しゅっ‐ぽん【出奔】
出奔
出奔
欠落
(出奔 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/26 02:08 UTC 版)
欠落(かけおち・闕落)とは、戦乱・重税・犯罪などを理由に領民が無断で住所から姿を消して行方不明の状態になること。江戸時代には走り(はしり)などとも称された[1]。武士の場合には出奔(しゅっぽん)・立退(たちのき)などと呼んで区別したが、内容的には全く同一である。
注釈
- ^ 中世以後における類似の現象として「逃散」があげられるが、逃散の場合は領主側との訴訟・交渉や宗教的要素と組み合わされ、かつ必ずしも実際の逃亡を伴わない(自宅に籠って抵抗する事例もある)など、その性格は大きく異なるものである。
- ^ こうした動きは「欠落」の語が誕生する以前の南北朝時代から見られ、松浦党の一揆契状では、年貢未進や負物のない百姓の受け入れは認めること、下人は元の主人が要求すれば返却することが定められている。
- ^ なお、欠落者の妻子が届出・捜索に加わる事は封建的な家制度において敬う対象とされた夫や父親の罪を糾弾する不道徳な行為と考えられて認められず、また欠落者に犯罪の事実があれば妻子が縁坐する形で代わりに拘束された。
- ^ 文政6年の幕府評定所の決定では、欠落から60年を経た場合に永尋対象者は死亡扱いとされて人別帳から除かれた。
- ^ 欠落者の妻子には旧離の申請資格は無かったが、実務的には帳外が受理された時点で旧離と同様の扱いを受けた。
- ^ 欠落者の妻は帳外とされた後に10ヶ月の猶予期間を経て再婚する事が許された。
- ^ 本来であれば、没収した財産を清算する過程で債権者に支払われる性質(ただし、これも没収した領主側の意向により、そのまま債務の破棄を宣告して領主が没収した財産の全てを獲得する事も可能であった)のものであった。
出典
出奔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 01:37 UTC 版)
天正12年(1584年)の蟹江城合戦では家康の旗本衆と行動を共にする。勝成は伊賀者とともに真っ先に乗り込み、九鬼船二艘を乗っ取る。一益の子滝川三九郎と一騎打ち。勝成は三槍入れるも二ヶ所槍を入れられ、双方傷を負い、三九郎は大手門に逃げ込む。このとき服部保英(服部正成の甥)は勝成に属して武功をあげた。家康・信雄が羽柴秀吉と伊勢国桑名で睨み合う陣中において、父・忠重の部下を自らの不行状を報告したとして斬り殺したことから、忠重は激怒し勝成を奉公構(事実上の他家への仕官禁止)として勘当した。その後しばらく家康によってかくまわれ須賀口(清洲)の寺に引きこもっていたが、忠重の追及があり逃れた。以後、美濃・尾張の縁者の下を転々とし、遂には京都にいく。 京都では従者も連れず闊歩し、南禅寺の山門に寝泊まりし、町に出ては多くの無頼の徒と交わり、清水では大いなる喧嘩を始め、多くの人を殺害する事件を起こした。 天正13年(1585年)3月27日、織田信雄の肝煎りで秀吉の陣営に入った勝成は、紀州雑賀攻めに参加した。同年に四国征伐(第2次四国征伐)が行われることになると、仙石秀久家中としてこれに加わった。9月1日、勝成は豊臣秀吉から摂津国豊島郡神田728石の知行を授かっているが、間もなく知行を捨てて中国地方に逃亡し「六左衛門」と名乗るようになった。秀吉から刺客を放たれたという。勝成自身はこの時期の行動を記録に残しておらず、詳細ななりゆきは不明である。
※この「出奔」の解説は、「水野勝成」の解説の一部です。
「出奔」を含む「水野勝成」の記事については、「水野勝成」の概要を参照ください。
出奔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 07:47 UTC 版)
