み‐なり【身▽形】
服飾
![]() | この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2013年7月) |


服飾(ふくしょく)とは、衣服と装飾品のこと[1]。またそれらを身につけた装いのことを意味する[2]。「服装」とほぼ同義で使われることもある[2]。また服飾は衣服の飾りのことに限定して使われることもある[2]。
「服装」も衣服と装飾品などをつけた装い・身なりのことを意味する[3]。(ゆえに服飾の2番目の意味と同義である)
服飾や服装という用語には主に2つの用いられ方があり、ひとつは衣服・被服などとほぼ同義で用いられ、もうひとつは身体と衣服が一体化した姿(着装姿)、またそれらの一定の組み合わせの様式を指す[4]。
本項では主に後者(身体と衣服が一体化した姿、および それらの一定の組み合わせの様式)について論じる。舞台衣装など特別な服装については、別記事の衣装を参照。
概要

- 服飾の変遷
服飾は変化・変遷する。小川安朗は服飾の変遷の原則を次の20項目にまとめている[5]。
- 環境順応 - 服飾は自然環境(気候等)や社会環境(政治体制・経済状態・宗教・戦争の有無等)に順応したものになる。
- 内因優越 - 自然環境や社会環境(特に規制等)による外因性の変化の力と、快適性や新奇性、美しさ、奢侈等を求める内因性の変化の力は、しばしば対立し、長期的には内因性の変化が優越する(長期的には禁令が破られることや、制服が簡略化する等)。
- 優勢支配 - 服飾は文化発達の程度が高い集団から低い集団に伝播する(アジアの先進国隋・唐の位階制および服装規定が古代日本へ伝播しその冠位・服装規定となったこと 等)。一方で政治的に優勢となった新興集団は、伝統的集団の服飾を打倒する(ゲルマン民族の大移動によるローマ風の服飾から現在の洋服の祖型への変化、サン・キュロット等の革命における服飾の変化等)。
- 模倣流動 - 新形式や改変された形式の服飾は模倣によって伝播普及(流動)し、旧来の形式を置き換える。模倣には上位・優勢にある集団の模倣、機能面に着目した模倣、過去の形式のリバイバル、集団心理による追随的な模倣、創意を加味した創造的な模倣等がある。同一集団内で特定の形式が伝承される場合がある一方で、特定の形式が一時的に模倣され広がる流行もある。集団内の流行は、雑誌やテレビなどのメディアによって増幅される。流行した服飾が普及し、固定すると、社会的強制力を持つ風俗・慣習となる。
- 漸変慣化 - 意識的に強制をしなくても服飾は漸変する。また、人間の慣れによって漸変は容易に受け容れられる(スカートがだんだん短くなってミニスカートが一般的となった等)。人為的な急変は刺激が強すぎるため社会に定着しにくい。
- 逆行変化 - 複雑化・簡素化、重層化・軽装化、肥大・縮小等の逆方向の変化が交互に繰り返される。実用的な服飾は、権威をあらわす等のために装飾が増え、重くなり、形式化し、礼装へとなる。形式的で装飾的な服飾は、窮屈なため簡易的になり軽装化する。
- 競進反転 - 特徴的な形態が流行しはじめると、集団内の競争により、その形態の変化が急激に進行し極端な形に至る(下襲、クリノリン等の長大化、コルセットの極端化、露出や薄着の極端化等)。形態の変化は極点に至ると時に不経済あるいは不健康・不衛生な状態にもなり、批判も起き、流行は反転する。その形態は伝統的服飾として温存されたり、もとの形式に復帰、退化したり、別の形態へ転換したり、あるいは単に消滅する。
- 表衣脱皮 - 表衣がなくなり、下着だったものが表衣化する(十二単から小袖への移行、背広の下着だったワイシャツが表衣になる等)。
- 形式昇格 - 簡素な服飾が複雑化し、常用の服飾が礼装となり、庶民の服飾が貴族に取り入れられる(庶民の服飾であった直垂の武家の礼装化、古代ローマにおけるダルマティカの正装化等)。
- 格式低下 - 礼装が簡略化されたり、上流階級の服飾を下位の人々が着用することで格式が失われる(高位者のみに許された色・地質が庶民にも用いられるようになる等)。
- 系列分化 - 長く使われる形式がだんだん細分化される。同系列でより簡略なものが生まれたり(直垂からの大紋や素襖の分化)、使用者の階級毎に分化したり、用途別に分化したりする(さまざまなコート等)。
- 不用退化 - はじめは実用的な機能のあったものが不要になると退化し、単に装飾として残ったり、省略され、消滅したりする(背広の袖のボタンやラペルの切り込み等)。
- 無縁類同 - 隔絶した無縁の地域・時代において、自然環境や文化水準の類似、あるいは人間の人体構造や普遍的心理により、よく似た服飾が発生する(下襲とトレーン、チョピンと高下駄、チャードルとはんこたんな等)。
- 性別対立 - 形状や色彩によって性差が表現されるが、平和で富裕な時代、あるいは上流貴族の間では性差の対立が大きく、戦乱下や困窮した時代、また下層庶民の間では対立が小さい傾向がある。その一方で、服飾の流行、また機能的な理由から、男装を女性が、あるいは女装を男性が借用する性別転換もしばしば起きる。また性別の対立を利用した異性装も行われる。
