薔薇戦争とは? わかりやすく解説

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ばら‐せんそう〔‐センサウ〕【薔薇戦争】


薔薇戦争

作者菊地秀行

収載図書黄昏人の王国
出版社東京書籍
刊行年月2000.9


薔薇戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/27 02:30 UTC 版)

薔薇戦争(ばらせんそう、: Wars of the Roses)は、百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱であり、実状としては百年戦争の敗戦責任の押し付け合いが次代のイングランド王朝の執権争いへと発展したものと言える。 


注釈

  1. ^ a b 紋章ではなく使用人のお仕着せ(定服)やスタンダード(軍旗)に用いるシンボル。森(2000),p.274.
  2. ^ 対外平和主義のヘンリー6世は和平派と立場が一致しやすく、ヨーク公と対立するサフォーク公やサマセット公の影響力が増すことになった。青山他(1991),p.418-419.
  3. ^ a b サフォーク伯ウィリアム・ドゥ・ラ・ポールは1444年に侯爵、1448年には公爵に昇進している。
  4. ^ a b 「キングメーカー」の異名は同時代のものではなく、半世紀後のジョン・メージャーの『大英国史』(1521年)が初出である。森(2000),pp.275-276.
  5. ^ ワイズ(2001)(p.13.)による。両軍の兵力および犠牲者数は資料によって差異がある。
  6. ^ ウォリック伯はエドワード4世は母セシリー・ネヴィルの不義密通による私生児であり、クラレンス公こそがヨーク公リチャードの正統な血筋であるとの噂を流していた。この醜聞話はリチャード3世の簒奪時にも利用された。
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  7. ^ ヘンリー5世の死後にキャサリン・オブ・ヴァロワ(ヘンリー6世の母)とオウエン・テューダーが秘密結婚をして3男1女が生まれた。石井(2006),pp.12-13.
  8. ^ ヘンリー6世在位時の16家の大貴族のうち、無傷だったのはアランデル伯家とウェストモーランド伯家の2家のみだった。ワイズ(2001),pp.4-5.
  9. ^ 1590年代後半につくられた『リチャード二世』、『ヘンリー四世 第1部』、『ヘンリー四世 第2部』、『ヘンリー五世』は「第2・四部作」と呼ばれている。シェイクスピア大事典(2002),p.25,28.

出典

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薔薇戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/25 06:52 UTC 版)

ヘンリー6世 (イングランド王)」の記事における「薔薇戦争」の解説

だが、1454年クリスマスヘンリー6世正気取り戻すと事態は再びヨーク派不利に傾いた。ヘンリー6世サマセット公釈放させるヨーク派対す反動巻き起こり、翌1455年1月ヨーク公護国卿解任始めヨーク派官職追われ復帰したサマセット公権力振りかざしヨーク派政策否定される従来路線逆戻りした3月ヨーク公ソールズベリー伯らは自領へ引き上げたが、ヘンリー6世ヨーク派反逆罪に問うことを決意危機感抱いたヨーク派軍勢集めヘンリー6世サマセット公ランカスター派対抗して軍を増強、もはや内乱避けられなかった。 ヘンリー6世の治世下で実力増していた不平貴族達(最重要人物ネヴィル父子であった)は、ヘンリー6世対立するヨーク公要求始め摂政位、後に王位自体対す要求)を支持することで積極的に事態関与した。これら諸侯思惑交錯する中で5月に薔薇戦争は勃発した初戦5月22日第一次セント・オールバンズ戦いでランカスター派大敗ヘンリー6世捕らえられサマセット公ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー戦死したヨーク公はまだヘンリー6世支持表明していたため、戦後ヘンリー6世ヨーク派ロンドンへ連れ戻され11月ヨーク公護国卿再任されヨーク派政権再度成立したが、王妃マーガレットサマセット公代わり宮廷支配してヨーク公対立次の内乱向けて両者戦支度を整えていった。 1455年から1459年4年間は戦争がなかったが、それは両者妥協による不安定な政権運営成り立っていたからだった。ヨーク公1456年2月護国卿辞任したが、ヘンリー6世ヨーク派官職留任させ評議会出席も許すなど宥和当たったマーガレットはそうした中で宮廷コヴェントリー移動密かに支持貴族軍勢をかき集めヨーク公地方出向き紛争調停勢力拡大を図る中、ヘンリー6世次第無気力となり信仰捧げるようになっていった。 1459年王妃コヴェントリーへ軍を召集し身の危険感じたヨーク派離脱したことで戦端開かれたブロア・ヒースの戦い)。しばらく一進一退戦況だったが、1460年7月10日ノーサンプトンの戦いヘンリー6世ヨーク派捕らえられロンドンへ送られたが、マーガレット息子エドワードと共に抵抗続け12月30日ウェイクフィールドの戦いヨーク公ソールズベリー伯討ち取った。しかし2人の息子マーチ伯エドワード(後のエドワード4世)とウォリック伯生き残りランカスター派との戦い継続したこの内乱の中でヘンリー6世はしばしヨーク派捕らえられた。捕らわれの身の間にまたも彼の精神状態悪化しヨーク派捕らわれていた間の1461年2月第二次セント・オールバンズの戦いでは戦闘最中笑い出した歌ったりの錯乱発作襲われていた。この戦い勝利したマーガレットによりヘンリー6世救出されたが、先立つモーティマーズ・クロスの戦いランカスター派破ったマーチ伯ロンドンへ入城首都確保失敗したランカスター派北へ撤退した結局マーチ伯3月4日エドワード4世としてイングランド王即位しヘンリー6世実質的に退位させられた。 エドワード4世は続くタウトンの戦いスコットランド逃げた前国夫妻取り逃がしたものの、王位固めることはできた。エドワード4世治世当初ランカスター派は、マーガレットといまだ彼女に忠誠を誓う貴族たちによる指導体制イングランド北部ウェールズ抵抗運動続けていたが、1464年ヘクサムの戦いランカスター派抵抗潰され、翌1465年ヘンリー6世ランカシャーのクリザーロー(英語版)で捕えられ、ロンドン塔送られ監禁されてしまった。

