コンスタンティノープルの陥落とは? わかりやすく解説

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コンスタンティノープルの陥落

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 22:26 UTC 版)

コンスタンティノープルの陥落(コンスタンティノープルのかんらく、ギリシャ語: Άλωση της Κωνσταντινούποληςトルコ語: Konstantinopolis'in Düşüşü veya İstanbul'un Fehti)とは、1453年5月29日オスマン帝国メフメト2世によって東ローマ帝国首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)が陥落した事件である。この事件により東ローマ帝国は滅亡した。また、「ローマ帝国の滅亡」は476年西ローマ皇帝の廃止とするのが一般的ではあるが、この東ローマ帝国の滅亡がローマ帝国の滅亡であるとする識者も多い。


注釈

  1. ^ 1412年 - 1453年5月29日または6月7日。兄弟姉妹にスレイマン・チェレビ(1423年 - 1437年。1433年に姉ファーティマと共にカイロに避難)、ファーティマ・シェフザーデ(1422年 - 1455年7月にカイロで死去。フンド・シェフザーデとも。マムルーク朝のスルタン2人(アシュラフ・バルスバーイ(1437年5月に結婚。1438年に死別)とザーヒル・ジャクマク。ジャクマク(1439年に結婚。1449年3月26日に疫病で死去した4人の息子あり(長男アフメドは7歳で死去)。1450年12月25日に離婚)。サヒブ・アル=フジュジャブ・バルスバイ・ブジャシと3度目の結婚)の妻)とカディヤ。Harbour of Eleutheriusに住んでいた、メフメト2世の祖父メフメト1世の長兄スレイマン・チェレビ英語版(1377年 - 1411年2月17日。バヤズィト1世の次男。弟ムーサ―との戦いに敗れて殺された。学者によっては彼を「スレイマン1世」と数え、オスマン帝国第10代スルタンを「スレイマン2世」としている。なお、第20代スルタン(第10代スルタンの昆孫)も「スレイマン」であるが、この観点から見れば、「スレイマン3世」となる。2人の妻がおり、1人目はフュレーン・ハトゥン(1403年に結婚。ザビア・パレオロギナ(イザベラ)とその夫イラリオ・ドリアの娘)である。母ザビアが東ローマ皇帝マヌエル2世パレオロゴスの非嫡出子とはいえ娘である為、マヌエル2世パレオロゴスの孫娘の1人であり、パレオロゴス朝の血統に連なる。2人目はデスピナ・ハトゥン(1404年に結婚。マヌエル2世パレオロゴスの弟テオドロス1世パレオロゴスが名前が知られていない愛人との間に儲けた庶子)である)の孫でメフメト2世の20歳年長の又従兄(はとこ)にあたる。スレイマン・チェレビの長男シェフザーデ・オルハン・チェレビ(1395年 - 1429年。33歳~34歳没)とシェフザーデ・オルハン・チェレビの無名の妻(後に疎遠となり、1460年にカイロで死去)の息子で4人の息子(アリー・シャー、ジャハーン・シャー、ワリー・カーン、ブガ・カーン)の父親でもあった。オルハン王子の祖父スレイマン・チェレビには長男オルハン・チェレビ以外にも子2人がおり、次男シェフザーデ・メフメドシャー(ムハンマドとも。生年不明 - 1421年12月30日没。オルハン王子の父シェフザーデ・オルハン・チェレビは叔父ムーサ―もしくは同じく叔父のメフメト1世によって盲目となり、目が見えなくなった)と長女パシャメレク・ハトゥン(マリカとも。生没年不明。サンジャル・ベイという男性と結婚。子女の有無も不明)である。因みにスレイマン・チェレビの3人の子女はコンスタンティノープルで人質にとられた経歴を持つ。
  2. ^ この時の傷が元で陥落後に死亡。ヒオス島に埋葬される。コンスタンティノープル脱出の時期と状況については資料によって異なる。
  3. ^ しかし実際に目撃者がいても、この状況下で生きていられた可能性は低く、この逸話が事実であるか定かではない。
  4. ^ 「イスタンブール」という呼び名も当時から存在したが、オスマン語による正式名称は「コンスタンティニエ」であった。なお、公式に「イスタンブール」に改称されるのは1930年である。
  5. ^ キリスト教会からオスマン帝国によりモスクへ改修され、トルコ共和国が1935年に無宗教の博物館とした。

出典

  1. ^ 呉茂一・高津春繁(訳者代表)『世界名詩集大成 ①古代・中世編』平凡社、1960年、37-38頁が解説, 396-407頁が作品の訳、ともに梅田良忠による。
  2. ^ a b 世界文化遺産「アヤソフィア」宗教対立 揺れる融合の象徴/トルコ、モスクに戻す動き ギリシャ反発朝日新聞』朝刊2020年6月14日(国際面)同日閲覧
  3. ^ 中日新聞』2020年7月12日 国際面(11版4面)
  4. ^ a b Byzantine-Ottoman Wars: Fall of Constantinople and spurring "age of discovery"”. 2020年12月26日閲覧。
  5. ^ The Fall of Constantinople: A Turning Point in Modern History?”. 2020年12月26日閲覧。
  6. ^ a b Fall of Constantinople”. Encyclopædia Britannica. 2020年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月2日閲覧。



コンスタンティノープルの陥落

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コンスタンティノス11世パレオロゴス」の記事における「コンスタンティノープルの陥落」の解説

詳細は「コンスタンティノープルの陥落」を参照 1453年4月メフメト2世率い10万オスマン帝国軍コンスタンティノープル包囲したメフメトコンスタンティノポリス明け渡せば皇帝安全な退去財産補償、及びモレアス領有認めると提案したが、コンスタンティノスローマ皇帝として最後まで戦うことを選択しスルタン返答したコンスタンティノス率い東ローマ軍は2ヶ月にも渡って抵抗続けたが、1453年5月29日未明、ついにオスマン軍城壁突破コンスタンティノス大剣抜き払い皇帝きらびやかな衣装脱ぎ捨てると、「神よ帝国を失う皇帝許し給うな。都の陥落とともに、われ死なん。逃れんとするものを助け給え。死なんとするものはわれとともに戦い続けよ!」との演説の後、親衛隊とともに市中渦巻くオスマン軍中に姿を消して最後の抵抗試み消えゆく帝国運命を共にしたとされている。結局、彼は行方不明となって死亡正式に確認されわけではないコンスタンティノープル遂に陥落した。 こうして、アウグストゥス以来ローマ皇帝継承者絶え紀元前753年起源発するローマ帝国滅亡した

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