み‐なり【身▽形】
服飾
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服飾(ふくしょく)とは、衣服と装飾品のこと[1]。またそれらを身につけた装いのことを意味する[2]。「服装」とほぼ同義で使われることもある[2]。また服飾は衣服の飾りのことに限定して使われることもある[2]。
- ^ "服飾". 精選版 日本国語大辞典. コトバンクより2022年8月2日閲覧。
- ^ a b c 「服飾」『ファッション辞典』文化出版局、1999年、63頁
- ^ "服装". 精選版 日本国語大辞典. コトバンクより2022年8月2日閲覧。
- ^ ブリタニカ百科事典「服装」
- ^ 小川安朗『服飾変遷の原則』文化出版局、1981年。
- ^ "不断着・普段着". 精選版 日本国語大辞典. コトバンクより2022年8月3日閲覧。
- ^ "晴れ着". 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2022年8月3日閲覧。
- ^ "男子服". ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンクより2022年8月3日閲覧。
- ^ "婦人服". 精選版 日本国語大辞典. コトバンクより2022年8月3日閲覧。
身なり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 17:17 UTC 版)
「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」の記事における「身なり」の解説
身長は165cm前後と当時の西洋人としては中背ながら、筋肉質でがっしりとした体格をしていた。フォン・ベルンハルト夫人は「背が低く、醜く赤いあばた顔をした不器用な男。髪は真っ黒で、顔の周りにもじゃもじゃと垂れ下がっていた」と軽蔑的に述べている。肌は浅黒く、天然痘の瘢痕があったとされるが、肖像画や銅像、ライフマスクや近年明らかとなった多彩な女性関係などから容貌は美男とは言えないものの、さほど悪くなかったのではないかと思われる。表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与え多くの崇拝者がいた。基本的に服装には無頓着であり、若いころには着飾っていたものの、歳を取ってからは一向に構わなくなった。フォン・ベルンハルト夫人は「服はとても平凡で、当時の流行とさほど違いはなかった」と回顧録に記している。弟子のツェルニーは初めてベートーヴェンに会ったとき、「ロビンソン・クルーソーのよう」「黒い髪の毛は頭の周りでもじゃもじゃと逆立っている」という感想を抱いたと言われる。また作曲に夢中になって無帽で歩いていたため、浮浪者と誤認逮捕されてウィーン市長が謝罪する珍事も起こった。部屋の中は乱雑であった一方、入浴と洗濯を好むなど綺麗好きであったと言われる。また生涯で少なくとも60回以上引越しを繰り返したことも知られている。 当時のウィーンではベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、それでもほかのどんな作曲家よりも敬愛されており、それは盛大な葬儀と多数の参列者を描いた書画からも伺える。しかし、「ベートーヴェン変人説」も、メッテルニヒ政権によるデマであるとする見解もある。 潔癖症で手を執拗に洗うところがあった。 性格は矛盾と言っても差し支えのない正反対な側面があった。人付きあいにおいて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷で非道な行動に出るなどと気分の揺れが激しかった。親しくなると度が過ぎた冗談を口にしたり無遠慮な振る舞いを見せたりすることが多かったため、自分本位で野蛮で非社交的という評判であったとされている。これもどこまで真実なのかは定かではないが、ピアノソナタ・ワルトシュタインや弦楽四重奏曲・大フーガつきの出版に際して、出版社の「カット」命令には律儀に応じている。癇癪持ちであったとされ、女中(女性)に物を投げつけるなど、しばしば暴力的な行動に出ることもあったという。師ハイドンに、楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられたときは、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。 パトロンのカール・アロイス・フォン・リヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。(1812年)このような「場をまったくわきまえない」発言の数々はメッテルニヒ政権成立後に仇となり、大編成の委嘱が遠ざかる。 また、後援者のリヒノフスキー家に下宿している際に正餐のために毎日4時に集まるように言われると、それを断り、「毎日、三時半に家に帰り、服を着替え、髭を剃ったりしなくてはならないのか?まっぴらごめんだ!」とヴェーゲラーに述べている。 テプリツェでゲーテとともに散歩をしていたところ、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。のちにゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。 交響曲第5番の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことや、ピアノソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントン・シンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物はベートーヴェンの死後、ベートヴェンの資料を破棄したり改竄を加えたりしたため、現在ではそれらの逸話にはあまり信憑性が認められていない。 聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ、彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。 死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見されており、この「不滅の恋人」が誰であるかについては諸説ある。テレーゼ・ブルンスヴィック やその妹ヨゼフィーネ・ブルンスヴィックなどとする説があったが、現在ではメイナード・ソロモンらが提唱するアントニー・ブレンターノ(クレメンス・ブレンターノらの義姉、当時すでに結婚し4児の母であった)説がもっとも有力である。しかし、「秘密諜報員ベートーヴェン」のような、これらの定説を覆す新たな研究も生まれている。これらは氷山の一角に過ぎず、20 - 30代でピアニストとして一世を風靡していたころは大変なプレイボーイであり、多くの女性との交際経験があった。この行動を模倣した人物に、後年のフランツ・リストがいる。 メトロノームの価値を認め、初めて活用した音楽家だといわれている。積極的に数字を書き込んだために、後世の演奏家にとって交響曲第9番やハンマークラヴィーアソナタのメトロノーム記号については、多くの混乱が生まれている。彼はイタリア語ではなく、母語ドイツ語で速度表示を行った最初の人物である。この慣習の打破はあまり歓迎されず、多くの当時の作曲家も速度表示にはイタリア語を用い、本人も短期間でイタリア語に戻している。 パンと生卵を入れて煮込んだスープや、魚料理に肉料理、茹でたてのマカロニにチーズを和えたものが大好物であった。またワインを嗜み、銘柄は安物のトカイワインを好んでいた。父親に似て大の酒好きであった。 コーヒーは必ず自ら豆を60粒数えて淹れたという。
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身なり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 18:30 UTC 版)
出社時は常に喪服と類似する黒のスーツ・黒のネクタイで、初期はサスペンダーを着用しており、ネクタイもかなり緩めである。初期は休日の海釣りや山歩きにまで黒のスーツ・黒のネクタイで来ていた。その事でゆう子に「同じ服ばっかり」とからかわれた事もある。現在はプライベートでは私服である。
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「身なり」の例文・使い方・用例・文例
- 彼は身なりを構わない
- 女性と同様,男性もちゃんとした身なりをしなければならない
- 彼は金持ちだという印象を与えるために上品な身なりをしている
- 彼女はボーイフレンドと別れて以来,身なりに構わなくなった
- みすぼらしい身なりの旅人
- 彼女は身なりにむとんちゃくだ
- 彼は新しい服を買って身なりを整えた
- 私は常に身なりを整えるように心掛けている
- 彼女はみすぼらしい身なりをしていた
- 彼女は身なりを整えた
- 外出する前に身なりを整えなさい
- 彼はだらしない身なりで私をうんざりさせる
- 身なりの良い紳士たちが最前列に座った。
- あなたは身なりを整えなさい。
- 貧相な身なりをしているからといって、人を軽べつしてはいけない。
- 貧しい身なりをしているからといって人を軽蔑するな。
- 彼女は身なりをかまわない。
- 彼は身なりは立派だが、紳士などではない。
- 彼の身なりは紳士のそれだが、その言葉づかいと振る舞いはいないか者のそれである。
- 彼の身なりは紳士だが、言葉や行いはいなか者だ。
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