マリー・アントワネットとは? わかりやすく解説

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マリー‐アントワネット【Marie-Antoinette】


マリー・アントワネット

作者金堀常美

収載図書真夜中ココア
出版社新風舎
刊行年月2005.2
シリーズ名新風舎文庫


マリー・アントワネット

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/05/08 05:17 UTC 版)

マリー・アントワネット
Marie Antoinette
フランス王妃
在位 1774年5月10日1792年9月21日

全名 Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne
マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ
Maria Antonia Josepha Johanna
マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ
出生 (1755-11-02) 1755年11月2日
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国
ホーフブルク宮殿
死去 (1793-10-16) 1793年10月16日(37歳没)
フランス共和国(第一共和政)
パリ
革命広場
埋葬 1815年1月21日
フランス王国(復古王政)
サン=ドニ
サン=ドニ大聖堂
結婚 1770年5月16日
配偶者 ルイ16世
子女
家名 ハプスブルク=ロートリンゲン家
父親 フランツ1世
母親 マリア・テレジア
サイン
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マリー=アントワネット=ジョゼフ=ジャンヌ・ド・アプスブール=ロレーヌフランス語: Marie-Antoinette-Josèphe-Jeanne de Habsbourg-Lorraine, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)またはマリー=アントワネット・ドートリッシュフランス語: Marie-Antoinette d'Autriche[1])は、フランス国王ルイ16世王妃王后王太后)。オーストリアフランスの政治的同盟のためルイ16世へ嫁ぎ[2]フランス革命で処刑された。

概要

フランツ1世マリア・テレジアの第15子(第11女)として1755年11月2日ウィーンで生まれた。フランスオーストリアの同盟に伴う外交政策の一環により[2]、当時フランス王太子だったルイ16世1770年に結婚し、彼の即位に伴って1774年にフランス王妃となった。

アントワネットの社交生活は私的かつ排他的なものであり[3]、離宮のプチトリアノンで少数の貴族と過ごすことが多かった[4]。中でもハンス・アクセル・フォン・フェルセンとの交流は知られている[5]

アントワネットは、オーストリアに対する同調姿勢や、宮廷生活について王太子妃時代から批判された[6][7]。王妃となってからも、親しい一部の人間のみを贔屓したことや[3]規範を逸脱した行為や言動により、保守的な貴族を中心に大きな抵抗勢力が宮廷内に形成されることになった[8]

1789年フランス革命が始まると、アントワネットは宮廷内で反革命勢力を形成し、君主制維持を目的として諸外国との交渉を行った[9]。特にウィーン宮廷との秘密交渉を進め、外国軍隊のフランス侵入を期待したが、逃亡に失敗する[10]1792年フランス革命戦争が勃発したこともあり、アントワネットのイメージはさらに悪化した[11]。同年8月10日に王政が廃止され、国王一家はタンプル塔に収監された。

その後、ルイ16世の裁判が国民公会で行われ、死刑判決を経て1793年1月21日に処刑英語版された。一方、アントワネットの裁判は革命裁判所で行われ、死刑判決を経て同年10月16日に処刑された。

生涯

幼少期~結婚

少女時代のアントーニア

1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世オーストリア女大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生した。ドイツ語名は、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン。 代父母のポルトガル国王ジョゼ1世とその王妃マリアナ・ビクトリアが名付け親となった。洗礼式はウィーン大司教が行い、兄のヨーゼフ大公と姉のマリア・アンナが代父母の代理を務めた。アントーニアは幼少期にマリア・カロリーナフェルディナントマクシミリアンといった年の近い兄弟と共に育てられた。イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身につけたハープクラヴサンなどの演奏を得意とした[12]。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼いころから家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧したりした。また幼いころからバレエやオペラを皇女らが演じている。

当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており(外交革命)、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫、ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策した。神聖ローマ皇帝フランツ1世の母方の祖父はオルレアン公フィリップ1世であり、ルイ15世の母方の祖母はオルレアン公フィリップ1世の娘であったので、ルイ15世とアントーニアたち姉妹は又従兄妹であった。当初はマリア・カロリーナがその候補であったが、ナポリ王と婚約していたすぐ上の姉マリア・ヨーゼファが1767年、結婚直前に急死したため、翌1768年に急遽マリア・カロリーナがナポリのフェルディナンド4世へ嫁ぐことになった。そのため、アントーニアがフランスとの政略結婚候補に繰り上がった。

1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が駐仏大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクスポーランドアウグスト3世ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。

1765年にルイ・フェルディナンが死去した。1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったため、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。1770年4月19日、マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式はまずウィーンで代理人によって行われ、1770年5月16日ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂にて挙行された[13]。 アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき『マリー・アントワネットの讃歌』が作られた。