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「薔薇戦争」を含む「ヘンリー6世 (イングランド王)」の記事については、「ヘンリー6世 (イングランド王)」の概要を参照ください。


薔薇戦争

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イングランド王国」の記事における「薔薇戦争」の解説

詳細は「薔薇戦争」を参照 百年戦争敗北後イングランド国内ヘンリー6世支持ランカスター派ヨーク公リチャード支持ヨーク派分かれて対立深めセント・オールバーンズの戦い (1455年)で両派間に火蓋切られ、薔薇戦争が始まった以後30年間、内戦イングランド国内でくり広げられる1459年ブロア・ヒースの戦い勝利し王位目前にしたヨーク公リチャードは、1460年ウェイクフィールドの戦い戦死したヨーク公リチャード嫡男エドワードセント・オールバーンズの戦い (1461年)勝利しヘンリー6世退位させて国王エドワード4世となり、ヨーク朝成立させた。しかし、1470年エドワード4世側近ウォリック伯リチャード・ネヴィル対立追放されヘンリー6世復位したエドワード4世1471年反撃してバーネットの戦いネヴィル討ち取りテュークスベリーの戦いランカスター派勝利して復位し王位息子エドワード5世継承したが、議会エドワード5世王位継承無効議決しエドワード5世叔父グロスター公リチャード推挙された。グロスター公リチャード3世としてイングランド王即位したランカスター派リッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、1485年ボズワースの戦いリチャード3世撃破しヘンリー7世として即位しテューダー朝成立したヘンリー7世1486年エドワード4世の娘でエドワード5世の姉エリザベス結婚しヨーク派取り込み進めたが、まだその支配は完全ではなくランバート・シムネルが「国王エドワード6世」を称しリチャード3世支持者味方して王位獲得の軍を起こす。しかしシムネルはストーク・フィールドの戦い敗れ捕らえられた。こうして薔薇戦争が終結した

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「薔薇戦争」を含む「イングランド王国」の記事については、「イングランド王国」の概要を参照ください。


薔薇戦争

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ヨーク朝」の記事における「薔薇戦争」の解説

財産爵位王位継承権揃っていたリチャード・プランタジネットであったが、王廷における主要なポスト与えられなかった。これは病弱な国王ヘンリー6世周辺、特にサマセット公エドムンド・ボーフォート王妃マーガレット・オブ・アンジュー方針だった。この頃からヨーク家ボーフォート家との対立深まりヘンリー6世病状悪化した1453年から1454年に、ごく短期間ヨーク公サマセット公失脚させ、護国卿になり国王後見人の座を勝ち取ったが、国王回復するとすぐにボーフォート家復権し、ヨーク公官職ことごとくサマセット公引き継いだ。 薔薇戦争は翌1455年第一次セント・オールバンズ戦いから始まりサマセット公討ち取ったヨーク公再度護国卿として政権担当した当初ヨーク公戦争目的国王周辺からランカスター派貴族一掃するにあったが、彼が自分自身王位継承権主張したのは1460年10月になってからである。この年ヨーク派7月ノーサンプトンの戦い国王ヘンリー6世生け捕りにしていた。だが勝利長く続かず12月ウェイクフィールドの戦い逆にヨーク公次男ラトランド伯エドマンド捕らえられ処刑された。 ヨーク公王位継承の志は長男エドワード継いだ母方従兄で後に『キングメーカー』と呼ばれるウォリック伯リチャード・ネヴィル支援受けたエドワードは、続くモーティマーズ・クロスの戦いランカスター派破り前途切り開いた。これに対応するためにヘンリー6世王妃マーガレット北部活動していた間に、ウォリック伯首都支配権得て1461年ロンドンエドワード国王であると宣言されるようにした。その間エドワードタウトンの戦い大勝し事実上ランカスター派軍を壊滅させ、王位決定的にした。

※この「薔薇戦争」の解説は、「ヨーク朝」の解説の一部です。
「薔薇戦争」を含む「ヨーク朝」の記事については、「ヨーク朝」の概要を参照ください。

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