マーガレット・オブ・アンジュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/21 05:13 UTC 版)
マーガレット・オブ・アンジュー(Margaret of Anjou, 1429年3月23日 - 1482年8月25日[1])は、中世イングランドの貴族。ランカスター朝のイングランド王ヘンリー6世の王妃。エドワード・オブ・ウェストミンスターの母。フランス語名はマルグリット・ダンジュー(Marguerite d'Anjou)。薔薇戦争でランカスター派を率いて意志薄弱な夫と幼少の息子に代わり戦争を指揮、ヨーク朝に徹底抗戦したことで知られる。
- ^ 3月にフランスを訪問したサフォーク伯は交渉2か月でトゥール条約を締結、ヘンリー6世の名代としてマーガレットと代理結婚を挙げた。マーガレットは1445年に渡英し改めてヘンリー6世と正式に結婚、シュルーズベリー伯ジョン・タルボットからフランス語版装飾写本を献上され、英語の習得に努力しつつもサフォーク伯らと共にフランスとの協調を推進していった(ロイル、P181 - P182、P185)。
- ^ 和平派が行った抗戦派の弾圧にマーガレットも一枚加わっていたとされ、グロスター公の死亡も暗殺ではないかと疑われている(森、P217)。
- ^ 庶民は助命されたが、貴族は容赦なく処刑され、ヨーク公とソールズベリー伯を始め多くの親族も処刑され、首はヨークの城壁に晒された。ヨーク公の首に紙の王冠を被せ、屈辱的な罵声を浴びせる侮辱も行われた(ロイル、P251 - P252)。
- ^ 第二次セント・オールバンズの戦いでも戦後処理は苛烈に実行され、部下たちがマーガレットの処刑命令に躊躇するほどだったという。ランカスター派はただちにロンドンへ入ろうとしたが、スコットランド兵の略奪を恐れる市民に拒否され断念、ヨーク派がロンドンへ入城した(森、P225、川北、P128、ロイル、P259 - P262)。
- ^ Margaret of Anjou queen of England Encyclopædia Britannica
- ^ 森、P224。
- ^ 森、P216 - P217、尾野、P49 - P51、ロイル、P181 - P182。
- ^ 森、P217 - P219、P224、尾野、P51 - P54、川北、P123 - P124、ロイル、P182 - P192。
- ^ 森、P219 - P220、尾野、P108 - P116、川北、P124 - P126、ロイル、P193 - P218。
- ^ 森、P220 - P221、尾野、P116 - P120、川北、P126 - P127、ロイル、P219 - P233。
- ^ 森、P221 - P222、P224、尾野、P120 - P123、川北、P127 - P128、ロイル、P233 - P252。
- ^ 森、P222、P224 - P225、尾野、P123 - P131、川北、P128 - P130、ロイル、P253 - P271、P277 - P281。
- ^ 森、P222 - P223、川北、P130 - P132、尾野、P152 - P156、ロイル、P297 - P305。
- ^ 石井 2006, p. 19.
- ^ 森、P223 - P226、川北、P132、尾野、P156 - P163、ロイル、P307 - P322、P334 - P337。
- ^ 森、P225、ロイル、P227 - P229。
- ^ 石井 2006, p. 20.
- 1 マーガレット・オブ・アンジューとは
- 2 マーガレット・オブ・アンジューの概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
固有名詞の分類
イングランドの王妃 | メアリー・オブ・モデナ エリナー・オブ・プロヴァンス マーガレット・オブ・アンジュー エリザベス・オブ・ヨーク マティルダ・オブ・スコットランド |
ヴァロワ=アンジュー家 | ルイ2世・ダンジュー ルネ・ダンジュー シャルル4世・ダンジュー マーガレット・オブ・アンジュー マリー・ダンジュー |
- マーガレット・オブ・アンジューのページへのリンク