敗北とアルマニャック派の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/16 14:29 UTC 版)
「アルマニャック家」の記事における「敗北とアルマニャック派の終焉」の解説
15世紀末、アルマニャック家は独立した権利(貨幣の鋳造など)を主張するようになり、ルイ11世の怒りを招いた。1473年、アルマニャック伯ジャン5世は、アルビ司教ジャン・ジュフロワ率いるフランス軍にレクトゥールで包囲され、殺害された。ジャン・ジュフロワは、妻ジャンヌ・ド・フォワの目の前でジャン5世を殺害し、略奪し放火してすべてを焼き尽くし、妻ジャンヌ(フォワ伯ガストン4世の娘)のみが生き延びた。ジャンヌは宝石類を奪われ、妊娠7か月であったにもかかわらずビュゼ=シュル=タルヌの城に引きずられていき投獄された。ルイ11世はアルマニャック家の断絶を命令し、ジュフロワ枢機卿は薬剤師と兵士に、ジャンヌに中絶薬を飲ませるよう指示した。1473年4月にジャンヌは死産し、ジャンヌは1476年2月10日に死去した。 ヌムール公ジャックおよびジャン5世の両方が、ルイ11世のアルマニャック家に対する復讐の標的であった。ジャックとジャン5世は、アルマニャック伯ベルナール7世の残された3人の男孫のうちの2人であった。 唯一残された男系子孫はフェザンサゲ子爵シャルル1世のみであった。シャルルは1425年生まれで1497年6月3日にカステルノー=ド=モンミラルにおいて後継者がないまま72歳で死去した。シャルルはとりわけ厄介な人物で、ルイ11世は1472年から1485年までの13年間シャルルを牢獄に監禁していた。ルイ11世によるアルマニャック家断絶後、アラン1世・ダルブレがアルマニャック伯領を占領した。
※この「敗北とアルマニャック派の終焉」の解説は、「アルマニャック家」の解説の一部です。
「敗北とアルマニャック派の終焉」を含む「アルマニャック家」の記事については、「アルマニャック家」の概要を参照ください。
- 敗北とアルマニャック派の終焉のページへのリンク