ばら‐せんそう〔‐センサウ〕【薔薇戦争】
薔薇戦争
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薔薇戦争(ばらせんそう、英: Wars of the Roses)は、百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱であり、実状としては百年戦争の敗戦責任の押し付け合いが次代のイングランド王朝の執権争いへと発展したものと言える。
注釈
- ^ a b 紋章ではなく使用人のお仕着せ(定服)やスタンダード(軍旗)に用いるシンボル。森(2000),p.274.
- ^ 対外平和主義のヘンリー6世は和平派と立場が一致しやすく、ヨーク公と対立するサフォーク公やサマセット公の影響力が増すことになった。青山他(1991),p.418-419.
- ^ a b サフォーク伯ウィリアム・ドゥ・ラ・ポールは1444年に侯爵、1448年には公爵に昇進している。
- ^ a b 「キングメーカー」の異名は同時代のものではなく、半世紀後のジョン・メージャーの『大英国史』(1521年)が初出である。森(2000),pp.275-276.
- ^ ワイズ(2001)(p.13.)による。両軍の兵力および犠牲者数は資料によって差異がある。
- ^ ウォリック伯はエドワード4世は母セシリー・ネヴィルの不義密通による私生児であり、クラレンス公こそがヨーク公リチャードの正統な血筋であるとの噂を流していた。この醜聞話はリチャード3世の簒奪時にも利用された。
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- ^ ヘンリー6世在位時の16家の大貴族のうち、無傷だったのはアランデル伯家とウェストモーランド伯家の2家のみだった。ワイズ(2001),pp.4-5.
- ^ 1590年代後半につくられた『リチャード二世』、『ヘンリー四世 第1部』、『ヘンリー四世 第2部』、『ヘンリー五世』は「第2・四部作」と呼ばれている。シェイクスピア大事典(2002),p.25,28.
出典
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薔薇戦争
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「ヘンリー6世 (イングランド王)」の記事における「薔薇戦争」の解説
だが、1454年のクリスマスにヘンリー6世が正気を取り戻すと事態は再びヨーク派不利に傾いた。ヘンリー6世がサマセット公を釈放させるとヨーク派に対する反動が巻き起こり、翌1455年1月にヨーク公の護国卿解任を始めヨーク派が官職を追われ、復帰したサマセット公が権力を振りかざしヨーク派の政策が否定される従来の路線に逆戻りした。3月にヨーク公・ソールズベリー伯らは自領へ引き上げたが、ヘンリー6世はヨーク派を反逆罪に問うことを決意、危機感を抱いたヨーク派は軍勢を集め、ヘンリー6世・サマセット公らランカスター派も対抗して軍を増強、もはや内乱は避けられなかった。 ヘンリー6世の治世下で実力を増していた不平貴族達(最重要人物はネヴィル父子であった)は、ヘンリー6世と対立するヨーク公の要求(始めは摂政位、後に王位自体に対する要求)を支持することで積極的に事態に関与した。これら諸侯の思惑が交錯する中で5月に薔薇戦争は勃発した。 初戦の5月22日の第一次セント・オールバンズの戦いでランカスター派は大敗、ヘンリー6世は捕らえられ、サマセット公とノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーは戦死した。ヨーク公はまだヘンリー6世支持を表明していたため、戦後ヘンリー6世はヨーク派にロンドンへ連れ戻され、11月にヨーク公が護国卿に再任されヨーク派政権が再度成立したが、王妃マーガレットがサマセット公に代わり宮廷を支配してヨーク公と対立、次の内乱に向けて両者は戦支度を整えていった。 1455年から1459年の4年間は戦争がなかったが、それは両者の妥協による不安定な政権運営で成り立っていたからだった。ヨーク公は1456年2月に護国卿を辞任したが、ヘンリー6世はヨーク派の官職を留任させ評議会出席も許すなど宥和に当たった。マーガレットはそうした中で宮廷をコヴェントリーへ移動、密かに支持貴族や軍勢をかき集め、ヨーク公も地方へ出向き紛争調停で勢力拡大を図る中、ヘンリー6世は次第に無気力となり信仰に捧げるようになっていった。 1459年、王妃がコヴェントリーへ軍を召集し、身の危険を感じたヨーク派が離脱したことで戦端が開かれた(ブロア・ヒースの戦い)。しばらく一進一退の戦況だったが、1460年7月10日のノーサンプトンの戦いでヘンリー6世はヨーク派に捕らえられロンドンへ送られたが、マーガレットは息子エドワードと共に抵抗を続け、12月30日のウェイクフィールドの戦いでヨーク公・ソールズベリー伯を討ち取った。しかし2人の息子マーチ伯エドワード(後のエドワード4世)とウォリック伯は生き残りランカスター派との戦いを継続した。 この内乱の中でヘンリー6世はしばしばヨーク派に捕らえられた。