二竜山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 23:41 UTC 版)
「大水滸シリーズの登場人物」の記事における「二竜山」の解説
青州の州境に位置する拠点。二竜山を根城にしていた賊徒を討伐し、楊志を頭目に反政府活動を開始。後に李忠・周通が根城にしていた桃花山を組み込む。総隊長が秦明に代わってから、燕順らが闇塩の道防衛に用いていた清風山も組み込まれ、三山とその間の地域を総称して二竜山と定められる。梁山泊入りを希望する者の窓口であり、ここで調練を行った後に本隊へと兵士を送り出す。また解珍の提案で、負傷により戦えなくなった者が働ける工房が建てられた。 楊志(青面獣) 総隊長。1075年生まれ。身長 - 180cm、体重 - 80kg。 (水滸伝) ‹章タイトル―第2巻第3章 楊志、地方巡検使に任命される› 宋建国の英雄、楊業の子、楊六郎延昭の末裔。元禁軍所属。顔の半分を覆う青痣から青面獣の異名を持つ。剣の達人で、得物は先祖伝来の宝剣・吹毛剣。巡検使を務めた際に梁山湖で林冲と立ち合い互角の勝負を展開するも、僅かな慢心から吹毛剣を抜かなかったため手傷を負う。高俅に嫌われ青州に左遷。腐敗に憤りつつも輸送していた高官の賄賂を晁蓋らに強奪されたため軍を離脱する。 曹正の店に逗留していた際に、賊徒に蹂躙される民の実情を目の当たりにし、魯智深・曹正と共に二竜山(にりゅうざん)の賊徒を討伐。なし崩し的に頭領にされてしまい、反政府活動を始める事になる。この一件で孤児を拾い、楊令と名づける。また、身の回りの世話をする済仁美とも妻帯して家族となる。最初は叛徒になることへ抵抗感を抱いていたが、やがて梁山泊に同心。二竜山を募兵や生産の拠点として発展させていく。 楊家の血筋と傑出した才で人々を集めたがゆえに、青蓮寺の馬桂を使った暗殺作戦の標的とされ、家族三人の団欒中に王和の闇軍に襲われる。百人以上の敵を倒して幼い楊令を守り抜いて壮絶な最期を遂げ、梁山泊百八星メンバー最初の戦死者となる。その死は生き残った楊令の心に深い傷を残すと同時に、その後の人生に大きな影響を与えた。公式サイトの人気投票は第2位。 『楊令伝』では女真での戦いが原因で楊令が親子の死に関する事柄になると、楊志の死に様がフラッシュバックし半狂乱で戦おうとする(後半で克服した)。また童貫は楊令が楊志を軍人として超えたと評し、李俊は青蓮寺に斃された晁蓋と楊志の死が楊令の人生を大きく変えたと感じている。 秦明(霹靂火) 総隊長。1058年生まれ。身長 - 175cm、体重 - 70kg。 (水滸伝)元青州の将軍で、地方軍屈指の実力を誇る名将だった。しかし、剛直な性格が災いし中央からは冷遇されていた。それでも軍人としての誇りから職務を遂行していたが、魯達に説得されて梁山泊に加わる。 怒ったときの気迫は凄まじく、怒声と平手打ちは部下に恐れられる。ただし普段は思慮深く、戦闘でも我を見失うことのない忍耐深さを見せる。なお、原典では狼牙棒の使い手だが、本作では過去に用いていたと僅かに語られる程度である。本来の二竜山に加え、盧俊義の下で闇塩ルートを防衛していた燕順ら率いる清風山(せいふうざん)と、楊志が総隊長だった頃から二竜山の支部的役割だった桃花山(とうかざん)を統合、三山とその山間の地域を総称した新生二竜山を作り上げた。 楊志と済仁美を喪った楊令を公淑らと共に育てる。後に公淑を妻に娶り、一人息子・秦容をもうける。公淑への告白をためらう、子煩悩な面を見せるなど家庭では意外な面を見せた。趙安の二竜山攻撃に際し一年余りの間これをひきつけ、最後まで二竜山に残って抵抗、降伏勧告を拒絶して戦死する。 『楊令伝』でも楊令や郭盛などが話題に挙げている。また、童貫は王進の下を訪れた際に、秦明が優れた指揮官だったと秦容に語っている。 石秀(拚命三郎) 副官。1078年生まれ。身長 - 180cm、体重 - 75kg。 (水滸伝)元河水の叛徒。劉唐・楊雄と共に梁山泊入山前から公孫勝のゲリラ活動に参加しており、当初は致死軍に所属していた。しかし優しすぎる性格から致死軍に不向きと判断され、二竜山の楊志の補佐役に転任。