ランカスター朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/20 08:47 UTC 版)
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ランカスター家 House of Lancaster |
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公爵 | |
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国 | ![]() |
領地 | イングランド |
主家 | プランタジネット家 |
当主称号 | |
創設 | 1267年 |
家祖 | エドマンド |
最後の当主 | ヘンリー・オブ・グロスモント |
現当主 | 男系は滅亡 |
滅亡 | 1361年 |
ランカスター家 House of Lancaster |
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王朝 | |
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国 | ![]() ![]() |
領地 | イングランド |
主家 | プランタジネット家 |
当主称号 | |
創設 | 1362年 |
家祖 | ジョン・オブ・ゴーント |
最後の当主 | ヘンリー6世 |
現当主 | 男系は滅亡 |
滅亡 | 1471年 |
分家 |

ランカスター朝(ランカスターちょう)は、中世イングランドの王朝。1399年から1461年まで、および1470年から1471年までの間、イングランドを統治した。
ランカスター家
ランカスター家(House of Lancaster)は、エドワード3世の四男ジョン・オブ・ゴーントに始まる、プランタジネット家の分家の一つである。家名はこの家系がジョン・オブ・ゴーント以来ランカスター公位を継承していたことによるものであるが、ジョンがこの公位を獲得したのは最初の結婚によってであり、その創設は1267年にヘンリー3世の次男エドマンドがランカスター伯に叙せられたことに始まる。
エドマンドの長男トマスは6つの伯を兼ね、イングランド最大の諸侯として影響力を強めたが、従弟のエドワード2世と対立した結果、所領を没収され刑死した。しかしトマスの弟ヘンリーの息子ヘンリー・オブ・グロスモントはエドワード3世の下、百年戦争で活躍し、1351年にランカスター公の称号を得た。ヘンリーには息子がなかったが、娘のブランシュがジョン・オブ・ゴーントと結婚し、ジョンがランカスター公となった。
ランカスター朝の成立と終焉
1399年にジョンが没すると、甥のイングランド王リチャード2世はランカスター公領を没収した。これに対しジョンの息子のヘンリー・ボリングブルックが反乱を起こし、同年にリチャード2世を廃位しヘンリー4世として即位し、ランカスター朝を創始した。
これに先立つ1385年、ジョンの弟エドマンド・オブ・ラングリーがヨーク公の称号を得てヨーク家を起こし、ランカスター家に対抗する勢力となった。
第2代のヘンリー5世は百年戦争で華々しい戦果を得たが、ヘンリー6世の時代にそれらは失われ、ヨーク家との間に薔薇戦争が勃発(1455年)、1461年にヘンリー6世はヨーク朝のエドワード4世に王位を奪われ、幽閉された。ヨーク朝の内紛によりヘンリー6世は1470年に復位したが、翌1471年に反撃に出たエドワード4世に捕らえられ、殺害された。その後ランカスター家は復活できず、1485年までヨーク朝がイングランドを支配した。
ヘンリー7世は母マーガレット・ボーフォートがランカスター家傍系のボーフォート家の出身であったことから王位継承権を主張し、ヨーク家のリチャード3世を攻め滅ぼし、エドワード4世の娘を后に迎えてテューダー朝を興した。
歴代国王
系図
- 凡例
関連項目
ランカスター朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 14:42 UTC 版)
「プリンス・オブ・ウェールズの羽根」の記事における「ランカスター朝」の解説
黒太子の弟、ランカスター朝の祖ジョン・オブ・ゴーントは複数の状況でダチョウの羽根を使用している。これにはエドワードの「平和の紋」と大変似たものも含まれる。羽根はアーミンである。エドワード黒太子の庶子サー・ロジェ・ドゥ・クラランドン(英語版)は「 黒地に黄金(オーア)のベント(右上から左下への襷掛けの帯)に3枚のアージェントのダチョウの羽根(Or, on a black bend, three ostrich feathers argent)」の紋章銘の紋章を帯びていた。そしてエドワード黒太子の次男でプランタジネット朝最後の王リチャード2世は複数の色のダチョウの羽根の徽章を使用していた。ジョン・オブ・ゴーントの長男でランカスター朝初代国王ヘンリー4世は一枚のダチョウの羽根に "Ma sovereyne"あるいは"Sovereygne"のモットーを記した帯を巻き付かせた徽章を使用し、ヘンリー4世の後を継いだ長男ヘンリー5世は様々な場面でもう一つの王室の徽章としてダチョウの羽根を使用していたし、次男のクラレンス公トーマスは「ラベルドされた一枚のアーミンのダチョウの羽根(an ermine ostrich feather labelled)」の徽章を使用していたし、三男のベッドフォード公ジョンは「"Sovereygne"のモットーが巻き付いた一枚のダチョウの羽根(an ostrich feather with the "Sovereygne" scroll)」徽章を使用していたし、四男のグロスター公ハンフリーは「フルール・ド・リスに差した一枚のダチョウの羽根(an ostrich feather studded with fleurs-de-lis)」の徽章を使用していた。同じような徽章は他の王族も使用していた。
※この「ランカスター朝」の解説は、「プリンス・オブ・ウェールズの羽根」の解説の一部です。
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固有名詞の分類
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