民族移動時代とは? わかりやすく解説

民族移動時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/14 05:12 UTC 版)

2世紀から5世紀にかけての民族移動の図

民族移動時代(みんぞくいどうじだい、英語: Great Barbarian Invasion)は、西暦300年から700年代にかけて、ヨーロッパで起こった、諸民族移住時代のことである。

この移住はゲルマン系及びスラブ系の移住、更に東方系の諸民族を主体としている。これは中央アジアでのテュルク系民族の圧力や、人口爆発気候変動疫病の蔓延などが要因とされる。

ゲルマン系民族の移動

本節では古代後期から中世初頭にかけて西ローマ帝国の領域内に居住するようになっていったゲルマン系の移動について記す。(参考:ゴート族ブルグント族ランゴバルド人アングロ・サクソン人ジュート人)。

最初にローマ帝国の領域に侵入したのは西ゴート族であり、続いて侵入したのが東ゴート族である。彼らはいずれも東方民族であるフン族からの略奪・虐殺を受け、逃げ延びる形で東ローマ帝国の領内に殺到し、傭兵として東ローマ帝国内で一定の地位を築いた。それに続く形でブルグント族がフランス北部に、ランゴバルドがイタリアに、アングロ・サクソン人とジュート人がブリタニアに、アレマン人ケルト系と深く混血していた)が南西ドイツに侵入していった。

そして最終的にフランク人というケルト系やスラブ系・ラテン系の民族とゲルマン諸族が連合したグループが西ヨーロッパを担うようになっていく。ゴート人など初期に移動を開始した東側のゲルマン人は圧倒的多数派であったローマ人に同化したが、後発のフランク人はローマ化しつつも一定の影響力を維持し、ドイツ、イギリスなどの国家の根幹を築いた。

またゲルマン系の故郷とされる北欧の人々はヴァイキングとして盛んに活動して各地に血統を残している。

西ゴート王国

もともと西ゴート族はドニエプル川両岸に居住していたが、アッティラによる圧迫によりバルカン半島北部への移住が始まり、傭兵として東ローマ帝国内に居住するようになっていた。しかし5世紀初頭、東ローマ帝国で軍司令官に任じられていた西ゴート族の指導者アラリック1世は、給金の支払いについて帝国と対立して東ローマ帝国から離反、西ローマ皇帝ホノリウスの暴政に苦しむ非イタリア系住民からの要請を受けてイタリア半島へと侵入を開始した。時の西ローマ皇帝ホノリウスは、西ゴート族によるローマ略奪の報を受けてもラヴェンナへこもりきりであった。418年にはローマ帝国との契約により西ローマ帝国への定住が認められ、トゥールーズを中心として西ゴート族の王国(西ゴート王国)が発生した。5世紀中ごろには西ローマ帝国の実権を西ゴート族の指導者が握り、ローマ帝国の名の下でガリアヒスパニアでの勢力を伸ばした。しかしガリアはフランク族との抗争で6世紀初頭には王国の領域から外れ、王国の重心はイベリア半島に移らざるを得なくなった。その後も、イベリア半島を中心に支配が続いたが、711年に、ウマイヤ朝の攻撃を受け、滅亡。イベリア半島は、その後、レコンキスタの舞台となる。

東ゴート王国

東ゴート族はアッティラによる圧迫から逃れる形でバルカン半島北部へと移住を開始し、傭兵として東ローマ帝国内に居住するようになっていた。東ローマ帝国で軍司令官執政官を歴任した東ゴート王テオドリックは、東ローマ皇帝ゼノンの命令でイタリアに侵攻し、ゼノンと対立していたイタリア領主のオドアケルを討伐した。その功績としてテオドリックには493年にローマ皇帝アナスタシウス1世よりイタリア王位が認められ、イタリアの地に東ゴート族の王国(東ゴート王国)が誕生した。しかし、後に東ゴート王国は東ローマ帝国と対立し、皇帝ユスティニアヌス1世の派遣した軍団によって滅ぼされた。

フランク王国とブルグント王国、ランゴバルド王国

フランク人の名前は3世紀半ばに初めて史料に登場する[1]。その勇猛が買われ当初は西ローマ帝国の傭兵として活躍していたが、4世紀にはメロバウドゥス英語版フラウィウス・バウトらのように西ローマ帝国において執政官に就任する者も現れ[2]、次第に東西両帝国の政界において強い影響力を持つようになった。5世紀にはガリアにおいてブルグント王国、ランゴバルド王国を滅ぼして勢力を広げた。508年にはフランク王クローヴィス1世がローマ皇帝アナスタシウス1世より西ローマ帝国の名誉執政官に任命され、800年にはフランク王カールがローマ教皇レオ3世からローマ皇帝としての帝冠を授けられた。

