ブルボン‐ちょう〔‐テウ〕【ブルボン朝】
読み方:ぶるぼんちょう
ブルボン朝
ブルボン朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:09 UTC 版)
1594年、アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。ヴァロワ朝後期の王と異なり、アンリ4世はパリをおもな居住場所とし、都市での多くの公共事業を行った。ルーブル宮殿の拡張、ポンヌフ、ヴォージュ広場、ドフィーヌ広場、サン・ルイ病院の建設がなされた。フォンテーヌブロー宮殿もよく用いられ、次のルイ13世はこの宮殿で生まれている。ほかにもサン=ジェルマン=アン=レーにも居城があった。 ルイ13世の治世下にパリは大きく変化した。その母のマリー・ド・メディシスによるテュイルリー宮殿やリュクサンブール宮殿、リシュリューによるパレ・ロワイヤルが建設され、ソルボンヌ大学の改築も行われた。 太陽王ルイ14世の即位後まもなくフロンドの乱が起こり、反動的に貴族勢力が打倒された結果、絶対王政の確立が促された。ルイ14世は、1677年に居城をヴェルサイユに移した。財務総監のジャン=バティスト・コルベールはパリでの豪華な建設事業を行い、太陽王にふさわしい「新たなローマ」を作り上げようとした。廃兵院などはこのころの建築である。しかし王自身はパリを好まず、パリ郊外の広大なヴェルサイユ宮殿にて執政を行うことを好んだ。このときまでにパリは中世の市域を大きく越えて成長し、17世紀半ばには人口約50万人、建物約2万5,000棟に達していた。以降、政治の中心地は、ルイ16世の治世末期までヴェルサイユに移ることとなる。 ルイ15世は1715年に居城をいったんパリに戻したが、1722年にはヴェルサイユに居城を再度移してしまう。1752年にはエコール・ミリテールが創設され、1754年にはサント・ジュヌヴィエーヴの丘に教会(現在のパンテオン)が建設された。 ルイ16世治世下の1784年から1790年にかけて、新たな城壁であるフェルミエー・ジェネローの城壁が建設される。 18世紀は、やはり経済的成長の世紀で、人口が増大した。フランス革命直前のパリの人口は64万人を数えた。啓蒙主義、啓蒙思想が発展し、ヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、『百科全書』のドゥニ・ディドロ、シャルル・ド・モンテスキューらが活躍した。宮廷がヴェルサイユに置かれたのに対抗し、王族のオルレアン公がパレ・ロワイヤルを増築改修すると、この地はパリ随一の繁華街を形成し、啓蒙思想家のみならずあらゆる階層の人々を引きつけ、とりわけ急進的な革命家の根拠地ともなった。
※この「ブルボン朝」の解説は、「パリ」の解説の一部です。
「ブルボン朝」を含む「パリ」の記事については、「パリ」の概要を参照ください。
ブルボン朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 05:57 UTC 版)
詳細は「ブルボン朝」を参照 ヴァロワ朝後期の王と異なり、アンリ4世はパリを主な居住場所とし、都市での多くの公共事業を行った。例えばルーブル宮殿の拡張、ポンヌフ、ヴォージュ広場、ドーフィン広場、サンルイ病院の建設を行った。特にポンヌフは、それまでセーヌ川に架かっていた橋上に家屋を備えていた橋とは異なり、家屋を持たない大きく眺望が開かれた橋で、そこには多くの人々が往来し、パリの交通の中心の機能を果たした。アンリ4世は、特にナントの勅令によってプロテスタントの権利を認めた後、両派の宗教的な狂信者からの危険に頻繁にさらされた。少なくとも23回の暗殺の危機を回避した後、1610年5月14日、カトリックの狂信者の犠牲によって殺害された。 次のルイ13世はわずか8歳で王に即位し、母のマリー・ド・メディシスが摂政として政治を補佐した。成年の15歳になってから、実際の権力は有能だが冷酷なリシュリューが行使して、大きく王権を拡大した。ルイ13世の治世下にパリは大きく変化し、マリーはリュクサンブール宮殿、リシュリューはパレ・ロワイヤルの建設や、ソルボンヌ大学の改築を行った。ルイ13世はまた、カトリック改革の表現として、多くのバロック様式の教会を建設した。 1643年にルイ13世は死去し、王位は5歳のルイ14世(太陽王)に継承された。1648年、新しい王とその家族は、フロンドの乱によってパリを追放された。フロンドの乱は、富裕層の王権への反発と重税の2つを原因としており、貴族はリシュリューのもとで失われた政治力を回復するために反乱を起こした。しかし乱は1653年に鎮圧され、ルイ14世は安定した治世を迎えた。またこの乱に、パリの民兵組織がフロンド側を支持していたことから、乱の鎮圧後、民兵組織の形骸化が急速に進んでいく。その背景には、街地区の選挙が機能しなくなり、その職を有力者の家が買い取ったり、またそれを相続し、市の参事会といった都市の上位機構に食い込んでいくなどといった、寡頭的な支配が始まったことによって、結果、民兵組織の指揮官の選出に王権の介入を受けるようになった経緯がある。 フランスの威信は太陽王ルイ14世のもとで最高に達した。財務総監のジャン=バティスト・コルベールはパリでの豪華な建設事業を行い、太陽王にふさわしい「新たなローマ」を作り上げようとした。しかし王自身はパリを好まず、広大なヴェルサイユ宮殿にて執政を行うことを好んだ。このときまでにパリは中世の市域を大きく越えて成長し、17世紀半ばには人口約500,000人、建物約25,000棟であった。またルイ14世の治世下において、1667年にパリ警察代官を創設する王令と、1670年にそれまでパリに来る外敵の侵入を防ぐために築かれていた城壁を撤去する王令が出された。