ブルボン朝とは? わかりやすく解説

ブルボン‐ちょう〔‐テウ〕【ブルボン朝】

読み方:ぶるぼんちょう

ブルボン王朝


ブルボン朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/16 01:03 UTC 版)

ブルボン朝(ブルボンちょう、フランス語: dynastie des Bourbons)は、近世フランス王国王朝である。1589年から1792年まで、一時中断を挟んで1814年から1830年まで続いた。文化史の分野ではルイ王朝と呼ばれることがある。これはこの王朝にルイという名の国王が何代にもわたって続いたからである。カペー朝の支流である。




「ブルボン朝」の続きの解説一覧

ブルボン朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:09 UTC 版)

パリ」の記事における「ブルボン朝」の解説

1594年アンリ4世即位によりパリ名実ともにフランス首都の座を回復したヴァロワ朝後期の王と異なりアンリ4世パリをおもな居住場所とし、都市での多く公共事業行ったルーブル宮殿拡張ポンヌフヴォージュ広場、ドフィーヌ広場サン・ルイ病院建設なされたフォンテーヌブロー宮殿もよく用いられ次のルイ13世はこの宮殿生まれている。ほかにもサン=ジェルマン=アン=レーにも居城があった。 ルイ13世治世下にパリ大きく変化した。その母のマリー・ド・メディシスによるテュイルリー宮殿リュクサンブール宮殿リシュリューによるパレ・ロワイヤル建設されソルボンヌ大学改築行われた太陽王ルイ14世即位後まもなくフロンドの乱起こり反動的貴族勢力打倒され結果絶対王政の確立促された。ルイ14世は、1677年居城ヴェルサイユ移した財務総監ジャン=バティスト・コルベールパリでの豪華な建設事業行い太陽王にふさわしい「新たなローマ」を作り上げようとした。廃兵院などはこのころ建築である。しかし王自身パリ好まずパリ郊外広大なヴェルサイユ宮殿にて執政を行うことを好んだ。このときまでにパリ中世市域大きく越えて成長し17世紀半ばには人口50万人建物2万5,000棟に達していた。以降政治の中心地は、ルイ16世治世末期までヴェルサイユに移ることとなる。 ルイ15世1715年居城をいったんパリ戻したが、1722年にはヴェルサイユ居城再度移してしまう。1752年にはエコール・ミリテール創設され1754年にはサント・ジュヌヴィエーヴの丘に教会現在のパンテオン)が建設された。 ルイ16世治世下の1784年から1790年にかけて、新たな城壁であるフェルミエー・ジェネローの城壁建設される18世紀は、やはり経済的成長世紀で、人口増大したフランス革命直前パリ人口64万人数えた啓蒙主義啓蒙思想発展しヴォルテールジャン=ジャック・ルソー、『百科全書』のドゥニ・ディドロシャルル・ド・モンテスキューらが活躍した宮廷ヴェルサイユ置かれたのに対抗し王族オルレアン公パレ・ロワイヤル増築改修すると、この地はパリ随一繁華街形成し啓蒙思想家のみならずあらゆる階層人々引きつけとりわけ急進的な革命家根拠地ともなった

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ブルボン朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 05:57 UTC 版)