アングロ・サクソンの七王国

ヴァイキング

東方系民族の移動

ゲルマニア東半分(現在のポーランドチェコ等の地域)や、サルマティア(現在のベラルーシ南部からウクライナ)には、スキタイサルマタイの影響を受けた、スラヴ人の文化圏が形成されていた。彼らはPrzeworsk文化やZarubintsy文化などの主体をなし、周辺のケルトやゲルマンの諸族と相互に影響を与え合っていた。彼らもまたフン族に押される形で東ヨーロッパ全土に進出し、スラブ系がこの地域の支配していくことになる。

近年では古代のケルト系民族の研究に影響されてか、プロト・スラブ人についての研究も深まりつつある。その最たる例はヴァンダル人で、彼らは元々はPrzeworskに属する部族である事が判明しており、何らかの理由(恐らくは近隣のゴート族との交流)でゲルマン系言語を用いるようになったと考えられているが、しかし実際のところヴァンダル語についてはほとんど資料がなく、彼らの日常言語が本当にゲルマン系言語であったかどうかでさえも定かではない。語彙の上でゴート語の影響を受けていることははっきりしているが、スラヴ語も語彙においてゴート語の影響を強く受けた言語であり、ゴート語の影響をもってヴァンダル語がゲルマン語であったとは言えない。ヴァンダル人は南欧や北アフリカに侵入していくが、このころまでには彼らがゲルマン語を話していたことがわかっている。(彼らが古い時代からのリンガ・フランカとしてゲルマン系の言葉、新しい時代のリンガ・フランカとしてラテン語、伝統的な民衆語としてスラヴ祖語を使用していたならばこの謎は解決され、当地の考古文化の変遷の仕方がその有力な傍証となっているが、ヴァンダル人がプロト・スラヴ人であることを示す決定的証拠は見つかっていない)。

また同地にはサルマタイと呼ばれるイラン系の諸族も定住していた他、古代末期にはフン族アヴァール族などの騎馬民族が侵入し、スラヴ系・ゲルマン系の諸民族を次々と征服していった。彼らの出自は明らかではないものの、推測される使用言語からテュルク系に属するという意見や匈奴との関係を論じる意見が一般的である。アヴァール族はテュルク系とされるが、その共通言語としてスラヴ祖語が広く使用されていたという説もある。

フン族

サルマタイ

サルマタイ人はイラン系民族で、長らく遊牧民の覇者であったスキタイ人を滅ぼして勢力を広げた。民族移動時代に入ると、フン族と共に西進を開始して東ゴート族を破り東ヨーロッパに侵入した。後にスキタイ人の系統を継いだとされるスラブ人に吸収されるが、ポーランド近辺ではスラブ文化だけでなくサルマタイ文化も残存して強い影響を残した。近世・近代にはポーランド・リトアニア連合の貴族達がサルマタイ人の末裔である事を強調している(サルマティズム)が、これは単にサルマタイ風の服装や髪形およびサルマタイ的な気質が、非常に多様な民族的・文化的・宗教的出自から構成されていたポーランド貴族(シュラフタ)社会の連帯感を示すものとして流行したもの。

中世ヨーロッパの騎士道文学の最高峰であるアーサー王伝説がサクソン人に対抗したケルト人の伝承がベースであったことは近年知られるようになっているが、さらにそのベースはサルマタイ人の伝承であるとする仮説がある。これはローマ帝政末期にサルマタイ人の傭兵団が大量にブリテン島に移住していた事と、アーサー王伝説とサルマタイ神話が奇妙なほどに一致している為である。

またサルマタイ本体が滅んだ後もアラニ人などの分派勢力が活動を続けている。

アラニ族

スラブ族

比喩

これから派生して、年末年始日本ゴールデンウィークお盆休み朝鮮半島中華人民共和国中華民国台湾)などの太陰暦旧暦)の旧正月などでの帰省などで、「民族大移動」と表現をする記述がある [3]

脚注

  1. ^ 五十嵐修 「征服と改宗-クロヴィス1世と初期フランク王権-」『古代王権の誕生IV ヨーロッパ篇』 角川書店、2003年10月。ISBN 978-4-04-523004-2
  2. ^ 佐藤彰一 「第三章 フランク王国」『フランス史』1、山川出版社〈世界歴史大系〉、1995年9月。
  3. ^ 中国の「民族大移動」が復活 ゼロコロナ終了後、初の春節 経済回復に期待も農村での感染拡大を懸念(東京新聞)

