メロヴィング朝とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 組織・団体 > 政治組織 > 王朝 > 王朝 > メロヴィング朝の意味・解説 

メロビング‐ちょう〔‐テウ〕【メロビング朝】


メロヴィング朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/02 06:24 UTC 版)

メロヴィング朝フランク王国

メロヴィング朝(メロヴィングちょう、: Mérovingiens, : Merowinger, : Merovingian dynasty)は、ゲルマン人(西ゲルマン)であるフランク族の支族のサリ族が築いたフランク王国における最初の王朝である。

メロヴィングの名は、始祖クローヴィスの祖父メロヴィクスにちなむ。4子に分割相続して以後、分裂・内紛を繰り返して衰退した。

フランスの歴史

この記事はシリーズの一部です。
年表

フランス ポータル

建国と改宗

フランドルを支配していた小国の王クローヴィス1世465年 - 511年、在位481年 - 511年)が勢力を伸ばし領土を拡大。全フランクを統一し、481年、メロヴィング朝を開いた。496年、クローヴィスはカトリック教徒であった妻との約束により、ゲルマン人に定着していたアリウス派キリスト教(異端宗派)から、家臣4,000名とともに正統派のアタナシウス派キリスト教(カトリック)に改宗した(クローヴィスの改宗)。これによって旧西ローマ帝国貴族の支持を得、領内のローマ系住民との関係も改善された。506年西ゴートヴイエの戦いで破り、その王アラリック2世を戦死させ、イベリア半島へ駆逐。王国の版図を広げた。

クローヴィス1世

メロヴィング家のフランク族支配を確立したのは、キルデリク1世とその子クローヴィス1世である。

キルデリク1世の時代には異教的な習俗が強かったが、クローヴィスは496年カトリックの洗礼を受け改宗し、同時に主な従士も改宗した。トゥールのグレゴリウスによれば、508年ランスの司教レミギウスによって洗礼を授けられて改宗したという見方が有力となりつつある[1][2]

フランク王国はゲルマン諸部族のなかでは比較的早く正統信仰を受け入れた国であった。クローヴィス即位当時北ガリアでは、ローマ人のガリア軍司令官シアグリウスがほとんど独立した政権を維持しており、だいたいのちのネウストリアのあたりを支配していた(ソワソン管区)。486年にクローヴィスはシアグリウスとソワソン付近で戦って勝利し、その支配地域を併合した。クローヴィスは491年にテューリンゲン人を服属させ、496年アレマン族と戦い、ブルグント王の姪でカトリック教徒であったクロティルダと結婚した。507年には当時強勢を誇っていた西ゴート族を破り、アキテーヌを支配下に収めた。クローヴィスは晩年に有力なフランク人貴族を抹殺し、メロヴィング王権を確立した。511年の死の直前にはオルレアン公会議を開き、メロヴィング朝の教会制度が組織され、アリウス派異端への対処が話し合われた[3]

分裂

分割後のメロヴィング朝フランク王国(600年ころ)

クローヴィスの死後王国は4人の息子たちによって分割され、息子たちはさらに領土を拡大した。息子たちのうち一人が死ぬと、その領土は生き残った国王の支配に服した。メロヴィング朝の分割は、王国を王の私的な財産と考えて行われたわけではなく、あくまでメロヴィング家の世襲財産として行われていたと見るべきである。したがって王の数だけ世襲財産の「持分」が存在したのであり、資格のある王が一人になれば世襲財産はその人物に集中する[4]

6世紀から7世紀にかけての間に各分王国では徐々にそれぞれの貴族層が固定化され、それが地域的なアイデンティティにつながっていった。高まる各王国の自立性は、後述するクロタール2世の統一を最後に、メロヴィング朝を分裂へと導いていくのである[5]

クロタール1世

クローヴィスの息子のうちで最後まで生き残ったクロタール1世が死ぬ頃(561年[6]には再び王国は統一されており、しかも地中海沿岸を支配していた有力なゲルマン民族国家は、ユスティニアヌス1世により滅ぼされるか打撃を受けていたため、フランク王国はゲルマン民族の間で最も有力な王国となっていた。

