宮宰
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宮宰(きゅうさい、ラテン語: Major Domus マーヨル・ドムス:大いなる家人)は、ヨーロッパ初期中世の職名ないし官職名。 ローマ帝国末期から民族大移動に至る時期のゲルマン諸国家および諸侯の宮廷職の首位を占める職で、もともとは、王家や諸侯の家政機関の管理者であった。この官職の性格としては、宮中伯に比せられることもある。
特に著名なのは、フランク王国メロヴィング朝の宮宰(maires du palais)で、王家の家政上の私事と公務の区別があいまいのまま、王領地の管理や王の側近の従士団の長を兼ねるようになり、メロヴィング朝後期の内乱時代において、王家の権限が弱まるとともに、王国の北東部を占めるアウストラシア、北西部を占めるネウストリア(ノイストリア)、南西部を占めるブルグント三分国の宮宰が国政面で王の代理として行政、裁判、戦争に参加する権能を持つようになった。
アウストラシアの宮宰カロリング家のピピン2世(中ピピン)が、ネウストリアの宮宰エブロインを687年のテリトリーの戦いで破るとカロリング家がフランク王国全体の宮宰となり、「フランク族の総帥にして首長」(Dux et Princeps Francorum) と称するまでに至った。
中ピピンの子がカール・マルテルで、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム軍を破るとその名声は確固たるものとなり、751年にピピン3世が貴族たちに推挙されて王位につきカロリング朝を開いて、宮宰の職はいったん消滅した。
宮宰の職が復活するのは、ルートヴィヒ(ルイ)1世(敬虔王)のときで、帝室の財務長官職として置かれた。カロリング朝が断絶するに及んでドイツではPraeses palatiniという幼年の君主を単に後見する職になり、フランスでは、Sénéchal(家令)という類似する職となったが、かつてのメロヴィング朝後期のような力をもつことはなかった。
参考文献
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宮宰
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詳細は「en:List of the Mayors of the Palace」を参照 ピピン家は当初はメロヴィング家の王のもとで、最初にアウストラシア、後にネウストリア及びブルグントの宮宰を勤めた。687年にピピン1世はテルトリーの戦いでネウストリアを征服した後にフランク公(dux et princeps Francorum)の称号を用いた。これは同時代の年代記にピピン1世の"統治" の始まりとして記載されている。715年から716年の間、ピピン1世の子孫は後継を巡って対立した。 大ピピン(アウストラシア:623年 - 629年及び639年 - 640年) グリモアルド1世(アウストラシア:643年 - 656年、662年死去) 中ピピン(アウストラシア:680年 - 714年、ネウストリア及びブルグント:687年 - 695年) ドロゴ(ブルグント:695年 - 708年) グリモアルド2世(ネウストリア:695年 - 714年, ブルグント:708年 - 714年) テウドアルド(アウストラシア、ネウストリア、及びブルグント:714年 - 716年) 716年からの内乱においてピピン2世の庶子カール・マルテルがピピン家嫡流のテウドアルドに勝利し、カロリング家を創設した。 カール・マルテル(アウストラシア:715年 - 741年、ネウストリア及びブルグント:718年 - 741年) カールマン(アウストラシア:741年 - 747年、754/5年死去) 小ピピン(ネウストリア及びブルグント:741 - 751年、アウストラシア:747年 - 751年) 752年3月 にピピン3世はフランク王となり宮宰は消滅した。カロリング朝はメロヴィング朝に取って代わった。
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