ルイ15世は婚姻によってオーストリアとの同盟を維持しようと考えたが[14]七年戦争においてオーストリアと同盟を結んだフランスプロイセンに敗北していた。フランスの感情として反オーストリアの機運が高まり、アントワネットは反オーストリアによる偏見に常に悩まされることになる[15]。当時オーストリアはフランスの犠牲に対してほとんど見返りをよこさなかったと考えられており、夫婦は最初からオーストリアへの根深い不信と反オーストリア感情の標的となった[16]。そしてアントワネットも、早々に形成された否定的なイメージを覆そうと努力することはなく、結果として以後もこのイメージが覆されることはなかった[17]

アントワネットが受けた教育は初歩的なものであり、かすかなドイツ訛りのあるフランス語を上手く話したが正確に書くことには長い時間を要し、歴史・地理・文学についてはほぼ何も知らなかった。ウィーンから派遣された家庭教師は当時のアントワネットについて、聡明ながらいたってわがままで、勉学や真面目な会話の雰囲気のあるものには注意力が途切れてしまうと語っている[18]

七年戦争の敗北や、フランスの同盟国であるポーランドが1772年にオーストリア、ロシア、プロイセンに分割されたことなど、オーストリアとの同盟後に起こったこれらの事柄は、フランスがヨーロッパでの影響力を失ったとの見方が強くフランス国内に残り、フランス革命時は軍隊が国王を見限る事態に陥ることに繋がった[19]。なお、マリア・テレジアはポーランド分割に反対の立場をとり、フランスがオーストリアに敵意を抱くことを恐れていた[20]

宮廷生活

デュ・バリー夫人との対立

結婚すると間もなくルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人と対立する。もともとデュ・バリー夫人と対立していたルイ15世の娘アデライードが率いるヴィクトワールソフィーらに焚きつけられたのだが、娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を憎み、徹底的に宮廷内で無視し続けた。当時のしきたりにより、デュ・バリー夫人からアントワネットに声をかけることは禁止されていた。宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に分かれ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている[21][22]

ルイ15世はこの対立に激怒し、母マリア・テレジアからも対立をやめるよう忠告を受けた。2人の対決は1772年1月1日に、新年のあいさつに訪れたデュ・バリー夫人に対し、あらかじめ用意された筋書きどおりにアントワネットが声をかけることで表向きは終結した。その後、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになった。

結婚生活

王と王妃の結婚を祝うメダル

ルイ16世には性器奇形があり、性的結合を果たすことはほぼ不可能だった[23]。アントワネットとルイ16世との間にはなかなか子供が生まれず、これはルイ16世の男性としての能力の欠如やアントワネットの恋の噂を呼ぶ結果となり、彼らの地位を危うくした[24]。当時フランスの王位継承を規定していたサリカ法は男子の王位継承しか認めず、アントワネットには男子を産むことが要求されていたからである[25]。オーストリアにいるアントワネットの母、マリア・テレジアはオーストリアとフランスの同盟関係の維持に不安を抱き[25]、性生活を疑った。1777年4月、アントワネットの長兄ヨーゼフ2世がお忍びでラ・ミュエット宮殿フランス語版(現在のパリ16区ラ・ミュエット地区フランス語版)でも生活をともにしていた夫妻のもとを訪問し、夫妻それぞれの相談に応じた。翌1778年、結婚生活7年目にして待望の子どもマリー・テレーズ・シャルロットが生まれた[26]

フランスに来てからの数年間、アントワネットは奔放な宮廷生活を送っていたが、妊娠と子育てによって多少落ち着きを見せた。しかし彼女はヴェルサイユの公的儀礼を嫌ったままであり、その社交生活はますます私的で排他的なものとなる。周囲を親しい一部の人間で固め、その中でも目立っていたのはアルトワ伯ランバル夫人ポリニャック夫人だった。この身贔屓によって、旧い家系の貴族は自分たちが軽んじられている、排斥されていると感じ、後に革命が起きた際、これは彼らが諸改革を受け入れる理由のひとつになった[3]

母マリア・テレジアは娘の身を案じ、たびたび手紙を送って戒めていたが、効果はなかった(この往復書簡は現存し、オーストリア国立公文書館に所蔵されている)。時にパリのオペラ座仮面舞踏会に遊び、また賭博にも狂的に熱中したと言われるが、賭博に関しては子供が生まれたことをきっかけに訪れた心境の変化から止めている。

アントワネットは子供たちのそばにいるために、ヴェルサイユ宮殿内のアパルトマンの整備を行った[27]プチ・トリアノン宮殿を与えられてからは、王妃の村里と、そこに家畜用の庭ないし農場を増設し、子供を育てながら家畜を眺める生活を送っていたという。

フランス王妃として

王妃となったアントワネット
(1775年)
アントワネットを色情狂として描いたゴシップ冊子(1791年)。王侯貴族たちを誹謗するこの手のパンフレット(fr:Libelle)が多数出回った[28][29]

1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。

しかしフランスの絶対王政は王権が特権を承認することで人々の服従を確保していたのであり[30]、この廃止は一種のステータスを奪われた宮廷内の人々からの反感を買った。

こうした中で、マリー・アントワネットとスウェーデンの貴族アクセル・フォン・フェルセン伯爵との浮き名が、宮廷ではもっぱらの噂となった。地味な人物である夫のルイ16世を見下しているところもあったという。ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女は大貴族たちを無視し、彼女の寵に加われなかった貴族たちは、彼女とその寵臣をこぞって非難した。

彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷が酷かったという。多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。

1780年代、アントワネットが政治に及ぼす影響力は次第に強まっていく。それまでもメルシー伯爵は彼女をオーストリアのスパイに仕立てようとしており、アントワネットは1775年チュルゴーを失脚させ、1781年ネッケルを罷免するなど宮廷の陰謀に関与していた[31](1770年代以降の大臣・官僚たちはフランス王国をひとつものとして視野に収め、王国内部の区別や差異を可能な限り解消し均一化するとともに、王権が王国を一元的に把握・統治できる国制を目指し改革を提案していた[32])。それはアントワネットの兄ヨーゼフ2世を激怒させ、夫であるルイ16世は臣下たちの助言によって、アントワネットを政策決定や顧問会議から排除していた[31]

しかしモールパといったルイ16世が信頼していた人物が死去し、改革の失敗によって自信を失っていった結果、ルイ16世はアントワネットを頼るようになり、1788年までには特定の顧問会議にアントワネットを連れて行き、彼女が出席していない時にすら相談のために議論中でも退席さえした。これはルイ16世の優柔不断や確信のなさから来るものだったが、対してアントワネットは愛国派自由主義的な大臣たちが提唱する改革は忌まわしいものと信じて疑うことがなかったのであり、あらゆる改革に反対する彼女の姿勢にルイ16世も影響を受けていった[33]

1785年にはアントワネットの名を騙った詐欺、首飾り事件が発生する。事件に関わったロアン枢機卿に対する民衆の支持と1786年5月に高等法院により枢機卿が釈放された際の民衆の歓喜は、専制政治に歯止めをかける存在としての高等法院に対する民衆の支持を示していた[30][34]

フランス革命勃発

首飾り事件」の元となったダイヤの首飾り。金500kg相当の価値があった

1789年5月5日、ヴェルサイユ宮殿で全国三部会が開かれフランス革命が起きた。その後7月11日、ルイ16世はネッケルを罷免する[35]。これがパリに伝わった際、民衆はルイ16世が第三身分の議員を排除するために近衛兵を動かしていた[36]ことなどから、国王政府が議会に武力を行使する意図があると理解して憤慨し、またパリに軍隊が派遣されることを恐れた。こうして7月14日、バスティーユ襲撃事件が発生する[35]ポリニャック公爵夫人(伯爵夫人から昇格)ら、それまでアントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは彼女自身の手助けによって国外に亡命を果たしたが、王妹エリザベートランバル公妃はそれに従わずアントワネットら国王一家とともにフランスに残る選択をしている。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移された。

1791年1月、スペイン大使はアントワネットと話し、「ルイは私たちを苦しめている悪を、いかなる犠牲を払おうとも放逐しないのであれば、自分自身に対して、臣民に対して、そして全ヨーロッパに対して、義務を怠ることになりましょう」と身を震わせながら言う彼女を見て「忍耐が極致にいる女性の面前に立っている」と感じた[37]

アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。しかし彼は用心深くなかなか首を縦に振らなかったため、これはアントワネットを失望させた。レオポルト2世は1791年6月になってようやく、ルイ16世が国から脱出し独自に行動できる立場を得た後であれば資金と軍隊を全面的に援助するとした[38]

メルシー伯爵は国王夫妻が民衆の革命に対する支持の大きさをあまりに低く見積もりすぎていると指摘し、アントワネットに対して逃亡がどんな結果を招くことになるのが熟慮するようにと懇願したが、聞き入れられなかった[39]

当時は宮廷のみならず、議会も民衆の暴力性を目にする度に衝撃を受けていた[40]。民衆の暴力を嫌ったミラボーは、ルイ16世から活動資金を得て、審議中の新たな憲法が目指す立憲君主制のもと可能な限り国王の権限を強化できるよう活動していた。しかし彼は1791年4月に病没し、協力者を失ったルイ16世は政治的決定に関してますますアントワネットを頼るようになった[41]。アントワネットはミラボーが死去する前から彼への信頼を完全に失っており、自らの兄弟やメルシー伯への手紙で、自分と家族は反逆者の暴徒たちもしくは御しがたい臣下たちの虜囚のようなものだと訴え、革命家たちが貴族や王族とさえ平等と主張することを思い上がりであるとして激怒している。彼女は革命家たちを表す時「怪物」という表現をよく使用した[42]

ヴァレンヌ事件とその後

1791年6月20日、ルイ16世を外国軍の支援が得られる場所まで逃亡させる計画は実行に移され[43]ヴァレンヌ事件が発生した。ルイ16世は軍隊の指揮をとる際に身につけるつもりだった礼服しか持っていかなかったが、アントワネットは手持ちの衣装すべてに加え、ダイヤモンドと宝飾品のほとんど、家具や特別仕立ての化粧箱を事前にひそかに持ち出していた。この化粧用具の輸送や化粧箱の製作が発覚し、愛国派である小間使いの1人の疑惑をかき立てた[44]

