ガーナ、ガオ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 21:17 UTC 版)
8世紀にはいくつかの交易ルートが確立され、重要なものはシジルマサやガダメスを終点として北方へと通じていた。イスラームを受容したベルベル人の交易商は、これらの諸都市やサブサハラのアフリカ人との交渉が増えて改宗を促進した。ベルベル人はまた、自らサヘルへと出向いた。アウダゴストなどを中心とするガーナ王国の興隆は、サハラ交易の増大と並行して進んだ。8世紀のアラブの地理学者アル・ファザーリーは、アラブ軍が「ガーナという黄金の国」に遠征したことを記録している。これがガーナ王国にあたる。イブン・アル・サジールは780年頃のガーナ王国に向かう交易の出発点がターハルトにあったと記述している。ガーナは南の森林地帯から産する金によって繁栄した。金の交易を守るために、軍事力と統治組織によって交易路の安全保障を保った。ガーナの金は「スーダンの金」として7世紀頃には北アフリカでも有名になり、のちのアッバース朝の経済力の基盤にもなった。 9世紀の地理学者アル・ヤアクービーは、西スーダンがいくつかの王国に分かれ、カウカウという国がガーナに隣接していたと記述している。カウカウはソンガイ人の政治的中心地であるガオと同じとされる。北アフリカのターハルト、ガーナ、ガオを結ぶ2つの交易路が、サハラ交易の主なルートとなった。 ルートの1つはターハルトからシジルマサやアウダゴストをへてガーナとガオを結ぶ。ターハルトからガーナまでは60数日かかった。 もう1つのルートはターハルトからビスクラやワルグラをへてサハラ中央部からガオを結ぶ。このルートはタッシリ・ナジェールの岩絵のルートと同じである。 地理学者イブン・ハウカル(英語版)によれば、10世紀にはエジプトとガーナを結ぶルートもあった。ガーナからニジェール湾北岸を東に進んでナイル川の上流に達し、川を下ってカイロに着くというものだったが、交易路沿いの住民が貧しいために放棄された。のちにトンブクトゥやワラタからフェザンを横断してカイロに行くルートが使われるようになり、14世紀マリのマンサ・ムーサもこのルートを使ったと推測される。
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