ところがその後、伏見に居た成実は突如として伊達家を出奔し、角田城は政宗の命を受けた岩出山城留守居役の屋代景頼によって接収され(成実の家臣・白根沢重綱らの内報を受けた景頼が角田城を急襲したともいわれる)、この際に抵抗した成実の家臣・羽田実景ら30人余が討死し、成実の家臣団は解体された。なお、成実の妻子が角田城接収にあたり、景頼によって殺害されたというのは全くの誤りである。上記の通り、成実の正室・亘理御前は既に他界しており、この時点で他に妻子が存在したことを示す史料も存在しない。 ただ、この事件については不明な点があまりにも多い。まず出奔の日付自体に文禄4年(1595年)秋から慶長3年(1598年)までの諸説があり、出奔先も高野山と相模国糟谷(現在の神奈川県伊勢原市)の両説があり、出奔の理由についても、家中での席次を石川氏に次ぐ第二位とされた上に禄高も少なくされたことへの不満が原因であるとする説、秀次事件への政宗の連座を避けるために嫌疑の内容を自らが被って隠遁したとする説などがある。また軍記物においては、秘密工作実行のために政宗の命を受けて出奔したと描くようなものもある(『蒲生軍記』)。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると、成実は上杉景勝から禄高5万石で家臣となるよう誘われたが、「本来ならば家臣筋の家に仕えるつもりはない」としてこれを拒絶した。また出奔中に大久保忠隣を介して徳川家康からも誘いを受けたが、政宗の奉公構により破談になったという。同年秋、伊達政景・片倉景綱らの説得によって帰参し、7月の白石城攻めにも石川昭光の軍に属して参加したといわれる。
※この「出奔」の解説は、「伊達成実」の解説の一部です。
「出奔」を含む「伊達成実」の記事については、「伊達成実」の概要を参照ください。
出奔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:38 UTC 版)
秀吉が綱元を気に入り直臣として召し出そうとしているとの噂を耳にした政宗は、次第に綱元を疑うようになり、ついに文禄4年(1595年)、綱元は政宗の命により良綱に家督を譲ることを迫られ隠居に追い込まれた。この時、綱元に与えられた隠居料はわずか100石に過ぎず、加えて隠居料以外の収入を得た場合には良綱が相続した茂庭氏の本領5,000石をも没収するという条件が付けられたため、憤激した綱元は伊達家から出奔した。 この時、本多正信を介して徳川家康から誘いを受けたものの、政宗の奉公構により破談となる。綱元の境遇にいたく同情した家康は、中白鳥毛槍・虎皮の鞍覆・紫縮緬の手綱を贈り、また当座の資金として関八州の伝馬10疋の朱印状及び永楽銭200貫文を与えた。中白鳥毛槍は現存し、昭和48年(1973年)7月1日に松山町から文化財指定を受けている。 慶長2年(1597年)、赦免されて伊達家に復帰する。
※この「出奔」の解説は、「鬼庭綱元」の解説の一部です。
「出奔」を含む「鬼庭綱元」の記事については、「鬼庭綱元」の概要を参照ください。
出奔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 17:47 UTC 版)
献公の公子のうち、占いで吉と出た重耳(後の文公)に仕えた。 紀元前653年、驪姫の乱の策謀を避けて出奔した重耳に従い、その後19年にわたって諸国を放浪した。狄での亡命生活中に叔隗(重耳の妾となった季隗の姉)を妻とした。叔隗は後の趙の礎を築く趙盾を生んだ。 紀元前645年、晋で重耳の弟である恵公が即位した。恵公が声名のある重耳の帰国を恐れて刺客を送ってきたため、重耳とともに斉へ逃れた。
※この「出奔」の解説は、「趙衰」の解説の一部です。
「出奔」を含む「趙衰」の記事については、「趙衰」の概要を参照ください。
出奔
「出奔」の例文・使い方・用例・文例
出奔と同じ種類の言葉
品詞の分類
- >> 「出奔」を含む用語の索引
- 出奔のページへのリンク