本人はその事が負い目となっている(ただし公孫勝は樊瑞を致死軍にスカウトした際、石秀が存命なら呼び戻して暗殺部隊に据える構想があったことを語っている)。 楊志暗殺後、急遽二竜山と桃花山の総隊長代理を務め、許定の二竜山攻撃時に青蓮寺の工作により開けられた城門からの攻撃を身を挺して防ぎ戦死。決戦の直前に致死軍時代から愛用していた短剣を楊令に托し、致死軍への気持ちを整理した。短剣は幼い楊令の修行用に用いられ、後に楊令の弟分となった張平に受け継がれる。 『楊令伝』では短剣が秦容、蔡豹たちに受け継がれて彼らの修行に用いられる。また、王進の下を訪れた際に公孫勝は石秀への判断が正しかったか自問していると吐露した。 解珍(両頭蛇) 副官、後に軍師。1054年生まれ。身長 - 160cm、体重 - 55kg。 (水滸伝)元独竜岡の解家村の保正。だが祝家荘の陰謀で土地を奪われ、近くの山中で猟師をしていた。それ以来、祝朝奉に屈した自分を深く恥じ、自嘲と韜晦の中にいた。魯達と意気投合し、祝家荘を内部から崩壊させることに成功。入山後は魯達の推薦で秦明の補佐役として、二竜山を陰で支える。 なお原典とはちがい、本作では解宝とは親子に変更されており、梁山泊百八星メンバーの中でも年長格である。獣の血と香料を混ぜて作る秘伝のタレを生肉にかけたものが得意料理だが、滅多に振る舞うことはなかった(タレのレシピは数人に教えており、『楊令伝』で陶宗旺や孫二娘が受け継いでいることが明かされた)。常に黒鉄(くろがね)という犬をそばに置き、その息子の黒雲(くろくも)は子午山に向かう楊令にやった。 偽装和平交渉の際は梁山泊の交渉役として開封府へ赴き、高俅を騙して時間を稼ぐ。梁山泊よりも二竜山を気に入っていた。趙安の攻撃に際しては最後まで二竜山に残って抵抗を続け、物資運搬用の籠を用いて滑り降りるという奇策を用いて何信を討ち取った後に戦死した。 郝思文(井木犴) 副官。1063年生まれ。身長 - 160cm、体重 - 50kg。 (水滸伝)元雄州軍将校で関勝の副官。赴任直後の関勝に下級将校から抜擢されたという過去がある。小柄で目立たないが沈着冷静な性格。分別臭いことを口にするが、自分の考え通りに相手を誘導するという強かさも持つ。わざと騒ぎを起こして牢屋に繋がれた魯達の言動に興味を抱き、関勝と引き合わせた。後に宣賛達と共に関勝の梁山泊入りを後押しする形で入山するが、あくまでも自分なりの信念で加わり、妻子に対しても十分に話し合った末に一家で行動を共にした。 妻と一男一女の子供がおり、軍に加わった息子の郝瑾に対しては親子故に必要以上に厳しく接し、なかなか将校への昇格を認めなかった。しかし、秦明と解珍の助言を受けて郝瑾の実力を見直して昇格を認め、彼が下級将校に就任した時は心から祝った。二竜山陥落時に、秦明に殉じて戦死。 『楊令伝』では郝瑾に加えて、前作で存在のみ語られた妻・陳娥と娘・郝嬌が登場する。 楊春(白花蛇) 将校。1077年生まれ。身長 - 170cm、体重 - 70kg。 (水滸伝)元少華山の賊徒。金持ちの妾になった母親に反発、放浪していた時に朱武・陳達と出会い、義兄弟となる。自分で物事を考えるのが苦手で、朱武たちの言うことに従っていれば良いと思っていた。だが入山後は二竜山に配属され、兄弟分と引き離される。無口だが兵への面倒見が良く、特に小部隊の指揮が得意だった。 秘めた素質を見抜いた秦明の指示で解珍と旅に出て自らを見つめなおす。雄州や子午山を回ったのちに復帰、その後は素質を開花させ、大隊長として官軍の大攻勢を戦う。公平な性格で、入山直後の楊令が勝手に指揮を執って活躍した際、規律違反として兵たちの見ている中で杖打ちの罰を与え、その後で正式な指揮官に任命した。 二竜山陥落後は残存戦力を率いて本隊に合流する。最終決戦終盤で劣勢を挽回するべく突出、奮戦するも及ばず戦死。 『楊令伝』では南宋との決戦時に田忠を歩兵の指揮官につけると決定した際、楊令が人の成長の一例として楊春の旅を語ることで周囲を説得している。 燕順(錦毛虎) 将校。1064年生まれ。身長 - 170cm、体重 - 65kg。 (水滸伝)元清風山の叛徒。王英・鄭天寿の兄貴分で3人で放浪していた際に晁蓋と出会い、清風山で賊徒を装いながら盧俊義の闇塩ルートを防衛し続けた。