塩・金交易の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 21:17 UTC 版)
8世紀には「スーダンの金」が北アフリカに運ばれるようになり、イスラーム王朝ではディナール金貨の発行量が増加した。9世紀には地中海周辺やコルドバのウマイヤ朝を経由してフランク王国や、東欧や北欧、インド洋へとアラブの金貨が運ばれた。9世紀にはメソポタミアやペルシャは金本位制となり、10世紀や11世紀にかけてコルドバではディナールの鋳造が活発化した。こうしてガーナの金は、ヨーロッパやアジアの経済にも影響を与えた。10世紀チュニジアに建国されたファーティマ朝は金貨を中心とした貨幣政策をとり、シジルマサのルートの維持に力を注ぐとともに金貨を鋳造した。 塩の交易はベルベル系民族のサンハージャ人(英語版)が支配していたが、9世紀半ばから他のベルベル人が主導するようになった。アウリルで産する塩はセネガル川沿岸に運ばれて金と交換された。1030年から1040年頃にテガーザの塩山が発見されて採掘が始まると、アウリルの取引は減少してセネガルでのみ利用されるローカルな場所となり、アウダゴストも交易の拠点からラクダの飼育の拠点に変わった。塩は奴隷が採掘し、岩塩の板をラクダ1頭あたり4枚ずつ積んで運んだ。良質な塩はジェンネに運ばれてニジェール川をくだってビトゥやボンドークーの金と交換された。カウアル山地の塩はボルヌー地方やハウサに運ばれた。こうして10世紀中頃には、サハラ交易の特徴である塩と金の交換が定型となった。 アウダゴスト、ガーナ、ガオの王は関係を維持した。ガオは9世紀後半にルスタム朝と同盟し、シジルマサのイマームとは政略結婚で結びつきを強めた。交易路は西スーダン、マグレブ、エジプトまで至るようになり、ガオは交易路を掌握していった。アブー・ウバイド・バクリーの記述によれば、ガーナの首都は2つに分かれ、12のモスクが建つイスラーム商人の街と、王の宮殿がある王都だった。ガーナは入国する交易商に課税し、ロバ1頭の塩ごとに1ディナール(金4.25グラム)、出国される塩1荷ごとに2ディナール、銅1荷ごとに5ミスカール(英語版)、雑荷1荷ごとに10ミスカールだった。ガーナは交易から利益を得て、弓矢の兵士4万人と20万人の歩兵を動員できた。 アウダゴストは砂地の平原に位置するオアシス都市で、10世紀のアル・ムハラビは旅行者を引き寄せる美しい市場がある都市として記録している。交易の宿営地も増えていき、東西の交易路の宿営地であるワルグラや、家畜を商品と交換するタデメッカには遊牧民たちも集まった。タデメッカの住民は赤い綿の衣服を身につけ、王は赤いターバンに青いズボンの身なりで、刻印されていない金貨をディナールとして使っていた。ガオの町では金属貨幣の他に、岩塩の板も貨幣として流通した。
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