敗北、晩年
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日中戦争勝利後も、黄旭初は引き続き広西省政府主席の地位にあり、新広西派の地盤を確保することに専念した。国共内戦に際しては内戦の展開を支持し、1948年(民国37年)に李宗仁が副総統選挙に出馬すると、資金面でこれを支援している。しかし翌年10月、衡宝戦役で新広西派の主力である第7軍が人民解放軍に殲滅されると、新広西派の広西支配の崩壊が目前となった。翌月、李宗仁は香港へ逃亡する。黄も主席を罷免されたため、海南島に逃亡した。こうして黄による約18年の広西統治は、終結したのである。 まもなく黄旭初は香港に移住する。以後、張発奎とともに反共反蒋の第三勢力を標榜する政治活動を行った。1968年(民国57年)、一度は台湾を訪問して蒋介石に面会したが、結局香港に引き返した。 1975年11月18日、香港九竜にて病没。享年84(満83歳)。
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敗北、晩年
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「マーガレット・オブ・アンジュー」の記事における「敗北、晩年」の解説
1470年4月、エドワード4世とウォリック伯が仲違いを起こし、ウォリック伯とエドワード4世の弟のクラレンス公ジョージがフランスへ亡命する事件が起こった。政権転覆を狙うウォリック伯は、ランカスター派と手を組むことを考えマーガレットと接触、7月に両者は合意した。イングランドへ戻ったウォリック伯とクラレンス公がクーデターを起こし、エドワード4世はブルゴーニュへ逃れ、10月にヘンリー6世を復位させ、ウォリック伯はキングメーカーの異名を取った。だが、マーガレットは長年の仇敵だったウォリック伯を信用しておらず、イングランドへ上陸しようとしなかった上、政権の一員であるクラレンス公も王位継承問題で不満を抱え、状況次第では裏切る恐れがあり、政権は非常に脆弱だった。 翌1471年3月、巻き返したエドワード4世がブルゴーニュからイングランドへ帰国、4月3日にクラレンス公が寝返ると流れはエドワード4世に傾いた。11日にロンドンに入城したエドワード4世によりヘンリー6世は廃位され、政権は崩壊した。14日にはウォリック伯がバーネットの戦いでエドワード4世の軍に討ち取られた。2日後の16日にマーガレットは息子エドワードと共にイングランドへ上陸したが、5月4日のテュークスベリーの戦いでエドワードを処刑され、戦後に監禁されていたヘンリー6世も殺された。マーガレットはロンドン塔などに幽閉された後、1475年にルイ11世とエドワード4世の間でピキニー条約(英語版)が締結、ルイ11世が身代金を支払うことにより釈放され、フランスに帰国した。マーガレットの釈放には、王妃の称号の剥奪と寡婦財産の放棄という厳しい条件が付いていた。 1482年8月25日、53歳でアンジューで死去して葬られた。フランスへ戻った晩年の7年間は、アンジューにおける相続権をルイ11世に取り上げられ、貧困に苦しんだという。 薔薇戦争で戦争を指導した男勝りで積極的な性格が注目され「堂々として精力的な女性」と同時代人に証言されている反面、夫や息子の王位継承権を確保するため手段を選ばない姿勢が非難されている。しかし夫と同じく教育熱心でもあり、1448年にケンブリッジ大学クイーンズ・カレッジ(英語版)を創設、カレッジは変遷を経ながら現在に残されている。また、大陸から優れた毛織物工や絹織物工を招いて織物工業を向上させ、絹織物工の女性のギルドのパトロンとなり、貿易の促進にも注力していた。
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