初代の警察代官に就任したラ・レニー(英語版)は、パリのゴミ収集体制を確立し、また市内に街灯を設置した。特に街灯の設置はルイ14世を満足させ、記念のメダルを作らせたほどであった。このメダルには、ランタンをかざす女神の像が描かれ、ラテン語で「安全と光の都市」と記されている。壁の撤去事業では30年以上続き、その跡地にはブールヴァールが建設された。この王令は、それまで城壁内のパリを支えていた民兵組織の形骸化と王権の威光をパリの住民の目に見える形で示したものであった。 1697年になると、2代目警察代官ルネ・ダルジャンソンが就任する。彼はゴミ問題のみならず、火災や洪水への対処や、都市の中で危険な場所への注意喚起といった、都市空間の規律化に注力し、その過程で捜査班を組織し、市内のカフェや教会などに密偵を派遣させた。 ルイ14世のひ孫であるルイ15世はわずか5歳で国王となり、オルレアン公フィリップ2世が摂政を務めた。オルレアン公はすぐに汚職と放蕩で悪名高くなり、1720年の南海泡沫事件での汚職によって大きく信頼を失った。 ルイ15世の治世下では、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって士官学校が、ジャック・ゴンドワン(フランス語版)によって外科学学校が建設された。これらはその後のルイ16世様式の嚆矢となる。またこの時代になると、パリに流入する貧民が治安の低下を招くという意識が根付いてきたことから、乞食への取り締まりが強化される。こうした乞食は最終的にアメリカ大陸の植民地開発のための労働力として移送された。1740年、パリのそれまでの捜査官職を廃止し、20人からなる新たな組織を設立する王令が出される。この王令では、5年の軍務や士官経験のある者など、採用条件をより高めることによって、素性のしれない人物が捜査官職に就くことを阻止し、またより強力な捜査権を与えることを示している。1755年にはフランスの偉人を祀る墓所パンテオンが建設される。これは元々は、パリの守護聖人ジュヌヴィエーブを祀る教会として設計された。 18世紀後半、パリは西洋の学術・文化の中心となった。啓蒙時代の中心、「理性の時代」の新しい思想の中心となった。ルイ15世の公妾のポンパドゥール夫人がパリの知識人を支援し、王に新しい建造物を作るよう促すなど、国家によっても積極的に奨励された。 ルイ16世の下で、パリは芸術、科学、哲学の中心としての威信を得るようになった。1783年、モンゴルフィエ兄弟は歴史的な熱気球での有人飛行をパリで行った。しかしフランスの国家財政はもはや破綻しており、七年戦争と、アメリカ独立戦争への干渉により、資金が枯渇していた。1784年から1791年までの間に、新たな市壁がパリの周辺に建設され、徴税のための税関も設けられたが、これは非常に不評であった。1788年の不作により、フランス全土での飢餓、疫病と、パリでの食糧反乱が勃発した。食糧危機に際して、王権はパンと小麦の流通を全国的に規制しながらも、パリにそれを搬入することが課題となっていた。その一環として、ポリス会議は財務総監に穀物輸出の停止と、外国穀物の輸入を要請している。さらに警察代官の力を借りて、パリへの特権が行使される地域での穀物の取り引き、販売の規制や、不正な取り引きの取り締まり強化をした。しかし食糧危機がより深刻化すると、こうした警察代官の権力のみでは対処が難しくなり、この警察機構がパリ市当局やパリ高等法院といった様々な組織によって左右されていることが鮮明に映し出された。
※この「ブルボン朝」の解説は、「パリの歴史」の解説の一部です。
「ブルボン朝」を含む「パリの歴史」の記事については、「パリの歴史」の概要を参照ください。
ブルボン朝(1589年 - 1792年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 00:49 UTC 版)
「フランス君主一覧」の記事における「ブルボン朝(1589年 - 1792年)」の解説
肖像名在位期間先代との関係 アンリ4世(良王アンリ・緑の情夫)(Henri IV, le Bon Roi Henri, le Vert-Galant) 1589年8月2日 1610年5月14日 • ルイ9世の男系10世孫 • フランソワ1世の姪の子 • フランソワ2世・シャルル9世・アンリ3世の再従兄弟であり、最初の結婚により義兄弟 ルイ13世(公正王)(Louis XIII le Juste) 1610年5月14日 1643年5月14日 • アンリ4世の子 ルイ14世 (大王・太陽王)(Louis XIV le Grand, le Roi Soleil) 1643年5月14日 1715年9月1日 • ルイ13世の子 ルイ15世(最愛王)(Louis XV le Bien-Aimé) 1715年9月1日 1774年5月10日 • ルイ14世の曾孫 ルイ16世(末王)(Louis XVI le Dernier) 1774年5月10日 1792年8月10日 • ルイ15世の孫 ルイ16世の子であるルイ=シャルルは、1793年1月21日より1795年6月8日まで名目のみであるがフランス王ルイ17世であった。しかし、実際にはこの期間にわたり幽閉されており、権力は共和国の指導者たちにあった。ルイ17世の没後、その叔父(ルイ16世の弟)ルイ=スタニスラスがルイ18世として王位を主張したが、法的にフランス王となったのは、1814年の王政復古によってである。
※この「ブルボン朝(1589年 - 1792年)」の解説は、「フランス君主一覧」の解説の一部です。
「ブルボン朝(1589年 - 1792年)」を含む「フランス君主一覧」の記事については、「フランス君主一覧」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- ブルボン朝のページへのリンク