- 融合消化 - 在来の服飾に外来の要素が取り込まれ、融合(在来の要素と外来の要素がほぼ対等に混合する、十字軍遠征の影響によるブリオーの変化等)、消化(外来要素が解体されて在来服飾の新形式発生を促す、南蛮文化の影響を受けた軽衫の普及等)、混成(それぞれの形式がそのまま混ぜて着られる、羽織袴に山高帽の服装等)したり、あるいは併存(洋服と和服の併存等)する。
- 停滞残存 - 山間部や離島部など文化の流入が少ない地域には昔からの服飾が残ることがある。洋服を現代の服飾の主流とするならば、各地の民族服は全て停滞残存の例と解釈し得る。
- 孤立爛熟 - 孤立しかつ安定した環境下で、特定の形式が独自に発展し爛熟する(クレタ文明の服飾、江戸時代の日本の服飾等)。
- 不変定着 - 服飾の流動の中で数十年から数百年の間、服飾がほとんど変化せず、風俗として定着することがある(各地の民族服等)。
- 礎型復帰 - 人体の構造・生理、また人間の心理に適応した基本的な服飾形式(礎型)に反復的に復帰する。
- 国際同化 - 交通・通信の発達により国際的な交流が活発になると、全世界的な服飾の共通化が起こる。
![]() | この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
服飾は時代、民族、地域、性別、年齢、階級、職業等によって異なり、また着用機会によっても異なる様式が用いられる。それらの様式は禁令や服装規定( ドレスコード)やファッション(流行)、あるいは民族主義、ナショナリズム等によって強化され、人間社会において、多くの服飾の様式は特定の属性や思想等を表現するものとなっている。特に民族服(民族衣装)は、地域の(または亡命者の)自己同一性を表し、文化の独自性を強調する。また、通過儀礼や祝祭、祝日には特別な衣装が着用される場合も多い。例えば成人式の特別な衣装、新年やクリスマス等の特別の晴れ着等である。[要出典]
服飾は基本は自らの立場・状況、また嗜好に応じた様式が選択されるが、意図的にそれとは違う服飾が着用される場合もある。例えば、自らの立場を隠して活動するための変装、一時的に異なる立場の装いを楽しむ仮装、演劇や舞台芸術における扮装等である。仮面舞踏会やキリスト教文化圏における謝肉祭、アメリカ合衆国におけるハロウィン等、特別な衣装として仮装が求められる場合もある。[要出典]
種類
ギャラリー
-
服飾の変遷の原則の「7 競進反転」の極端化の例。肥大したパニエを身につけたマリー・アントワネットの肖像
-
現代のチアリーダー
脚注
- ^ "服飾". 精選版 日本国語大辞典. コトバンクより2022年8月2日閲覧。
- ^ a b c 「服飾」『ファッション辞典』文化出版局、1999年、63頁
- ^ "服装". 精選版 日本国語大辞典. コトバンクより2022年8月2日閲覧。
- ^ ブリタニカ百科事典「服装」
- ^ 小川安朗『服飾変遷の原則』文化出版局、1981年。
- ^ "不断着・普段着". 精選版 日本国語大辞典. コトバンクより2022年8月3日閲覧。
- ^ "晴れ着". 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2022年8月3日閲覧。
- ^ "男子服". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2022年8月3日閲覧。
- ^ "婦人服". 精選版 日本国語大辞典. コトバンクより2022年8月3日閲覧。
関連項目
外部リンク
身なり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 17:17 UTC 版)
「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」の記事における「身なり」の解説
身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質でがっしりとした体格をしていた。フォン・ベルンハルト夫人は「背が低く、醜く赤いあばた顔をした不器用な男。髪は真っ黒で、顔の周りにもじゃもじゃと垂れ下がっていた」と軽蔑的に述べている。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。基本的に服装には無頓着であり、若いころには着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。フォン・ベルンハルト夫人は「服はとても平凡で、当時の流行とさほど違いはなかった」と回顧録に記している。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会ったとき、「ロビンソン・クルーソーのよう」「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。 