国王一家は庶民に化けてパリを脱出する。アントワネットも家庭教師に化けた。フェルセンは疑惑をそらすために国王とアントワネットは別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして、足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。また馬車には、銀食器、衣装箪笥、食料品などの日用品や、喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積み込まれた。このため、もともと足の遅い馬車の進行速度をさらに遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせることとなった。結局、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。

国民議会は7月13日まで審議した結果、国王は脅迫と圧力によって決定の自由を奪われており、精神的な意味で誘拐されていた。従って、その軽率で無責任な行動は道徳的には非難されなけらばならないが、法的な責任を問うことはできないとして庇った[45]。事件当時、最初は衝撃を受けた民衆はそれが過ぎ去った後、スペイン大使が書き残したところによれば「完全な静寂が支配している。それと同時に、誰もが卒中にかかったような、麻痺したような感覚も支配している」状態だった[46]。国王が捕まったという知らせが届いた22日以降、「自由に生きるか、さもなくば死」という標語が国中に流れ、議会や地区ごとの友愛協会などに自発的に赴き、憲法への忠誠を誓った。彼らの行列の中には武器を携えた者もおり、この頃、政治勢力としてのサン=キュロットが出現した(それまではサン=キュロットとは暴力的な民衆に対する蔑称だった)[47]

議会の決定がパリ市内に伝わると、いくつかの民衆協会では抗議の声があがる。7月16日、コルドリエ・クラブ共和制の樹立を含む請願書を用意し、翌日にはシャン=ド=マルスにある祖国の祭壇で請願書に署名することを呼びかけた。署名は6000名ほど集まったが、彼らに対し市長バイイ戒厳令を出し、国民衛兵が法の定める手続き(3回にわたる警告)なしに民衆にむかって発砲したことで死傷者が出た(シャン=ド=マルスの虐殺[48]

国王夫婦を尋問するために3人の議員が国民議会によって選ばれ、6月26日の晩からこれが始まる予定だった。しかしアントワネットは入浴中と称して時間を延ばし、ルイ16世と口裏を合わせた。これにより、王は国を出るつもりはまったくなく、パリで経験した威嚇や侮辱から自分と家族の身を守れるモンメディに旅行しただけだった。外国勢力と関りをもったことはなく、フランスのいたるところで人々が新憲法を支持しているとわかって驚いたという話が作られた[49]

ヴァレンヌ事件の帰路、フイヤン派バルナーヴはアントワネットに取り引きを持ちかけた。自分とその友人たちは、君主制を温存し、国王の権威を強化するために全力を尽くすことを約束する。その見返りとして、ルイ16世が憲法を受け入れ、オーストリアからフランス新政府の認知を取り付けられるよう取り付けることを望むと彼は述べた。そして6月下旬からバルナーヴやデュポール、ラメト兄弟は国王と秘密交渉を再開していた[50]。しかしアントワネットはフェルセン、メルシー伯、レオポルト2世に宛てた手紙でバルナーヴとの交渉を否定し、逃亡未遂後に受けた侮辱に憤慨しながら議員たちを「獣」「ならず者」「狂人」と糾弾し、憲法全体が「実行不能で馬鹿げたものの連続」でしかないと非難した[51]

フランス革命戦争

1791年9月3日、国民議会は国民主権を旨とし立憲君主制を明文化した1791年憲法を採択した[52]。ルイ16世が立憲君主制を望まないと国中に周知されたままであり、共和制を望む声も活発だったが、新憲法が正常に機能することは多くの人が期待していたことでもあった[53]

新憲法の成立に伴い国民議会は解散し、10月1日、立法議会が開会した[54]。王家の憲法承認が見せかけであると確信していたジロンド派のリーダーであるブリソは宮廷が革命を潰すために目論んでいる陰謀を暴きつつ戦争を通して革命の理念を諸外国に広めようとしていた。既に国外で起きた革命が外国軍に圧し潰されるのを見てきたことや、ピルニッツ宣言によってフランスも軍事介入を受けるであろうと多くの人が考えたこと[55]ラファイエット派は戦争が起これば王は勝利のためアメリカ独立の英雄ラファイエットに頼らざるをえなくなり、勝利後には彼が王権を支えるだろうと予想したことなどから議会は開戦へと大きく傾いた。王政を支持し憲法が機能することを望んだフイヤン派は反対し、ロベスピエールも「誰も武装した宣教師など望まない」と警告した[56]。しかしルイ16世はオーストリアがフランス軍を戦争で打ち負かし、自分の権威を回復させると見込み、1792年4月20日、議会に対して宣戦布告を要求した[57]。このフランス革命戦争では1792年から1802年にかけて200万人が亡くなり、続くナポレオン戦争も加えると更に500万人の死者が出た[58]

アントワネットもルイ16世と同じく革命が外国軍によって潰されることを期待し、フランスの戦争計画をひそかにオーストリアに流していた[59]。7月25日、ブラウンツヴァイクの宣言によってパリ住民が即座に無条件でルイ16世に服従しない場合、パリを徹底的に弾圧することが示唆された。これはルイ16世が外国軍に保護された王であるという認識を強めた結果、彼に批判が向かった[60]

8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される(8月10日事件)。議会は国王一家をリュクサンブール宮殿に住まわせようとしたのに対し、パリのコミューンが監視付きでタンプル塔へ幽閉することを希望し、後者が実現された[61]

タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見たりするなど、束の間の家族団欒の時間があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。

革命裁判

マリー・アントワネットの裁判の様子
王党派貴族のルージュヴィル。1793年に、買収した看守に夜間に扉を開けさせてアントワネットを連れ去るという脱出計画を立て、詳細を暗号で記した紙をカーネーションの茎に仕込み、それを監獄見学者にまぎれてアントワネットに手渡したが、花を床に落とした際に暗号メモが見つかり失敗した(カーネーション事件)[62]

1793年1月19日、国民公会はルイ16世に死刑判決を下した。国王一家は翌日になってから死刑判決を知らされ、最後の面会を行った[63]。1793年1月21日午前10時にルイ16世の死刑が執行されるとアントワネットはルイ・シャルルの前にひざまずき「国王崩御、国王万歳!」と言い、新王として接したという[64]。ルイ16世の死後に王后アントワネットは王太后カペー未亡人と呼ばれるようになり、喪服を着て過ごすようになった[65]。王党派によりアントワネットの脱出計画が立てられたが、実行に移されることは無かった[65]。1793年7月3日、ルイ17世はアントワネットと引き離され、ジャコバン派の靴屋であるアントワーヌ・シモンの手にゆだねられた[66]

1793年8月2日午前3時[67]、アントワネットはコンシェルジュリーへ移送された。フェルセンの提案により、身代金を支払う事でアントワネットの解放を模索する動きもあったが、実現されることは無かった[68]。しかし王党派が立てた計画のうち、元士官のルージュヴィルが立てた脱出計画は、1793年8月28日に実行されるも失敗。ルージュヴィルはオーストリアへ逃亡し、警察管理官であったミショニが逮捕されるという「カーネーション事件(en:Carnation Plot)」が起きた。事件以後、アントワネットの独房には検査が入るようになり、窓の下には歩哨が立つようになるなど、監視が強化された[69]。アントワネットは1793年10月12日に裁判の事前尋問を受け、10月14日午前8時から午後11時、16日午前8時から午前4時の2日半間に渡り革命裁判所で裁判が行われた(裁判官合議審で何人も交代し泣いたと伝う。また、ジャコバン派の推薦した証人は数十人以上にもなったと云う)。アントワネットは内通、公費乱用、背徳行為、脱出計画に対しての罪に問われ、重罪により死刑求刑された[70]。アントワネットは罪状の全てについて否定して自らを弁論した。ヴァレンヌ逃亡については、夫であるルイ16世に従ったためと答えた[71]エベールはルイ17世による申し立てとして、母親との近親相姦があったと報告したが[72]、このような証言はロベスピエールを激怒させる結果となった[73]

しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず、1793年10月16日午前4時頃にアントワネットは死刑判決を受けた[74]。処刑の直前にアントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった[75]。 この遺書は牢獄の管理人であったボーに渡され、検察官のタンヴィルから数人の手に渡った後、王政復古の時代にルイ18世にゆだねられた[76]。なお、革命から唯一生き延びたマリー・テレーズがこの遺書を読むのは1816年のことだった。

最期

処刑前のアントワネットのスケッチ

遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。すべて終わりました」と述べたと言われ、白衣に白い帽子を身に着けた。革命広場に向かうため、アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられていった。コンシェルジュリーを出たときから、苦なく死ねるように髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。19世紀スコットランドの歴史家アーチボルド・アリソンの著した『1789年のフランス革命勃発からブルボン王朝復古までのヨーロッパ史』などによると、最期の言葉は、死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンの足を踏んでしまった際に発した「お赦しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ(Pardonnez-moi, monsieur. Je ne l'ai pas fait exprès.) [77]」だとされている。

10月16日12時15分、死刑が執行された。それまで息を殺していた何万という群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。その後、群衆は昼飯の時間帯であったこともあり一斉に退散し、広場は閑散とした。数名の憲兵がしばらく断頭台を見張っていたが、やがて彼女の遺体は刑吏によって小さな手押し車に、首は手押し車の足に載せられ運び去られた[78]

死後

遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地[注 1]に葬られた。のちに王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地[注 2]を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った。発見されたアントワネットの亡骸はごく一部であったが、1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に夫のルイ16世とともに改葬された。

サン=ドニ大聖堂の慰霊碑

「パンがなければ…」の発言

フランス革命前に民衆が貧困と食料難に陥った際、アントワネットが「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したとの逸話がある。

原文は: “Qu'ils mangent de la brioche”であり、直訳すると「彼らはブリオッシュを食べるように」である。ブリオッシュは現代ではパンの一種として扱われるが、かつてはバターと卵を使うことから菓子として扱われた。