関連項目


民族移動時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 05:43 UTC 版)

中世前期」の記事における「民族移動時代」の解説

詳細は「民族移動時代」および「ゲルマン王権」を参照 移住時代 ラヴェンナテオドリック廟は、東ゴート族現存する唯一の建築例である。 500年頃西ゴート族現在のフランススペインアンドラポルトガルに当たる広大な地域支配したゴート族ヴァンダル族は、西ヨーロッパ押し寄せた侵攻第一波に過ぎなかった。ある者は戦争略奪の為だけに暮らしローマ生活様式軽蔑した。その他はローマ称賛しその後継者になることを望んだ。「貧しローマ人は、ゴート族演じ豊かなゴート族は、ローマ人演じた。」と東ゴート族テオドリック王は言ったローマ帝国臣民は、カトリックであり、長く安定した官僚的な帝国文明化された臣民であったゲルマン人都市や金、文字についてほとんど知らなかった最近アリウス派キリスト教改宗した人々であり、従って帝国聖職者にとっては異端であった。 民族移動時代に最も早く入植した人々は、そのまま立ち去る部分的に手を付けただけであったフランス人イタリア人スペイン人今日ロマンス諸語形成しているラテン語方言話し続けているために、西のブリトン王国ではブリトン語話者残ったが、今日イングランドローマ時代小規模言語は、アングロ・サクソン人占領され領域僅かな痕跡と共に消失した新来人々は、法律文化宗教財産所有形態など作られ社会大い改造したパクス・ロマーナ貿易製造安全な状態を作り出し遠方との関係における文化的な環境教育上の環境一様にした。このことが失われると、地元有力者の(時に新たにローマ化した支配階級外来文化新たな支配者支配に置き換わった。ガリア・アクィタニアガリア・ナルボネンシス南イタリアシチリアヒスパニア・バエティカや南スペインイベリア地中海沿岸では、ローマ文化6世紀7世紀まで続いた至る所徐々に経済的社会的連携基盤崩壊したことで益々視点地元化が齎された。この崩壊旅行商品運搬にとって安全でなくなったために迅速かつ劇的なものであり、輸出のための貿易製造において結果的に崩壊を齎した。大規模な陶器製造業のように貿易に頼る主要な産業は、イギリスのような場所でほぼ一夜にして消滅した。他の数か所の中心地同様にコーンウォールティンタジェルは、6世紀にかけて良く地中海の高級品の供給を何とか受けたが、その際貿易上の繋がり失った経営教育軍事的な基盤は、急速に消滅し新しクルスス・ホノルム失ったことで学校崩壊指導者の中でさえ文盲増えることになった。この時代初めカッシオドルス585年死去)や終わりアルクィン804年死去)の経歴は、貴重な読み書き能力同様に成り立っていた。 以前ローマ時代400年から600年の間に人口20%減少したり、150年から600年3分の1減少した8世紀貿易額青銅器時代以来最低水準であった8世紀地層から発見される難破船の数が非常に少ないことが、このことを支持している(1世紀地層難破船の数の2%以下であることを表している)。500年頃中心にした再植林農業後退もあった。年輪調べてみると、この現象急速な寒冷化の時代であったことと一致したローマ人一つ作物育てもう一つ休閑地にして雑草取り除くために鋤を入れるという二圃制農業実践していた。帝国制度徐々に崩壊したことで、所有者奴隷逃走止められず、農園制度崩壊した組織的な農業は、大きく損なわれ収穫量生きるのにギリギリ水準まで減少した。 ほぼ1000年わたってローマヨーロッパで最も政治的に重要で豊かで広大な都市であった紀元100年頃、人口は約45万人いた。中世前期には人口2万程度減り不規則に広がる都市広大な荒廃地や草木覆われ点在する住居群にした。 トゥールのグレゴリウス司教天然痘特徴的な所見述べた目撃者記述提供した581年頃まで、天然痘最終的に西ヨーロッパには入ってこなかった。繰り返す伝染病は、広大な農村人口一掃した。恐らく残った記録不足しているために、伝染病に関する詳細はほとんど失われている。 (ユスティニアヌスペスト英語版))で1億人が死亡した推定されている。ジョサイアC.ラッセル1958年のような歴史家は、541年から700年ヨーロッパ全人口の50%から60%が失われた示唆している。750年以降主な伝染病は、ヨーロッパで再び14世紀黒死病現れるまで現れなかった。

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