再分割

クロタールの王国は再びその4人の息子たちによって分割され、長男シギベルト1世英語版には王国東部が与えられ、彼の分王国は「アウストラシア」と呼ばれた。アウストラシアの王は飛び地としてプロヴァンスを支配した。次男グントラム英語版にはブルグントの支配が任された[7]

三男カリベルト英語版には王国西部を、末子キルペリク1世には王国北西部のベルギー地方が与えられた。

567年にカリベルトがなくなると、その支配地は3分王国の間で分配され、キルペリク1世の分王国はノルマンディー地方にまで拡大されて「ネウストリア」と呼ばれるようになった。

クロタール2世

613年、王国はクロタール2世により再び統一されたが、各分王国の自立性は強まっており、各分王国の貴族たちは各分国王のもとで形成されてきた政治的伝統を維持したいと考えていた。

教会政策

614年パリでおこなわれた教会会議の直後、クロタール2世は「パリ勅令」を公布した。この勅令は各分王国の貴族たちの要求を受け入れる形で、アウストラシアとブルグントでは宮宰を国王の代理人とするものであった。クロタール2世はもともとネウストリアの分国王であったので、ネウストリアは国王が直接統治した。またこの勅令で教会に裁判特権を与えた。この教会への譲歩については、王権に対する教会の支持を盤石にしたという見解と、教会への妥協であり王権の衰微であるという見解があり、アンリ・ピレンヌは前者の見解を取った。こうして各分王国で宮宰が特別な地位を認められるようになった。

クロタール2世の時代はメロヴィング朝の教会政策の転換期といえる。クロタール2世は、アウストラシアのゲルマン貴族に支持されており[8]、アイルランド修道制を導入した修道院運動が活発化した[8] [9]。一方、王妃ブルンヒルドを支持した従来のガロ・ローマン的セナトール貴族と結びついた司教制度は衰退に向かった。これはメロヴィング朝フランク王国内の南北での教会会議の開催数の差によって確認できる。ロワール川以南では同時期40回を数えた[8]のに対し、アイルランド修道制が流布したロワール川以北のフランキア地方では、640年までに5回のみであり[8]、ロワール川以北では司教活動は明らかに衰退したのである。司教の出自も、セナトール貴族中心から7世紀を境にゲルマン貴族が目立つようになってくる。

ゲルマン貴族が司教職に進出した背景の一つは、590年聖コルンバヌスによって設立されたリュクスイユ修道院がフランク貴族子弟の教育機関となり、多くのゲルマン人司教の養成に成功したことである[10]。クロタール2世は前述の614年「パリ勅令」において聖職叙任規定に言及し、パリ教会会議の決定に基づいて首都司教に司教の叙階権のみを認め、選出権は当該教区の聖職者と信徒の共同体に限定した。しかし、選出と叙階の間に王権による審査を経ての叙任令に基づく叙任が必要とされている[11]

H. ヴィエルツボルスキーの研究によると、教会会議に参加する司教のローマ名と非ローマ名の割合が7世紀を境に大きく変化した。6世紀前半には出席者はほぼ全員がローマ名であったが、6世紀後半になると非ローマ名が増加し、7世紀には非ローマ名が約半数を占めている[11]

王朝の終焉

7世紀後半から王国の行政および財政を取り仕切る宮宰(きゅうさい, major domus)に実権が移ってゆく。とくにアウストラシアカロリング家をはじめネウストリアブルグント三分国(地域)の宮宰が著しく台頭した。 714年から宮宰に就任していたカロリング家のカール・マルテルは教会から没収した土地を家臣たちへ与えて軍を再編[12]。その後、732年にはイベリア半島から領内に進攻してきたイスラム帝国ウマイヤ朝軍をトゥール・ポワティエ間の戦いにおいて破り、西欧キリスト教世界に対するイスラム勢力の進出を食い止めた[12]751年にマルテルの子、ピピン3世(小ピピン)がローマ教皇の支持を得てカロリング朝を開いたことで、メロヴィング朝は終わった[13]

文化

のちのカロリング朝と違って、メロヴィング朝では多数の教養ある俗人が政府内に存在した。ピレンヌは次のような人物を列挙する。テウデベルト1世の寵臣であったアステリオルスおよびセクンディヌスは修辞学に秀でていた[14]。おなじくテウデベルト1世に仕えたパルテニウスもローマで教養を身につけた人物であった。クロタール2世の王室財務官をつとめたカオールのデシデリウスも雄弁術やローマ法に精通していた[15]