逸話の変種として、お菓子ではなくケーキクロワッサンを食べればいいと発言したとするものもある。なお、クロワッサンやコーヒーを飲む習慣は、彼女がオーストリアから嫁いだときにフランスに伝えられたと言われている。

また、ルイ16世の叔母であるヴィクトワール王女の発言とされることもある。

しかし、この逸話はアントワネット自身の発言ではないことが判っている[79]

原典として有力とされるひとつは、ルソーの『告白[80]』(1766年ごろ執筆)の第6巻である。ルソーはワインを飲むためにパンを探していた。その時、さる公爵夫人が家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」と答えたことを思い出したとする。なお、公爵夫人の発言は、庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(1740年ごろ)のことという。

アルフォンス・カーフランス語版1843年に出版した『悪女たち』の中で、この逸話がアントワネットの発言として流布していると書いたうえで、この逸話は1760年出版のある本に「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとして紹介されたものであるとしている。しかし、実際の公爵夫人自身は飢饉の際に子供の宮廷費を削って寄付したり、ほかの貴族達から寄付金を集めたりするなど、国民を大事に思うとても心優しい人物として知られており、彼女を妬んだほかの貴族たちの作り話であるとしている。トスカーナは1760年当時、アントワネットの父である神聖ローマ皇帝フランツ1世が所有しており、その後もハプスブルク家に受け継がれたことから、こじつけの理由の一端になったともされる。

現代のフランスにおいても、なお「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」はアントワネットを象徴する発言と信じられている。2016年、保守派議員のジャンフランソワ・コペが「パン・オ・ショコラ」の価格について言い間違えたことが、現代のアントワネットのようだと報じられた[81]

人物・言行

宮廷生活とプチ・トリアノン宮

小トリアノン宮殿」も参照。

ルイ14世がフランス絶対王政の栄耀栄華と宮廷内の秩序を示すために定めたヴェルサイユの宮廷儀礼は非常に厳格であり[82][83]、またふるさとであったウィーンの雰囲気とも異なったため、アントワネットはそれに適応するのに苦労した[84]。王太子妃時代は母親のマリア・テレジアへヴェルサイユの宮廷儀礼の厳格さを嘆いており[83]、第一子のマリー・テレーズを出産した際は出産の苦痛と見物人のせいで疲労が極限まで達し、それを見たルイ16世自身が第二子以降の出産の際、見物人の人数の制限を行ったほどだった[85]

ルイ16世は1774-1775年頃、アントワネットにもともとルイ15世の所有だった「プチ・トリアノン」を贈る[86][87]。それ以後、彼女はプチ・トリアノンの改造工事を始め、「ル・アモー・ドゥ・ラ・レーヌ」(王妃の村里)という場所を作り、自由な姿で活動した。プチ・トリアノンにおいて、ポリニャック伯爵夫人、ランバル公妃、アルトワ伯、フェルセン伯など、お気に入りの人々と交流するようになる[88][89]。また、プチ・トリアノンはヨーゼフ2世グスタフ3世、後のパーヴェル1世などの賓客を迎える場となった[90]

アントワネットにとって「王妃の村里」はプチ・トリアノンの自由さに加えて自然の空間を味わう場所でもあった。そこでは牛、羊、山羊、鶏、豚といった動物が飼われたが、これらは非常に丁寧かつ清潔に飼育されていた[91]。アントワネット自身、麦わら帽子をかぶり、モスリンのドレスを着て礼儀作法に縛られない田舎風暮らしを好んだ[92]。この田園生活への憧れは、アントワネット固有のものではなく、当時の王侯貴族に共通するものだったという説もある[93]

しかし、この閉鎖的に受け取れる姿勢はヴェルサイユのしきたりを無視するものとして受け取られ、「小ウィーン」と呼ばれて、他の貴族たちから反感を抱かれた[88][94]。アントワネットに近侍していた身分が低い女性たちと身分高い貴婦人たちの間で対立が激しくなり、アントワネットについて記した怪文書が出回った[88][94]

王妃の村里での農婦姿のアントワネット。(1791年[注 3]

音楽

ハープを奏でる王妃(1777年)

上記の通り、ウィーン時代にグルックらから音楽を教わっていた。また彼女が7歳だった1762年9月、各国での演奏旅行の途上、シェーンブルン宮殿でのマリア・テレジアを前にした御前演奏に招かれたモーツァルト(当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードも持つ。また、彼女が1774年1月30日にオペラ座でフェルセンと出会った時に二人は音楽について話し、グルックが好きという点で一致したというエピソードが残っている[95]

後年、ルイ16世のもとに嫁いでからもハープを愛奏していたという。タンプル塔へ幽閉された際もハープが持ち込まれた。歌劇のあり方などをめぐるオペラ改革の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている。

なおアントワネットは作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。彼女の作品の多くはフランス革命時に焼き捨てられ、ごく一部がパリ国立図書館に収蔵されているのみである。近年では“C'est mon ami”(それは私の恋人)などの歌曲がCDで知られるようになった。