弟分たちと出会う前の過去は不明。清風山が二竜山に併合されてからは、大隊長として戦闘や新兵の調練に従事する。目立たない容貌だが完成された判断力を持つ。 禁軍地方軍二十万の大攻勢時に、董万の攻撃を清風山を二竜山と分離させる事で長期間引き付け、二竜山の防衛成功と引き換えに戦死。秦明には無断の、解珍と示し合わせたうえでの行動だったが結果として二竜山全体は陥落を免れた。清風山に愛着を抱き、最期まで自分の山だと誇っていた。 『楊令伝』では新たに整備された拠点・洞庭山の山のひとつが、燕順にちなんで『錦毛山』と名づけられた。 鄭天寿(白面郎君) 将校。1077年生まれ。身長 - 170cm、体重 - 60kg。 (水滸伝)元清風山の叛徒。燕順・王英の弟分として闇塩ルートの防衛に従事した後に、梁山泊正規軍へ編入される。色白の優男だが男色を毛嫌いする。その理由は、少年期に金持ちの男色相手をさせられた事に起因する。ひとりだけでできる銀細工を好み、職人をしていた時期もある。両親に捨てられ、飢餓と病で弟を喪った過去を持ち(金持ちに囲われたのはその後)、楊令を弟のように大事にする。 祝家荘戦の緒戦で快勝した直後、高熱を出す楊令を救おうと崖に生えた薬草を採ろうとし、崖から滑り落ちて死亡。病が癒えた後、楊令はその薬草を肌身離さず持ち歩く。『楊令伝』においてもそれは変わらなかったが、経年によって薬草が粉々になっていたときは、入れ物の袋ごと爪で小さく裂き、水とともに飲み込んでいた。 周通(小覇王) 将校。1075年生まれ。身長 - 165cm、体重 - 60kg。 (水滸伝)元桃花山の賊徒。李忠と共に国家へ反感を抱きつつもくすぶっていた。楊志の妻、済仁美に横恋慕して彼女の店で暴れたところを武松に叩きのめされ、それがきっかけで梁山泊入りする。『楊令伝』で元部下の段景住に「下から見ても頼りなかった」と評されたが、楊志暗殺後の二竜山攻撃に対して指揮官としての重圧に押し潰されそうになるも、見事な指揮官振りを発揮。援軍到着まで桃花山を身を挺して守り、戦死した。 鄒潤(独角竜) 将校。1082年生まれ。身長 - 170cm、体重 - 65kg。 (水滸伝)元独竜岡の猟師で鄒淵の弟。祝家荘戦後に入山。喧嘩に勝つために頭突きを鍛えたので額に大きな瘤がある。暢気な性格だが、過去に扈三娘から「人間(の頭)ではない」と侮辱された(言った当人は忘れている)ことが心の傷となっている。二竜山陥落後は楊春と共に本隊と合流。 最終決戦にて前述の心の傷が原因で包囲された扈三娘の騎馬隊救出に行かず、敵の斥候隊を追ってしまい、その後林冲が扈三娘を救出、戦死したことを知り自責の念に駆られる。歩兵の指揮官として死に場所を求めて戦い、戦死。 『楊令伝』では童貫戦で扈三娘が戦死した際、鄒潤が扈三娘からの侮辱や林冲の死を気にしていたと杜興が回想している。 龔旺(花項虎) 将校。1084年生まれ。身長 - 175cm、体重 - 70kg。 (水滸伝)元は遼州の傭兵部隊将校で張清の部下。子供時代から付き合いのある張清を兄のように慕う。背中に虎の刺青があり、傭兵時代に友人の丁得孫とお互いの綽名を付け合った。野戦に才があるが篭城戦は性に合わない。二竜山を攻めてくる趙安に対し逆撃をかけるが、侵攻用に掘られていたトンネルを使った趙安軍の攻撃を受け、郝瑾と共に深傷を負う。生死の境をさまよう郝瑾に自らの命を譲ると言い残し死亡、郝瑾は命を繋ぐ。 『楊令伝』では李英の出奔時、呉用が李英への評価と重ね合わせる形で、龔旺は何かひとつ足りなかったために命を落としたと評した。また、郝瑾は龔旺が自分の中で半分生きていると言っていたことを楊令が明かしている。 曹正(操刀鬼) 兵站担当。1074年生まれ。身長 - 185cm、体重 - 100kg。 (水滸伝)密州の食堂・女郎屋の主人。反政府活動をしていた兄を役人(青蓮寺)に惨殺されたことを知った時、怒りで頭に血が上り、その痕跡が額に赤痣として残る。その際に盧俊義と出会い、その下で闇塩に関わる。楊志の二竜山制圧を助け、妓館で働かせていた済仁美と楊志の仲を取り持った。 後に流花寨・双頭山・梁山泊と全ての拠点の兵站を転々とし、最終決戦時には非戦闘員を受け入れるために揚州に拠点を移す。