当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでもほかのどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。 性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人付きあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなど、しばしば暴力的な行動に出ることもあったという。師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられたときは、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。 パトロンのカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)このような「場をまったくわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。 また、後援者のリヒノフスキー家に下宿している際に正餐のために毎日4時に集まるように言われると、それを断り、「毎日、三時半に家に帰り、服を着替え、髭を剃ったりしなくてはならないのか?まっぴらごめんだ!」とヴェーゲラーに述べている。 テプリツェでゲーテとともに散歩をしていたところ、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。のちにゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。 交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントン・シンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。 死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・ブルンスヴィック やその妹ヨゼフィーネ・ブルンスヴィックなどとする説があったが、現在ではメイナード・ソロモンらが提唱するアントニー・ブレンターノ(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説がもっとも有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。これらは氷山の一角に過ぎず、20 - 30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。 メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番やハンマークラヴィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。 パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであった。 コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという。
※この「身なり」の解説は、「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」の解説の一部です。
「身なり」を含む「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」の記事については、「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」の概要を参照ください。
「身なり」の例文・使い方・用例・文例
- 彼は身なりを構わない
- 女性と同様,男性もちゃんとした身なりをしなければならない
- 彼は金持ちだという印象を与えるために上品な身なりをしている
- 彼女はボーイフレンドと別れて以来,身なりに構わなくなった
- みすぼらしい身なりの旅人
- 彼女は身なりにむとんちゃくだ
- 彼は新しい服を買って身なりを整えた
- 私は常に身なりを整えるように心掛けている
- 彼女はみすぼらしい身なりをしていた
- 彼女は身なりを整えた
- 外出する前に身なりを整えなさい
- 彼はだらしない身なりで私をうんざりさせる
- 身なりの良い紳士たちが最前列に座った。
- あなたは身なりを整えなさい。
- 貧相な身なりをしているからといって、人を軽べつしてはいけない。
- 貧しい身なりをしているからといって人を軽蔑するな。
- 彼女は身なりをかまわない。
- 彼は身なりは立派だが、紳士などではない。
- 彼の身なりは紳士のそれだが、その言葉づかいと振る舞いはいないか者のそれである。
- 彼の身なりは紳士だが、言葉や行いはいなか者だ。
- 身なりのページへのリンク