2005年には漫画『ベルサイユのばら』の作者でソプラノ歌手の池田理代子が、世界初録音9曲を含む12曲を歌ったCD「ヴェルサイユの調べ~マリー・アントワネットが書いた12の歌」をアントワネットの誕生日である11月2日に発売し、この曲が2006年上演の宝塚歌劇ベルサイユのばら』で使用された。

このアントワネットの曲集は日本で世界初の楽譜[96]も出版された。

入浴・香水

アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時から入浴の習慣があった。母マリア・テレジアも幼いころから彼女に入浴好きになるよう教育している。入浴の習慣がないフランスへ嫁いだあとも彼女は入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。

入浴をする習慣は、体臭を消すという目的が主だった香水に大きな影響をもたらした。アントワネットは当時のヨーロッパ貴族が愛用していたムスクや動物系香料を混ぜた非常に濃厚な東洋風の香りよりも、現代の香水に近いバラスミレの花やハーブなどの植物系香料から作られる軽やかな香りの物を愛用し、これがやがて貴族たちの間でも流行するようになった。もちろん、このお気に入りの香水もタンプル塔へ持ち込まれている。

家具

家具に非常に興味を持っており、世界中から沢山の木材を取り寄せた。マホガニー黒檀紫檀、ブラジル産ローズウッドなどを使い家具を作らせた。珊瑚も家具の装飾用として使われた。ドイツ人家具職人を多く抱え、ルイ16世様式(新古典主義)の家具を多く貴族に広めている。また日本製や中国製の家具や蒔絵の小箱に代表される漆工芸品をとても好んでおり、マリア・テレジアからも贈られている。母子二代に渡る蒔絵のコレクションは現在もルーヴル美術館ヴェルサイユ宮殿美術館ギメ東洋美術館に展示されている。

ファッション・リーダー

麦藁帽子にモスリンのシュミーズドレス姿の王妃(1783年)

当時の貴族女性は、相手が驚くようなヘア・スタイルを競っていた[97]。アントワネットも王妃になってまもなく、ローズ・ベルタンという新進ファッション・デザイナーを重用する。ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。

何より女性たちの視線を集めたのがその髪型で、当初は顔の1.5倍の高さだった盛り髪スタイルは徐々にエスカレートし、飾りも草木を着けた「庭ヘアー」や船の模型を載せた「船盛りヘアー」など、とにかく革新的なスタイルで周囲の目を惹きつけた。

即位後最初の数年間を過ぎてからは、ドレスもヘアスタイルも簡素なデザインのものを好むようになった[98]

このころベルタンは、アントワネットのために肌着として着用されていたモスリン生地や綿生地のシュミーズパニエを着用しない気軽な普段着にアレンジしたシュミーズドレスをデザインしている。また、アントワネットはパステル調の色彩を好み、特に青を好んだといい[99]青いドレスをまとった肖像画が多数残されている。

容姿

身長は154cm[100]。 裁縫師のエロフ夫人の日誌によると、ウエストは58〜59cm、バストが109cmで、当時のモードに合った体型であった[101]。一方で、30歳のときにはかなり豊満な体型だったようで、その豊満さを覆い隠すようなギリシャ風の装いを考案している[102]。エロフ婦人が計ったところ、コルセットで58cm(23インチ)までウェストは締め付けるものの、バストは112cm(44インチ)を超えていたという。

顔は瓜実顔で額が広すぎ、鼻は少し鷲鼻気味で、顎がぼってりし、「下顎前突症」と言われる特徴があった。しかし、美人ではなくとも魅力的な容姿であり[103]、教育係であったド・ヴェルモン神父は「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない」、王妃の小姓であったド・ティリー男爵は「美しくはないが、すべての性格の人々をとらえる眼をしている」「肌はすばらしく、肩と頸もすばらしかった。これほど美しい腕や手は、その後二度と見たことがない」、王妃の御用画家であったルブラン夫人は「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりで、すきとおって一点の曇りもなかった。思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった」と述べている[104]

身のこなしの優雅さでも知られ、前述のド・ティリー男爵は「彼女ほど典雅なお辞儀をする人はいなかった」、ルブラン夫人は「フランス中で一番りっぱに歩く婦人だった」と述べている[105]

子女

4人の子供のうち3人は夭逝。長女マリー・テレーズは1799年結婚して夫と添い遂げ、子女の中で唯一、天寿を全うした。マリー・テレーズは結婚15年目の1813年1月に懐妊したが、流産。その後は妊娠することがなく子どもを残していないため、子孫はいない。

女官・侍女

ギャラリー

参照文献

ノンフィクション・評伝

書簡集

  • パウル・クリストフ 編、藤川芳朗 訳『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』岩波書店、2002年9月26日。 ISBN 9784000248013 
  • エヴリン・ファー 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリー・アントワネットの暗号 解読されたフェルセン伯爵との往復書簡』河出書房新社、2018年8月30日。 ISBN 9784309227351 

一次資料

  • Sir Archibald Alison (1855). Histoire de l'Europe depuis le commencement de la Révolution française en 1789 jusqu'à nos jours, V. F. Parent 

フィクション・文学

関連書籍

シュテファン・ツヴァイクによる評伝
以下の伝記・評伝も日本語書籍のみを記載。

マリー・アントワネットを扱った作品

小説

  • 『SOSタイム・パトロール』- 光瀬龍著、朝日ソノラマ、1972年。ジュブナイル小説)
  • 『王妃マリー・アントワネット』 - 遠藤周作著、朝日新聞社 全3巻、1979年-1980年)。のち新潮文庫 全2巻
シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット: 平凡な女の肖像』を下敷きに、アントワネットの物語と、彼女との身分差に神の不公平を感じ憎しみを覚えたパン屋の女中の物語が並行して描かれる[110]。遠藤は池田理代子との対談で、ベルばら人気にあやかったと語っている[111]

映画

舞台作品

ラジオドラマ

  • 『フランツ・ルフレルの天使たち』 - 杉崎智介のle Salon テレビ東京InterFM - フランス革命前後のマリー・アントワネットを描いたラジオドラマ。(声:ReeSya)、脚本・杉崎智介

漫画

アニメーション

  • ラ・セーヌの星』 - フランス革命の頃のパリが舞台のテレビアニメ。アントワネットは知らなかったが、彼女の父君ロートリンゲン公フランツ1世がフランスのオペラ座の歌姫との間に設けたシモーヌ・ロランという異母妹がいるという設定。
  • ベルサイユのばら』 - 同名漫画のアニメ化作品。

ゲーム

楽曲

  • marie』- Aimerの楽曲。2019年に開催された「日本・オーストリア友好150周年記念 ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史」イメージソング。マリー・アントワネットを題材として書き下ろされた。[128]

関連項目

脚注

注釈

  1. 当時のアンジュー通りの角で、寺院の敷地の外であり、パリ8区にある現在のマドレーヌ寺院とはかなり離れている。贖罪礼拝堂はその旧敷地の一部に、ルイ18世が兄夫妻の冥福を祈って建てさせたものである。
  2. 1794年3月25日に墓地は閉鎖されていた。
  3. セザリーヌ・フランク画を基にした、ルイ=シャルル・ルオット作のエングレービング版画

出典

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  3. 1 2 3 タケット2022、P.51-52
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  5. エヴリン・ファー 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリー・アントワネットの暗号 解読されたフェルセン伯爵との往復書簡』河出書房新社、2018年8月30日。 ISBN 9784309227351
  6. リン・ハント 著、西川長夫・平野千果子・天野知恵子 訳『フランス革命と家族ロマンス』平凡社、1999年6月20日、187-188頁。 ISBN 4582744249
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  8. 『フランス王妃列伝』, p. 252-257.
  9. エマニュエル・ド・ヴァリクール 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリー・アントワネットと5人の男』原書房、2020年10月25日、123-125頁。 ISBN 9784562057979
  10. 『フランス王妃列伝』, p. 261-263.
  11. 『12の場所からたどるマリー・アントワネット』, p. 101-102.
  12. 『12の場所からたどるマリー・アントワネット』, p. 39.
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  20. パウル・クリストフ 編、藤川芳朗 訳『マリー・アントワネットとマリア・テレジア秘密の往復書簡』岩波書店、2002年9月26日、83-85頁。 ISBN 4000248014
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  23. タケット2023、P.50
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  66. 『12の場所からたどるマリー・アントワネット』, p. 119, 下巻.
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  68. エヴリン・ファー 著、ダコスタ吉村花子 訳『マリー・アントワネットの暗号 解読されたフェルセン伯爵の往復書簡』河出書房新社、2018年8月20日、412頁。 ISBN 9784309227351
  69. 『12の場所からたどるマリー・アントワネット』, p. 133-137, 下巻.
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  72. リン・ハント 著、西川長夫・平野千果子・天野知恵子 訳『フランス革命と家族ロマンス』平凡社、1999年6月20日、184-186頁。 ISBN 4582744249
  73. 安達正勝『マリー・アントワネット』中央公論新社、2014年、232頁。
  74. 『12の場所からたどるマリー・アントワネット』, p. 142, 下巻.
  75. 高瀬英彦「マリー・アントワネットの遺言書:妹に宛てた最後の手紙」『大阪樟蔭女子大学学芸学部論集』第45号、大阪樟蔭女子大学、2008年1月、247-255頁、 ISSN 1880-7887NAID 110006629127
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  131. 知る・楽しむ [野菜クイズ / サラダカフェ Salad Cafe]

外部リンク

マリー・アントワネット

1755年11月2日 - 1793年10月16日

フランスの君主
先代
マリー・レクザンスカ
フランス王妃英語版・ナバラ王妃
1774年5月10日–1792年9月21日
ナバラ王妃は1791年まで在位
1791年以降:フランス人の王妃
空位
次代の在位者
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
フランス皇后英語版として
請求称号
称号喪失
 名目上 
フランス王妃英語版
1791年9月4日 – 1793年1月21日
次代
マリー・ジョゼフィーヌ

「マリー・アントワネット」の例文・使い方・用例・文例

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