刃物遣いに長け、武術はもちろん、肉料理の腕前は秀逸(ソーセージのような肉を腸に詰めた料理を、二竜山の兵士に振舞った事もある)。 (楊令伝)洞庭山で新兵の調練に従事する。実戦経験は乏しく、李俊に不満を漏らすこともあったが祖永といった若手を育成した。調練指揮官の任を終えた後は交易品の管理を担当。自由市場が各地で開かれてからは南方への交易路を開拓した。 (岳飛伝)呉用の命を受け西夏との国境沿いにある交易の要衝、沙谷津において西域からの物資管理・差配を担当する。楊令の壮大な構想については理解を示しつつも、彼の幼少時を知る者として楊令に頭領としての重責を押し付けた事を悔やんでいる。江南への交易路を開拓した王貴や商隊の指揮を執る韓成らに交易を任せ、本寨へと戻る。聚義庁の首脳として活動し、金との講和成立後に沙谷津へ戻る。 蔣敬(神算子) 兵站担当。1077年生まれ。身長 - 165cm、体重 - 55kg。 (水滸伝) ‹章タイトル―第5巻第3章 商いと算術の力を活かし二竜山を発展させる› 元渭州の牢城の囚人。計算が得意だが身体的にひ弱なことがコンプレックス。喧嘩をして投獄された際に裴宣と知り合い、公孫勝救出作戦に協力。盧俊義の下で働いた後に、二竜山の兵站を担う。楊志が総隊長だった頃は、表向きに安丘で商館長を営んでいたため、顔を知られないために覆面をしていた。 痩せていて眼が大きく、尖った顎が特徴的。解珍といいコンビを組み、二竜山の物資調達能力を飛躍的に向上させた。最終決戦では本隊の兵站も担当する。 (楊令伝)引き続き兵站を担当。新寨完成後は梁山泊が支配する地域の商業も監督し、経済・価格統制などを行う。戦いに不向きというコンプレックスを現在も抱えているが、自身の役割に徹している。商売に関する税を売り上げの二割のみ役所に納め、その商品となる東西の交易品に関する物流を梁山泊が統制するという自由市場構想の立案者であり、北京大名府や青州の自由市場化を自身の戦と思い定める。 梁山泊が物流を支配することで外交的に他国を圧することが可能と考え、中原の各地で自由市場を開くことを進める。一方で武邑で膨大な物資の差配を担当し、商業・物流の活性化に尽力する。部下として配属された宣凱を厳しく扱うも、自分の後継者と思い定めていた。河水の氾濫による大洪水の中、物資を身を挺して守ろうとして濁流に呑み込まれ、死亡。 白勝(白日鼠) 梁山泊の養生所・薬方所の事務。後に二竜山の医師。1080年生まれ。身長 - 160cm、体重 - 55kg。 (水滸伝) ‹章タイトル―第2巻第5章 晁蓋らの生辰綱略奪に加わる› 元滄州の牢城の囚人。小柄で出っ歯。悪い盗み癖のある盗人だが、安道全とは兄弟のように親しい友人である。重病にかかり、林冲・安道全と脱獄するも死の淵に瀕する。吹雪の中で決行された安道全の手術で生還し、盗み癖も消える。志は特に持たないが、友との信義を大切に思っており、花栄からも一目置かれる。 入山後は梁山泊の養生所・薬方所の管理を行いながら安道全の元で医術を学び、一人前の医師に成長した。林冲が張藍の生存を餌にした青蓮寺の暗殺に遭いかけた時、魯達とともに救出に向かい、瀕死の林冲に昼夜付き添った。 二竜山に医師として赴任、その際に安道全から自分の手術の際に用いられた短刀を贈られる。二竜山陥落後は本隊で治療を担当する。 (楊令伝)引き続き、梁山泊の医療面を担う。病など内科関係は不得手だが、外科の腕前に優れている。林冲と安道全が自分より先に死んだ事に、やるせなさと理不尽さを感じている。兄弟子の文祥とは、意見の相違から対立することもある。 童貫戦の後は武邑に設立された診療所に赴任。武邑が大洪水で壊滅した後は梁山泊の本寨に戻る。 (岳飛伝)湖寨のころからの最古参のメンバー。梁山泊の行く末についてはこれ以上怪我人を見たくないという理由で、解散するべきと考えている。金との講和後に衰弱し養生所へ運ばれる。寝たきりの状態で林冲・安道全と話し続け、ひっそりと息を引き取った。
※この「二竜山」の解説は、「大水滸シリーズの登場人物」の解説の一部です。
「二竜山」を含む「大水滸シリーズの登場人物」の記事については、「大水滸シリーズの登場人物」の概要を参照ください。
- 二竜山のページへのリンク