交易品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 21:17 UTC 版)
歴史的に扱われてきた主な交易品として塩、金、奴隷、タカラガイ、コーラの実があった。塩とコーラの実は21世紀以降も取り引きされている。キャラバンのラクダが背負える重量は100キログラムから120キログラムであり、採算を取るには旅費の1.5倍から2倍以上の価値の品物が必要だった。そのため贅沢品か国家が求める品を選んだ。 塩は塩山や塩鉱から掘り出されて南方へ運ばれた。塩鉱はアウリル、テガーザ、カウアル山地(英語版)などにあった。塩は交易路の定期市では各地の産物と交換され、さらに金やコーラと交換された。21世紀以降もタウデニで採掘された塩が交易されている。塩鉱で採掘された岩塩は板状に削られてバーと呼ばれ、バーの重量は1枚あたり約30キログラムとなる。バーをラクダで運ぶ場合は、ラクダの年齢に合わせて枚数を決める。4歳以上は左右2枚ずつ計4枚、3歳は3枚、2歳は2枚となる。 金は、西スーダンのセネガル川で産する砂金が主なものだった。「スーダンの金」とも呼ばれ、北から運ばれる塩と交換された。金はイスラーム王朝が発行するディナールや、ヨーロッパのドゥカートやフローリンなどの金貨の素材となった。豊富な金によってガーナ、ガオ、マリ、ソンガイなどの国家が栄え、「黄金がニンジンのように土から生える」という伝承が地中海沿岸では生まれた。金が南から北へ運ばれ続けたのは、貨幣文化の違いもあった。金を産出する西アフリカでは、タカラガイの貝貨や、銅、塩、布が貨幣に使われており、金は装身具や贈り物だった。砂金は16世紀には枯渇が進んだ。 奴隷は塩や金に次いで高価な交易品として扱われ、9世紀頃からマグリブ、アンダルス、エジプト、アラビア半島、メソポタミアへと運ばれた。こうした奴隷の増加とともに、アラビア語文献では黒人が劣った人間として記録された。最初期の文献はマスウーディーの『黄金の牧場と宝石の鉱山』(947年)であり、黒人を「知能が足りず、知性が弱い」と論じている。のちのアラビア語文献も黒人の能力について同様の記述をしており、劣る者とみなすことは時代とともに減ったものの16世紀まで続いた。奴隷は16世紀までは年間平均で4000人から5100人、その後はモロッコやハウサ諸王国の影響で7000人に達したとされる。主に若い女性が交易され、妻妾や召使いにされた。男性はオアシスのナツメヤシ畑の管理者、兵士、官僚にされた。ヨーロッパ諸国による大西洋奴隷貿易とは、規模や奴隷の扱いが異なっていた。 タカラガイはモルディブ諸島で採取されたものがインド洋を越えて運ばれ、アフリカで貝貨として使用された。9世紀頃からモルディブのタカラガイが運ばれていたとされ、紅海から北アフリカをへて交易路に入るルートか、地中海沿岸を進んでサハラ砂漠を横断するルートが使われた。 コーラの実は西アフリカで広く使われている嗜好品で、新鮮な実を刻んでチューインガムのように噛み、眠気覚ましや興奮剤にする。食感は生のニンジンに似ており、渋味がある。サハラ交易では14世紀以降に扱われるようになった。森林地帯のコラの木から産するため、時には2000キロメートル以上を運んだ。高温と乾燥で劣化するため品質の維持に労力と財力が必要で、富と権力の象徴とされた。 その他の品として、胡椒、象牙、皮革、ダチョウの羽根、銅、ガラス、ビーズ、高級織物、馬、大理石、ヘンナの種、陶磁器、インディゴ、ギニアショウガ、ココヤシなどがあった。農産物は交易品に選ばれなかった。その理由として、(1) 農作物の余剰が少なかった。(2) 農作物の種類が同じ地域が広範囲におよび、交換する意義がなかった。(3) 車輪や牛馬などの運搬手段がなく、かさばる上に利益の少ない農産物は品物にならなかった。
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交易品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/11 00:16 UTC 版)
プトゥン人は、マヤ地域とメキシコを結ぶ交易によって繁栄したが、おもにユカタン半島北岸の塩、蜂蜜、綿織物、主としてホンジュラス湾沿岸部、ベリーズ北部、グアテマラの太平洋岸、プトゥン人の本拠地付近のカンペチェ湾沿岸部などを産地とする通貨としても使用されたカカオ豆、アルタ・ベラパス特産のケツァール鳥の羽、モタグァ川流域のヒスイや銅、グアテマラ高地北部からモタグァ川上流の黒曜石、海岸付近の地域でとれるウミギク(スポンディルス)貝などの取引が行われた。また、交易用に用いた良質オレンジ土器の皿は積み重ねが可能なように作られた。 通貨としてのカカオ豆は、積み荷ひとつあたり、24,000カカオで、トンプソンが紹介する、スペイン征服直後のテワンテペク地方の例では、銀の売値に直して、約9.5ドル相当で、テノチティトランでは、19ドル弱(650カカオが25セント)相当であった。1553年にメリダで荷役夫に100カカオ、当時のニカラグアでウサギ一匹および売春婦が10カカオ前後で取引されたという記録もある。
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交易品
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「ヴァリャーグからギリシアへの道」の記事における「交易品」の解説
「ヴァリャーグからギリシアへの道」に連なる都市や地域からの輸出品には、以下のようなものがある。 スカンディナヴィアから:生鉄・セイウチの骨・クジラの革製品(船舶のロープ等)・龍涎香・美術品・武器。また、ヴァイキングが西ヨーロッパで略奪した品も輸出された。フランスワイン・宝石製品・貴金属・絹織物・カンブリック織物・銀の調度品などである。 東ローマから:ワイン・香辛料・宝石・ガラス製品・高価な織物・イコン・書物。 バルト地域から:琥珀。 ルーシ北部(ノヴゴロド)から:柔らかい金貨(クロテン・テン・カワウソ・ビーバーなどの小動物の毛皮)・革・亜麻織物・木材・樹皮・蜂蜜・蝋・錬鉄の調度品・陶器の調度品・武器。 ルーシ南部(キエフ)から:穀物・様々な工芸品・美術品・ヴォルィーニのスレート製紡ぎ車の部品。 またルーシからは奴隷の輸出も行われていた。ルーシからの主要輸出品は毛皮、蜂蜜、奴隷などであった。
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