒むが、林冲の荒療治で復活する。 童貫との決戦で後退する張清軍の殿軍を務め、戦死。その死は張清の心に大きな傷を与える事になる。なお「たんていけい」とルビを振られているが、通常「単」の字が姓として使用される場合は「ぜん」という音を当てるのが通例。 単廷珪の戦死を報告する声を張清は忘れられず、『楊令伝』での童貫との前哨戦にて楊令が殿軍を務めると決めた際、楊令と李俊に単廷珪を死なせたことを悔やんでいると告白した。 丁得孫(中箭虎・地速星) 本隊将校。1073年生まれ。身長 - 180cm、体重 - 85kg。 (水滸伝)元は張清率いる遼州の傭兵部隊将校。山賊の首領だったが張清に敗れて部下になったという経緯がある。綽名は傭兵時代に友達の龔旺があばた面を矢傷に例えて名づけたもの。将校としての資質はあるが、経験不足のため実力を十分に発揮できないまま戦力に入れられる(梁山泊の上級将校不足も原因)。 童貫との決戦時には鮑旭と共に前衛を務めたが執拗な攻撃に恐怖を覚え、無理な追撃をかけて敗走。冷静になり、罰を受けるべく自陣に帰還する途中に毒蛇に噛まれて死亡。 『楊令伝』で岳飛を侮り失態を演じた花飛麟に対して、鮑旭は自分と丁得孫の違いは経験の差だったと回想している。また、一人で死んだ丁得孫とは違い、才能があるゆえに花飛麟は部下を道連れに死んでいくとも忠告した。 作者との対談企画『やつら』に第4回の相手として登場。毒の影響で顔色が青黒くなっている。死に様については気にしていないが死ぬ前に失くしてしまった愛用の剣を捜しており、作者に在り処を尋ねた。
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