捕らわれの身の間にまたも彼の精神状態は悪化し、ヨーク派に捕らわれていた間の1461年2月の第二次セント・オールバンズの戦いでは戦闘の最中に笑い出したり歌ったりの錯乱の発作に襲われていた。この戦いに勝利したマーガレットによりヘンリー6世は救出されたが、先立つモーティマーズ・クロスの戦いでランカスター派を破ったマーチ伯がロンドンへ入城、首都確保に失敗したランカスター派は北へ撤退した。結局マーチ伯が3月4日にエドワード4世としてイングランド王に即位し、ヘンリー6世は実質的に退位させられた。 エドワード4世は続くタウトンの戦いでスコットランドに逃げた前国王夫妻を取り逃がしたものの、王位を固めることはできた。エドワード4世治世の当初のランカスター派は、マーガレットといまだ彼女に忠誠を誓う貴族たちによる指導体制でイングランド北部とウェールズで抵抗運動を続けていたが、1464年のヘクサムの戦いでランカスター派は抵抗を潰され、翌1465年にヘンリー6世はランカシャーのクリザーロー(英語版)で捕えられ、ロンドン塔へ送られて監禁されてしまった。
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薔薇戦争
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詳細は「薔薇戦争」を参照 百年戦争の敗北後、イングランド国内はヘンリー6世支持のランカスター派とヨーク公リチャード支持のヨーク派に分かれて対立を深め、セント・オールバーンズの戦い (1455年)で両派間に火蓋が切られ、薔薇戦争が始まった。以後30年間、内戦がイングランド国内でくり広げられる。1459年のブロア・ヒースの戦いに勝利し、王位を目前にしたヨーク公リチャードは、1460年のウェイクフィールドの戦いで戦死した。 ヨーク公リチャードの嫡男エドワードはセント・オールバーンズの戦い (1461年)で勝利し、ヘンリー6世を退位させて国王エドワード4世となり、ヨーク朝を成立させた。しかし、1470年にエドワード4世は側近のウォリック伯リチャード・ネヴィルと対立・追放され、ヘンリー6世が復位した。エドワード4世は1471年に反撃してバーネットの戦いでネヴィルを討ち取り、テュークスベリーの戦いでランカスター派に勝利して復位し、王位は息子エドワード5世が継承したが、議会はエドワード5世の王位継承の無効を議決し、エドワード5世の叔父のグロスター公リチャードが推挙された。グロスター公はリチャード3世としてイングランド王に即位した。 ランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、1485年にボズワースの戦いでリチャード3世を撃破し、ヘンリー7世として即位し、テューダー朝が成立した。ヘンリー7世は1486年にエドワード4世の娘でエドワード5世の姉エリザベスと結婚し、ヨーク派の取り込みを進めたが、まだその支配は完全ではなく、ランバート・シムネルが「国王エドワード6世」を称し、リチャード3世の支持者が味方して王位獲得の軍を起こす。しかしシムネルはストーク・フィールドの戦いで敗れ、捕らえられた。こうして薔薇戦争が終結した。
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薔薇戦争
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財産、爵位、王位継承権が揃っていたリチャード・プランタジネットであったが、王廷における主要なポストは与えられなかった。これは病弱な国王ヘンリー6世の周辺、特にサマセット公エドムンド・ボーフォートと王妃マーガレット・オブ・アンジューの方針だった。この頃からヨーク家とボーフォート家との対立は深まり、ヘンリー6世の病状が悪化した1453年から1454年に、ごく短期間ヨーク公がサマセット公を失脚させ、護国卿になり国王の後見人の座を勝ち取ったが、国王が回復するとすぐにボーフォート家は復権し、ヨーク公の官職はことごとくサマセット公が引き継いだ。 薔薇戦争は翌1455年の第一次セント・オールバンズの戦いから始まり、サマセット公を討ち取ったヨーク公が再度護国卿として政権を担当した。当初ヨーク公の戦争目的は国王の周辺からランカスター派の貴族を一掃する事にあったが、彼が自分自身の王位継承権を主張したのは1460年10月になってからである。この年、ヨーク派は7月にノーサンプトンの戦いで国王ヘンリー6世を生け捕りにしていた。だが勝利は長くは続かず、12月のウェイクフィールドの戦いで逆にヨーク公と次男のラトランド伯エドマンドが捕らえられ、処刑された。 ヨーク公の王位継承の志は長男エドワードが継いだ。母方の従兄で後に『キングメーカー』と呼ばれるウォリック伯リチャード・ネヴィルの支援を受けたエドワードは、続くモーティマーズ・クロスの戦いでランカスター派を破り、前途を切り開いた。これに対応するためにヘンリー6世と王妃マーガレットが北部で活動していた間に、ウォリック伯は首都の支配権を得て、1461年にロンドンでエドワードが国王であると宣言されるようにした。その間にエドワードはタウトンの戦いで大勝して事実上ランカスター派軍を壊滅させ、王位を決定的にした。
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