メロヴィング朝美術英語版の代表的な、メロヴィング朝から始まったメロヴィング体英語版という書体で描かれた装飾写本

国王の一覧

一覧
代数 名前 在位 備考
初代 クローヴィス1世 481-511
2代 クロタール1世 558-561 領土拡大、再統一
3代 クロタール2世 613-629
4代 ダゴベルト1世 629-639
5代 クローヴィス2世 639-658
6代 クロタール3世 658-673
7代 キルデリク2世 673-675
8代 テウデリク3世 679-690
9代 クローヴィス4世 690-694
10代 キルデベルト3世 694-711
11代 ダゴベルト3世 711-715
12代 キルペリク2世 715-721
13代 テウデリク4世 721-737
14代 キルデリク3世 743-751

系図

 
 
 
 
 
 
 
メロヴィクス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
キルデリク1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
名前未詳
 
クローヴィス1世1
フランク王
 
クロティルド
ブルグント王女
 
アウドフレダ
 
テオドリック
東ゴート王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
テウデリク1世
ランスの王
 
クロドメール
オルレアンの王
 
キルデベルト1世
パリの王
 
クロタール1世2
ソワソンの王
全フランクの王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
テウデベルト1世
ランスの王
 
カリベルト1世
パリの王
 
 
グントラム英語版
オルレアンの王
(ブルグント王)
 
 
シギベルト1世英語版
ランスの王
(アウストラシア王)
 
ブルンヒルド
西ゴート王女
 
 
アウドヴェラ
 
キルペリク1世
ソワソンの王
(ネウストリア王)
 
フレデグンド
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
テオデバルド英語版
ランスの王
 
エンマ
=ケント王エアドバルド
 
ベルタ
=ケント王エゼルベルト1世
 
キルデベルト2世英語版
アウストラシア王
ブルグント王
 
ヘルメネギルド
(西ゴート王子)
 
イングンド
 
 
 
 
 
 
メロヴィク
 
クロタール2世3
フランク王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
テウデベルト2世英語版
アウストラシア王
 
テウデリク2世英語版
アウストラシア王
ブルグント王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ダゴベルト1世4
フランク王
 
カリベルト2世英語版
アキタニア王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
シギベルト2世英語版
アウストラシア王
ブルグント王
 
シギベルト3世英語版
アウストラシア王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クローヴィス2世5
ネウストリア王
ブルグント王
 
キルペリク
アキタニア王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(養子)
キルデベルト養子王
(宮宰グリモアルド1世子)
アウストラシア王
 
ダゴベルト2世英語版
アウストラシア王
 
クロタール3世6
ネウストリア王
ブルグント王
 
キルデリク2世7
アウストラシア王
 
 
 
 
 
テウデリク3世8
フランク王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クローヴィス3世
アウストラシア王
 
キルペリク2世12
ネウストリア王
アウストラシア王
 
クローヴィス4世9
フランク王
 
キルデベルト3世10
フランク王
 
クロタール4世
アウストラシア王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
キルデリク3世14
フランク王
 
 
 
 
 
ダゴベルト3世11
フランク王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
テウデリク4世13
フランク王
 


脚注

  1. ^ レジーヌ・ル・ジャン 2009, p. 20.
  2. ^ Ian Wood 1995, p. 48.
  3. ^ レジーヌ・ル・ジャン 2009, p. 21.
  4. ^ レジーヌ・ル・ジャン 2009, pp. 22–23.
  5. ^ レジーヌ・ル・ジャン 2009, p. 28.
  6. ^ A・ティエリ『メロヴィング王朝史話』岩波文庫、1992年、P.35頁。 
  7. ^ A・ティエリ『メロヴィング王朝史話』岩波文庫、1992年、P.37頁。 
  8. ^ a b c d 長谷川博隆 1985, 徳田直宏「クロタール二世の教会支配」,pp111-112.
  9. ^ H・I・マルー 1996, pp. 460–462.
  10. ^ 徳田直宏「コルムバヌス修道院運動--メロヴインガー・フランクの政治史的・教会史的転換期に関する一考察」『名古屋大学文学部研究論集』、名古屋大学文学部、1971年3月、65-102頁、NAID 40002780956 
  11. ^ a b 長谷川博隆 1985, 徳田直宏「クロタール二世の教会支配」,p145.
  12. ^ a b 柴田 他、p. 155
  13. ^ 柴田 他、p. 157
  14. ^ H・ピレンヌ『ヨーロッパ世界の誕生』創文社、1993年、191p頁。 
  15. ^ H・ピレンヌ『ヨーロッパ世界の誕生』創文社、1993年、192p頁。 