パリの歴史」の記事における「ブルボン朝」の解説

詳細は「ブルボン朝」を参照 ヴァロワ朝後期の王と異なりアンリ4世パリ主な居住場所とし、都市での多く公共事業行った例えルーブル宮殿拡張ポンヌフヴォージュ広場ドーフィン広場サンルイ病院建設行った。特にポンヌフは、それまでセーヌ川架かっていた橋上に家屋備えていたとは異なり家屋持たない大きく眺望開かれたで、そこには多く人々往来しパリの交通中心機能果たしたアンリ4世は、特にナントの勅令によってプロテスタント権利認めた後、両派の宗教的な狂信者からの危険に頻繁にさらされた。少なくとも23回の暗殺危機回避した後、1610年5月14日カトリック狂信者犠牲によって殺害された。 次のルイ13世はわずか8歳で王に即位し、母のマリー・ド・メディシス摂政として政治補佐した成年15歳になってから、実際権力有能だ冷酷なリシュリューが行使して、大きく王権拡大したルイ13世治世下にパリ大きく変化しマリーリュクサンブール宮殿リシュリューパレ・ロワイヤル建設や、ソルボンヌ大学改築行ったルイ13世また、カトリック改革表現として多くバロック様式教会建設した1643年ルイ13世死去し王位5歳ルイ14世太陽王)に継承された。1648年新しい王とその家族は、フロンドの乱によってパリ追放された。フロンドの乱は、富裕層王権への反発重税2つ原因としており、貴族リシュリューのもとで失われた政治力回復するために反乱起こした。しかし乱は1653年鎮圧されルイ14世安定した治世迎えた。またこの乱に、パリ民兵組織がフロンド側を支持していたことから、乱の鎮圧後民兵組織形骸化急速に進んでいく。その背景には、街地区選挙機能しなくなり、その職を有力者の家が買い取ったり、またそれを相続し、市の参事会といった都市の上機構食い込んでいくなどといった、寡頭的な支配始まったことによって、結果民兵組織指揮官選出王権介入を受けるようになった経緯がある。 フランス威信太陽王ルイ14世のもとで最高に達した財務総監ジャン=バティスト・コルベールパリでの豪華な建設事業行い太陽王にふさわしい「新たなローマ」を作り上げようとした。しかし王自身パリ好まず広大なヴェルサイユ宮殿にて執政を行うことを好んだ。このときまでにパリ中世市域大きく越えて成長し17世紀半ばには人口500,000人、建物25,000であった。またルイ14世治世下において、1667年パリ警察代官創設する王令と、1670年それまでパリに来る外敵侵入を防ぐために築かれていた城壁撤去する王令が出された。初代警察代官就任したラ・レニー(英語版)は、パリゴミ収集体制確立し、また市内街灯設置した。特に街灯設置ルイ14世を満足させ、記念メダルを作らせたほどであった。このメダルには、ランタンをかざす女神の像描かれラテン語で「安全と光の都市」と記されている。壁の撤去事業では30年上続き、その跡地にはブールヴァール建設された。この王令は、それまで城壁内のパリ支えていた民兵組織形骸化王権威光パリ住民目に見える形で示したものであった1697年になると、2代目警察代官ルネ・ダルジャンソンが就任する。彼はゴミ問題のみならず火災洪水への対処や、都市の中で危険な場所への注意喚起といった、都市空間規律化に注力し、その過程捜査班を組織し市内カフェ教会などに密偵派遣させた。 ルイ14世ひ孫であるルイ15世はわずか5歳国王となり、オルレアン公フィリップ2世摂政務めたオルレアン公はすぐに汚職放蕩悪名高くなり、1720年南海泡沫事件での汚職によって大きく信頼失ったルイ15世治世下では、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって士官学校が、ジャック・ゴンドワン(フランス語版)によって外科学学校建設された。これらはその後ルイ16世様式嚆矢となる。またこの時代になると、パリ流入する貧民治安低下を招くという意識根付いてきたことから、乞食への取り締まり強化されるこうした乞食最終的にアメリカ大陸植民地開発のための労働力として移送された。1740年パリそれまで捜査官職を廃止し20からなる新たな組織設立する王令が出される。この王令では、5年軍務士官経験のある者など、採用条件をより高めることによって、素性しれない人物捜査官職に就くことを阻止し、またより強力な捜査与えることを示している。1755年にはフランス偉人祀る墓所パンテオン建設される。これは元々は、パリ守護聖人ジュヌヴィエーブを祀る教会として設計された。 18世紀後半パリ西洋学術・文化中心となった啓蒙時代中心、「理性時代」の新し思想中心となったルイ15世公妾ポンパドゥール夫人パリ知識人支援し、王に新し建造物作るよう促すなど、国家によっても積極的に奨励された。 ルイ16世の下で、パリ芸術科学哲学中心としての威信を得るようになった1783年モンゴルフィエ兄弟歴史的な熱気球での有人飛行パリ行った。しかしフランス国家財政はもはや破綻しており、七年戦争と、アメリカ独立戦争への干渉により、資金枯渇していた。1784年から1791年までの間に、新たな市壁パリ周辺建設され徴税のための税関設けられたが、これは非常に不評であった1788年不作により、フランス全土での飢餓疫病と、パリでの食糧反乱勃発した食糧危機に際して王権パン小麦流通全国的に規制しながらも、パリにそれを搬入することが課題となっていた。その一環としてポリス会議財務総監穀物輸出停止と、外国穀物輸入要請している。さらに警察代官力を借りてパリへ特権が行使される地域での穀物取り引き販売規制や、不正な取り引き取り締まり強化をした。しかし食糧危機がより深刻化すると、こうした警察代官権力のみでは対処難しくなり、この警察機構パリ市当局パリ高等法院といった様々な組織によって左右されていることが鮮明に映し出された。

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ブルボン朝(1589年 - 1792年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 00:49 UTC 版)

フランス君主一覧」の記事における「ブルボン朝(1589年 - 1792年)」の解説

肖像在位期間先代との関係 アンリ4世(良王アンリ・緑の情夫)(Henri IV, le Bon Roi Henri, le Vert-Galant) 1589年8月2日 1610年5月14日ルイ9世男系10世孫 • フランソワ1世の姪の子フランソワ2世シャルル9世アンリ3世再従兄弟であり、最初結婚により義兄弟 ルイ13世(公正王)(Louis XIII le Juste) 1610年5月14日 1643年5月14日アンリ4世の子 ルイ14世大王太陽王)(Louis XIV le Grand, le Roi Soleil) 1643年5月14日 1715年9月1日ルイ13世の子 ルイ15世最愛王)(Louis XV le Bien-Aimé) 1715年9月1日 1774年5月10日ルイ14世曾孫 ルイ16世(末王)(Louis XVI le Dernier) 1774年5月10日 1792年8月10日ルイ15世の孫 ルイ16世の子であるルイ=シャルルは、1793年1月21日より1795年6月8日まで名目のみであるがフランス王ルイ17世であった。しかし、実際にこの期間にわたり幽閉されており、権力共和国指導者たちにあったルイ17世没後、その叔父ルイ16世の弟)ルイスタニスラスルイ18世として王位主張したが、法的にフランス王となったのは、1814年王政復古によってである。

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