参考文献

関連項目


メロヴィング朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)

フランスの歴史」の記事における「メロヴィング朝」の解説

4世紀後半より始まる本格的なゲルマン人大移動にともないゲルマン人一派であるフランク人ガリア定住したフランク人らは、狩猟牧畜を主とし、数年ほどの定住の後に、移住を行う生活を繰り返していた。フランク人は、ガリア征服前のケルト人似てサリ族とリブアリ族といったいくつかの部族分かれ部族ごとに王と戦士持っていた。また彼らは「サリカ法典」や「リブアリ法典」などの、ラテン語書かれ部族規則持っていた。こうしたフランク人に関する記録は、4世紀書かれ史書「皇帝伝」中に収録されているローマ軍進軍歌最初で、260年代ローマ軍フランク人勝利した旨を歌った内容であった470年にはフランク族キルデリク1世パリ包囲する。この包囲戦10年に及び、やがて481年キルデリク1世没すると、弱冠15歳部族の王となったクローヴィスはこの包囲戦経て、聖ジュヌヴィエーヴとの合意取り交わしパリ支配下に置く。その後フランク諸族を統一しメロヴィング朝フランク王国建国すると、旧ローマ帝国領であるガリア現住民がカトリック信仰していたことや、ローマ化早かったブルグンド王西ゴート王といった他のゲルマン民族アリウス派受け入れていたことに対してローマ化遅かったこともあり、またランス司教聖レミギウスや、敬虔なカトリック信者であったクロチルダらのすすめから、統治円滑に行うことも狙ってクローヴィス3000人ほどの従士とともに正統派アタナシウス派改宗しカトリック受容した。 507年クローヴィス長年より戦役続いていたアラリック率い西ゴート王国撃破しボルドーオーヴェルニュトゥールーズ地方などを獲得するクローヴィスとその息子キルデベルト治世では、政治的な影響力に加え宗教的な影響力増大しパリには多く教会修道院建設された。またこの時代にはクローヴィスの頃より対立関係にあったブルグンド王国への侵攻523年より始まる。 メロヴィング朝においては王国を家の財産とみなし、当主没後、その土地分割相続する慣習があったことから、王国統一保っていたのはごく短期間のうちであったクローヴィスには4人の子供がいたため、国土4つ分割された。 6世紀後半にはアウストラシアネウストリアブルグンド3つに国が別れそれぞれが王を称した。また各地では地方豪族影響強めた7世紀後半ネストリア治めていたクロタール2世はこの三国に対して宮宰設置し、この宮宰通じて三国統一試みたこうした分割相続によって不安定化していく王国と、それらを連絡し統率を図る権限を持つ宮宰は力を強め中でもカロリング家台頭していく。特にカロリング家ピピン2世三王国の争い利用しそれぞれの国の宮宰職を独占した8世紀前半宮宰カール・マルテルは、イベリア半島からヨーロッパ進出図っていたイスラーム勢力ウマイヤ朝)をトゥール・ポワティエ間の戦い撃破しキリスト教世界守護者としてその名声高めた。しかしマルテルは、メロヴィング家王位空白空白良い事に、宮宰として傍若無人に振る舞い、有力貴族反感を買った

※この「メロヴィング朝」の解説は、「フランスの歴史」の解説の一部です。
「メロヴィング朝」を含む「フランスの歴史」の記事については、「フランスの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「メロヴィング朝」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「メロヴィング朝」の関連用語

メロヴィング朝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



メロヴィング朝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのメロヴィング朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのフランスの歴史 (改訂履歴)、ユゼルシュ (改訂履歴)、ブルグント王の一覧 (改訂履歴)、ネウストリア (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS