子爵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/06/06 14:25 UTC 版)
子爵(ししゃく、英: viscount [ˈvaɪkaʊnt])は、ヨーロッパの貴族・爵位体系における称号の一つであり、その日本語訳として用いられる語である。近世・近代の爵位体系では一般に伯爵の下位、男爵の上位に位置づけられ、日本でも華族制度において五爵の第4位として用いられた[3]。ただし、中世ヨーロッパにおける子爵は、もともと伯爵の代理人・補佐役に由来する場合が多く、後世の序列爵位としての子爵とは必ずしも同一の性格を有していなかった。
中世における子爵
ベジエ・アルビ・カルカソンヌ・ラゼスの子爵であり、中世南フランスにおける有力子爵家トランカヴェル家を代表する人物。
中世西欧における子爵(ラテン語: vicecomes、フランス語: vicomte)は、近世以降の爵位序列における子爵とは必ずしも同一の性格を持つものではない。近世以降の子爵が伯爵の下位爵位として序列化されたのに対し、中世の子爵は本来、伯(ラテン語: comes)の代理人・代行者として現れた職であり、地域や時代によって、伯の補佐官、都市の司法・警察官、辺境支配の担い手、あるいは有力な在地領主として、きわめて多様な性格を示した[4]。
起源と初期の性格
子爵の起源はカロリング朝期の地方統治に求められる。ラテン語: vicecomes は文字通りには「伯の代わりを務める者」を意味し、初期には伯の不在時に司法・軍事・行政を補佐する高位代理人として機能した。もっとも、こうした初期子爵は最初から明確な領域と結びついた存在ではなかった。
たとえばポワトゥーでは、9世紀にトゥアール(Thouars)の ラテン語: vicecomitatus や ラテン語: comitatus に見える語例があるが、これらは後世の補訂や、単なる地理的参照である可能性が高く、制度的に完成した「子爵領」の存在を示すものとは言いがたいとされる。ポワトゥーで最初に明確に確認できる子爵は、876年または885年の文書に現れる人物であり、その後、903年以降には Maingaudなる人物が がポンチュー伯 エブレ・マンゼールの側近として裁判や修道院関係文書に頻繁に現れる。これらの例は、初期の子爵がまず伯の主要な補佐役として現れたことを示している[5]。
ナルボンヌでは、さらに古い前史がみられる。8世紀末から9世紀にかけての文書には、ラテン語: vicecomes に先立って ラテン語: vicedominus が現れ、境界確定、宣誓聴取、裁判などに関与している。791/792年、821年、833年、852年の例では、これら ラテン語: vicedomini はナルボンヌ市内やその周辺領域において、明らかに公的・準公的な職務を行っていた。ナルボンヌの子爵制は、このような補佐的・代理的職務層から発展した可能性が高い[6]。
カタルーニャでも同様に、9世紀にはまず子爵が伯の周辺に現れるが、この段階では「どこの子爵か」という地理的限定を欠くことが多い。850年にジローナで確認されているエルミド( Ermidó )やラウール(Raul)、911年のオソナのエルマミール(Ermemir)、946年のバルセロナのギタール(Guitard) などは、いずれもまず伯の主要な代理人として活動していた。カタルーニャ辺境地域では伯の不在が常態化していたため、子爵は司法・軍事・外交など広範な権能を実地で担う必要があった[7]。
世襲化と子爵領の形成
多くの地域では、10世紀から11世紀にかけて子爵職がしだいに世襲化し、家門の地位・財産・名誉の一部となっていった。ただし、その過程は一律ではなく、また世襲化が直ちに明確な「子爵領」の成立を意味したわけでもない。
ポワトゥーでは、Maingaud の後に Aimeri、Cadelon、Adrald といった名の人物らが現れ、トゥアール、オルネー=スー=ボワ、シャテルロー などの子爵家が形成されていく。もっとも、著者Géraldine Damon は、ここでも子爵の配置は単なる行政区画の分割よりも、城郭・防衛線・交通路の掌握という軍事的論理に従っていたとみている。たとえば Melle にあった子爵権力の中心は、10世紀中にしだいにオルネーへ移り、子爵の配置も単なる行政区画の分割ではなく、防衛線や交通路の掌握といった軍事的事情に強く左右されていた。10世紀には子爵職の家産化が進むが、その継承形態はなお流動的で、父子の併存や兄弟継承(viage)も見られた[8]。
ナルボンヌでは、世襲化の証拠はさらに鮮明である。919年以降の文書には Eudes-Odon、Richildis、Vulveradus、Matfred、Adalais らの名が継続して現れ、ラテン語: vicecomitissa の称号も確認できる。これは子爵職が単なる一代の任官ではなく、家門の中で継承される地位であったことを示す。とりわけ重要なのは、990年の Adalaidis 子爵妃の第二遺言で、彼女の子ライムンドゥスが「ラテン語: ipsum vicecomitatum de Narbona seu Narbonense」(「ナルボンヌ、すなわちナルボンヌ地方の子爵領そのもの」)を継承していることである。ここでは ラテン語: vicecomitatus が、単なる抽象的職務ではなく、継承されうる権利・領域・名誉の複合体として現れている[9]。
カタルーニャでも、10世紀には子爵職の世襲化と地域的な基盤形成が進むが、その 結びつきはなお不完全であった。11世紀初頭になってようやく、Udalard(バルセロナ・1018年)、Amat(ジローナ・1019年)、Bermon(オソナ・1021年)らの称号に 地域名が明示されるようになる。しかし Henri Dolset は、実態としてはそれ以前から各子爵が特定の地域単位に結びついて活動していたと考えている。すなわち、子爵の地域的な基盤形成は史料上の明示より先に進行していたのである[10]。
北フランスにおける子爵
北フランスにおける子爵は、南フランスのように強力な在地領主へ発展した例が少なく、むしろ長く君侯権力に仕える行政・司法官としての性格を保った。Jean-François Nieus は、北フランスの子爵世界を「君侯権力に仕える役人たちの世界」と特徴づけている[11]。
アミアンでは、1090年代初頭の文書に子爵の権限を制限する規定が見える。そこでは子爵が盗みの裁判(ラテン語: furtum)と遺失物・発見物の処理(ラテン語: inventio)に関与していたことがわかり、都市とその周辺における司法・治安・財物処理の担い手であったことがうかがえる。テルアーヌでは、のちに クレックの領主ロベール1世に比定される Robertus vicecomes が1070年代から1090年代に確認される。その後代の和解文書から、重罪人の拘禁、裁判・刑の執行補助、フェア期間中の治安維持、発見物に対する権利などを有していたことがわかる[12]。
ポンチューでは、子爵制はより組織的・行政的であった。モントルイユ、アブヴィル、リュ、ドゥマール、ドゥ―ラ、カンシーなどの主要拠点ごとに子爵が置かれ、彼らは盗犯取締り、決闘統制、債務者の逮捕や差押え、市場監督などの司法・警察機能に加え、伯の収入徴収や現物・金銭地代の支払い管理といった財政機能も担った。これらはノルマンディー公国の子爵制度の強い影響下にあったと考えられている[13]。
このように北フランスの「子爵領」は、しばしば南フランスのような半独立的領域ではなく、行政区・収入区・司法区としての意味が強かった。
ポワトゥーにおける子爵
ポワトゥーは、伯の代理官としての子爵が、城郭・辺境管理を通じて有力な封建領主へ変化していく過程を観察するうえで、重要な地域である。初期の子爵たちは、エブル・マンゼル伯に近い Maingaud をはじめ、Aimeri、Cadelon、Adrald らが知られ、いずれも伯の裁判・教会・修道院文書に密接に関わっている[14]。
しかしポワトゥーの子爵配置は、viguerie のような行政単位と単純に一致せず、むしろトゥアール、オルネー、シャテルローなどの軍事的要衝や辺境線に根ざしていた。著者 Géraldine Damon は、これをノルマン人侵入や周辺勢力との対抗のための城郭的・軍事的論理として説明している。11世紀には、子爵位は明確に家門の財産・名誉の一部となり、トゥアール家では兄弟間継承(viage)が制度化する一方、正式に「子爵」と呼ばれるのはその時点の保持者に限られていた[15]。
11世紀になると、子爵はもはや単なる伯の代理官ではなく、ラテン語: honor、ラテン語: consuetudines、家臣団、城、教会を掌握する封建領主となる。匿名文書『fr:Conventum』では、シャテルローのボソン子爵の死後、その地位に付随する領土の帰属をめぐって公が介入しており、子爵職がすでに土地・利益・婚姻・忠誠関係の複合体となっていたことが示唆される。ラ・シェーズ=ル=ヴィコントの事例では、子爵家が城・教会・教区・軍役秩序を一体として組織し、自ら地域空間を創出していた[16]。
南フランスにおける子爵
南フランスでは、子爵は北フランスより早く世襲化・家産化し、場合によっては伯に準ずる広域権力へ成長した。ただし、その発展も直線的ではなく、他の子爵家、司教権力、在地貴族との競争の中で進んだ。
ナルボンヌ
ナルボンヌでは、上述のように ラテン語: vicedominus の段階を経て、10世紀前半までに世襲的な子爵家が成立した。Matfred、Raimond、Ermengardeらの家は、貨幣鋳造、印章使用、宮廷機構の整備を通じて、単なる下位貴族ではなく地方権力の担い手として振る舞った。ナルボンヌの貨幣には都市名 ラテン語: NARBONE CIV と子爵名が刻まれ、後には Ermengarde 子爵妃の貨幣も確認される。12世紀末から13世紀初頭には印章使用も一般化し、アモーリー3世などは騎馬像を刻んだ本格的な印章を用いた[17]。
ベジエ・アグド
ベジエとアグドでは、897年に確認される Rainardなる人物の頃の段階ではなお「ベジエ伯領内の子爵」にとどまっており、子爵職と子爵領の結びつきはまだ明確ではない。しかし10世紀末までには子爵職は世襲化し、11世紀には Garsinde やErmengardeたちの婚姻を通じて、ベジエ・アグドの子爵権力はカルカソンヌ、ラゼス、アルビ、ニームなどと結びつき、トランカヴェル家の広域家門支配の一部となった[18]。
ただしベジエ・アグドの子爵は、当初から独占的支配者であったわけではない。10世紀のベジエ周辺では、ナルボンヌ子爵家が鉱山・塩・交易路を含む重要資源帯に強く食い込み、司教座にも大きな影響力を持っていた。またロデーヴ子爵家とも財産的重なりがあった。11世紀後半以降、グレゴリウス改革を背景として司教・参事会が子爵支配から自立し、ベジエの都市支配は子爵と司教との二極構造となった[19]。
トランカヴェル家は伯号を名乗らなかったが、都市の鍵、印章、公証制度、交易路・市場・貨幣・城壁・裁判権など、伯に準ずる公的権能を保持し続けた。このことは、南フランスの子爵が近世的な序列爵位ではなく、しばしば「伯号を持たない準伯領主」として理解されるべきであることを示している[20]。
境界地域カタルーニャにおける子爵
カタルーニャ辺境の子爵制は、中世子爵のもう一つの重要な類型を示している。Henri Dolset は、ジローナ、バルセロナ、オソナ、タラゴナなどの子爵制を分析し、辺境(フランス語: frontière、フランス語: marche)が子爵に権力と正統性を与える一方、その成功がかえって子爵職本来の機能を空洞化したと論じている[21]。
初期の子爵は、伯の不在を埋める高位代理人として、司法・軍事・外交に従事した。都市では裁判、防衛、課税、市場管理に関わり、辺境では築城、植民、イスラーム勢力との戦争や交渉を担った。しかし11世紀に入ると、子爵職の家産化が進み、ラテン語: vicecomitatus はしだいに公的管轄権ではなく家紋の世襲的権威として理解されるようになった。その結果、子爵家は旧来の地方区分名ではなく、自らの主要城郭名(カルドナ家、La Guàrdia、カブレラ家など)を名乗るようになる[22]。
これは、子爵の中心が公的職務から家門的城郭支配へ移ったことを意味する。他方で、バルセロナ伯は11世紀後半以降、辺境城郭の直臣化、都市からの子爵排除、代官や家政長官の育成を通じて子爵を抑え込んだ。辺境拡張をうまく利用した カルドナ家やカブレラ家は繁栄したが、バルセロナ子爵家のように辺境地域の再編成に乗れなかった家は衰退し、ついには称号そのものを失った[23]。
このように、カタルーニャ辺境では子爵は辺境地域の必要から生まれ、それによって強まり、そしてその変化と中央権力の成長によって本来の公的機能を失っていった。
中世子爵の権力の特徴
以上の諸地域を総合すると、中世子爵の権力はおおむね以下の諸要素から成っていた。
- 伯爵不在時の代理・補佐
- 司法権(盗犯裁判、拘禁、刑執行、裁判補助)
- 警察・治安維持
- 徴税・市場監督・関税徴収
- 城郭防衛・軍事指揮・辺境植民
- 教会・司教座への介入
- 貨幣鋳造・印章使用・宮廷機構の形成
ただし、これらの要素の組み合わせと比重は地域差が大きい。北フランスでは行政・司法官としての性格が強く、ポワトゥーでは軍事的城郭権力と封建領主化が前面に出て、ナルボンヌやベジエでは貨幣・印章・都市支配を伴う地方君侯に近い権力となり、カタルーニャでは frontier 支配とその家産化が子爵制の中心問題となった[24][25][26][27][28][29]。
したがって、中世の大陸子爵は一律に伯爵の下位爵位として理解できるものではなく、伯の代理官から有力な在地領主に至るまで、地域に応じて多様な形態をとった制度的・政治的存在であった。
イングランドにおける子爵
イングランドにおける「子爵」に対応する語は、フランス諸地域の場合とは異なる経路をたどった。大陸では、カロリング期以来の子爵・副伯(vicecomes / vicomte)が伯の代理人として出発しつつ、10世紀から11世紀にかけて各地で世襲化・領主化していったのに対し、イングランドでは同語が主としてシェリフ(sheriff、州長官・代官)を指す官職名として用いられた。したがって、中世イングランドの vicecomes は、語源上は後世の英語 viscount に連なるものの、その実態はまず王権の地方官であり、大陸の世襲的・領主的な子爵とは必ずしも同一ではなかった[30]。
vicecomes と sheriff
中世イングランドでは、英語の sheriff はラテン語公文書において vicecomes と表記され、ノルマン・フランス語では vescunte と呼ばれた。これらの語は後の法律用語としての viscount に連なるため、語の上では中世の vicecomes と後世の子爵(viscount)のあいだに一定の連続性が認められる。しかし、この段階での vicecomes は、独立した世襲貴族位としての「子爵」ではなく、まずシャイア(shire)において王の権威を代表する地方官たる sheriff を意味していた。[31]
もっとも、イングランドの vicecomes をノルマンディー公国や南フランスにおける vicomte とそのまま同一視することはできない。ノルマン征服後、征服者たちは英語の sheriff とノルマンの vicomte のあいだに強い類似を認め、両者を対応させたとみられるが、ウィリアム1世はノルマンの職制をそのままイングランドへ移植したわけではなかった。イングランドのシェリフ職(shrievalty)の法的基盤はなおエドワード懺悔王期の制度にあり、郡(county / shire)の歴史や慣行も、ノルマン側の vicomte 制とはかなり異なっていた。したがって、イングランドにおける vicecomes は、伯の下位にある世襲的な地方貴族というより、旧来の州制度の上に立つ王の地方官として理解するのが適切である[31]。
また、ノルマン征服後には郡そのものが vicecomitatus(副伯管区・シェリフ管区)あるいは sheriffdom(シェリフ領・シェリフ管区)と呼ばれる例がみられるようになり、vicecomes は郡を統治する官職名としていっそう制度化された。ここでの vicecomes は、南フランスのように世襲的な子爵家の祖形として理解されるより、郡裁判・徴税・行政・治安維持を統合して担う王権の地方代表として把握されるべきである[32]。
ノルマン征服後の地方支配
ノルマン・コンクエスト直後、ウィリアム1世は直ちにすべての旧来の sheriff を排除したわけではなかった。自らをエドワード懺悔王の正統な継承者と位置づけていたこと、また征服直後の行政上の必要もあって、ハロルド・ゴドウィンソンに加担した者や積極的に抵抗した者を除き、一部のイングランド人シェリフはしばらく留任した。バークシャーの ゴドリック(Godric)、ケントのオズワルド (Osward)、ミドルセックス のエスガー (Esgar) などは失職したが、ウィルトシャーのエドリック (Edric)、サマセットのトフィグ (Tofig)、ウォリックシャーのエルウィン( Alwin)(またはエゼルウィン( Ethelwine))、リンカーンシャー のマルローズウィン( Marloswein )など、周辺地域では旧来の支配層がなお職を保っていたとされる。しかしこのような継続は一時的なものであり、1071年までにはイングランド人シェリフが残る例は稀となり、1068年までにはロンドン、ヨーク、さらにエクセターやウスターのような要衝にノルマン人シェリフが置かれていた[33]。
この変化の背景には、郡支配の構造そのものの変容があった。司教は教会裁判権の分離によって、従来のように郡裁判や州行政の中心に立ち続けることが難しくなった。また伯爵(earl)も急速に行政的意義を失った。『ドゥームズデイ・ブック』にはなお伯爵の権利や収入が記録されるが、実際にはケント や西北辺境の一部を除けば伯爵の存在感は弱くなっていた。ウェセックス伯領の王領収公、ゴドウィン家の没落、マーシア伯エドウィン・ノーサンブリア伯モーカーの失脚、1075年の伯爵反乱後の新伯家の後退などによって、伯爵は郡の行政・司法の中心から退いていった。もっとも、『ドゥームズデイ・ブック』はなお伯爵の権利や収入を記録しており、ダービー・ノッティンガム・リンカーンでは伯爵がなお存在するかのように扱われ、ヨークシャーでは王の平和の布告や追放者の召還に関わり、Worcester ではなお third penny(都市収入の3分の1取り分)が伯爵の権利として言及されている。したがって、伯爵の権威が直ちに消滅したわけではなく、一定の収入権・名目的権限はなお残存していた[34]。
しかし、一般の州においてはシェリフの伯への従属はしだいに終わり、third penny も多くの場合には伯爵の手から王の手へ移り、さらに場合によっては シェリフに再付与された。1075年以後には、例外的なパラティン伯領を除き、伯爵は原則として州行政官ではなくなったとみなされる。ただし、チェスター・ダラム、シュロップシャー、ヘレフォードシャー(短期間)、コーンウォール伯などでは、なおシェリフが伯または司教の下に置かれる場合が依然として存在していた。たとえばシュロップシャーではロジャー伯が 都市・王領地・荘園・州および百人区裁判の収入の請負上納額を納め、当地の シェリフはロジャー伯の役人であり、ヘレフォードではウィリアム・フィッツオズバーン伯が、コーンウォールではロベール伯がロジャー伯と同様の役割を果たしていた[34]。
このような例外を除けば、公的司法と平和維持は伯ではなくシェリフが担い、伯爵の軍事的州長としての地位も終わった。こうして11世紀後半には、郡は vicecomitatus(副伯管区)あるいは sheriffdom (シェリフ管区)とも呼ばれるようになり、シェリフは州の唯一の実質的首長として立つに至った[32]。
その結果、シェリフは郡における「唯一の実質的首長」として台頭した。彼は郡裁判(en:shire court)と百人区裁判(en:hundred court)を主宰し、公的司法の実施、国王の平和(king's peace)の維持、王命や布告の伝達、徴税と王領収入の確保などを担った。Morris は、初期ノルマン期におけるシェリフの司法的地位をとくに重視し、通常の地方司法はほぼシェリフの統制下にあり、教会裁判が分離した後の俗事については、例外的な重大事件を除きシェリフが事実上の「司法」そのものであったとみなしている[35]。
またシェリフの下には ministri(下僚・部下)、Reeves(荘園・村落・百人区などの管理官)が属し、王領地や百人区の収入徴収もその統制下に置かれていた。王領マナー(manor)に置かれた king's reeve(王の管理官)ですら、実際にはシェリフの下位にあったと考えられる。都市の praepositus(市政長官・都市管理官)も、多くの場合シェリフ の従属下にあったとされ、郡・百人区・王領・都市をつなぐ地方行政機構の頂点に シェリフが立っていた[36]。
財政面でもシェリフの役割は大きかった。彼は郡の farm(一定額を国王に納めることを前提とした収入請負)、王領地の経営、地方訴訟収入の徴収に関わり、その利益は相当大きかったと考えられる。利益の源泉は単純な租税だけではなく、王領地の収益、地方裁判の収入、付随的な諸収入や職務上の特権など、複数の要素から成っていた。Morris は、デーンゲルドがシェリフの最大利益源であったとする見方を退け、むしろ王領地経営と地方訴訟収入のほうが大きな利幅をもたらした可能性を示している[37]。
さらにシェリフには、職務期間中のみ保持する土地や、reeveland(管理官職に付属する土地)、一定の金銭収入など、官職に付随する利得もあった。これらは義務を伴うとはいえシェリフの収益を増大させるものであり、彼を単なる行政官ではなく、王権と結びついた地方の有力経営者にしていた[37]。
また、その権限は軍事面にも及んだ。エドワード懺悔王期以来、シェリフは州の徴発兵(en:shire levy)や都市負担兵を率いる役目を持っていたが、ノルマン征服後にもその伝統は続いた。ウスターのシェリフであるアーズ・ダベトーは1074年の反乱鎮圧に際し一般徴発軍を率いた可能性が高く、サフォークのシェリフであったロバート・マレも1075年のイーストアングリアにおける反乱鎮圧に参加したとされる[38]。
加えて、初期のシェリフはしばしば王の城の保管者でもあった。ウィリアム・マレはヨーク城を保持して1069年にデーン軍の攻撃から防衛し、ウルスはウスター城の建設者・管理者であった。エクセター城でも Baldwin 家に同様の傾向がみられる。もっとも、すべてのシェリフが常に城代(custos castelli)であったわけではなく、シェリフ職と城の管理権が結合する場合もあれば、そうでない場合もあった[39]。
ノルマン征服後のシェリフは、その社会的地位においても注目される。『ドゥームズデイ・ブック』成立前後に確認できるシェリフたちは、ほとんどが国王直属の封臣(en:tenants-in-chief)であり、複数州にわたる所領を持つ有力バロンであった。彼らの一部は王廷家政職や キュリア・レジス(curia regis(国王評議会))に関わり、地方官でありながら中央政治にも深く結びついていた。数世代以内に伯爵へ昇った家系もあり、地域によってはシェリフがその州で最大級の実力者であった[40]。
このように、ノルマン征服後のイングランドでは、司教と伯の後退によって シェリフが州の唯一の実質的首長となり、王権の地方支配を支える最重要の機構へと成長した。そこでは vicecomes とは、伯の補佐役としての「副伯」というより、強い王権を背景として州統治を集中的に担う地方官を意味していたのである[32]。
爵位としての子爵への転化の遅れ
このようにイングランドにおける vicecomes は、王権の地方官として著しく発達したが、それがそのまま南フランス型の世襲子爵家へ転化したわけではなかった。確かにノルマン期のシェリフ職には一定の世襲傾向が認められる。グロスターシャーではロジャー・ド・ピトルの一族、ウスターシャーではアーズ・ダベトーの一族が複数代にわたってシェリフを輩出し、デヴォンではボールドウィン・フィッツギルバートの子らが後継者となった。スウェイン(ロバート・フィッツウィマークの息子)やTurchil of Warwickshire(エルフウィンの息子) のように、比較的早い段階から世襲シェリフとみなしうる例もある。これらの家門では、シェリフ職が城の管理権や地方での有力所領と結びつき、その意味では一部に「領主化」の傾向がみられた[41]。
しかし、このような世襲的 shrievalty(シェリフ職の世襲化)の実例は限られていた。Morris 自身、こうした例は「よく知られてはいるが多くはない」としており、実際には大多数の州でシェリフは終身・世襲の職ではなく、より頻繁に交代し、複数州兼任も多くは短期にとどまった[42]。
王権はシェリフの強大化を利用しつつも、それが独立的な地方世襲権力として固定化することを警戒していた。とくにスティーブン王時代にジェフリー・ド・マンデヴィルが祖父以来の三つのシェリフ職を再獲得した事例は、そのような権力集中がすでに国家への脅威とみなされうる段階に達していたことを示している[43]。
また、ウィリアム2世からヘンリー1世にかけては、ヒュー・ド・ボックランドのような「新しい人材」(new men)を登用し、旧来の有力シェリフ層を牽制する動きもみられた。これは、イングランド王権がシェリフを完全な地方世襲権力へ育て上げることを望まず、必要に応じて新興の宮廷官人を投入し、職の集中や家門化を抑えようとしたことを示している[44]。
この点で、イングランドの vicecomes は南フランスの子爵と明確に異なる。南フランスでは、副伯がしだいに世襲化し、伯権の分解のなかで独立的な子爵家・子爵領へと発展していったのに対し、イングランドではシェリフは王の裁判、王の収入、王の命令、王の城と不可分であり続けた。その利得は大きく、郡の farm、王領経営、地方訴訟収入などを通じて相当の利益を生んだが、それゆえにこそ職はつねに王権との結びつきのなかに置かれた。こうしたシェリフは、ときに貪欲で抑圧的であり、農民や修道院にとっては恐るべき存在であったが、同時に封建的無秩序の担い手ではなく、むしろ強い王権の地方的支柱でもあった[45]。
したがって、中世イングランドにおける vicecomes の歴史は、フランス諸地域における子爵家形成の歴史とは別系統の発展として理解されるべきである。イングランドでは vicecomes はまずシェリフとして州司法・行政・財政・軍事を担う王の地方官として展開し、その一部に世襲化や家門化の傾向がみられたにとどまった。後世の正式な爵位としての viscount は、この中世のシェリフ職と語源上は連続しつつも、制度史的にはかなり距離をおいて成立したものとみるのが妥当である[46]。
イギリスの子爵(Viscount)
ノルマン・コンクエスト後のイングランドでは、上述の通り、ノルマン人支配層のもとで大陸的な貴族制度が本格的に展開した[47]。もっとも、中世イングランドにおける vicecomes が主としてシェリフ職を意味したのに対し、近世以降の子爵(Viscount)は正式な貴族爵位として制度化された称号である。
イギリスにおいて子爵(Viscount)は五爵の一つであり、伯爵と男爵の中間に位置する。イングランドにおける正式な子爵位の創設は比較的遅く、1440年に第6代ボーモント男爵ジョン・ボーモントにボーモント子爵位が授けられたのが最初である。[48]
イングランド王国、スコットランド王国、アイルランド王国それぞれに貴族制度があり、それぞれをイングランド貴族、スコットランド貴族、アイルランド貴族という。イングランド王国とスコットランド王国がグレートブリテン王国として統合された後は新設爵位はグレートブリテン貴族として創設されるようになり、イングランド貴族・スコットランド貴族の爵位は新設されなくなった。さらにグレートブリテン王国とアイルランド王国がグレートブリテンおよびアイルランド連合王国として統合された後には新設爵位は連合王国貴族として創設されるようになり、グレートブリテン貴族とアイルランド貴族の爵位は新設されなくなった。イングランド貴族、スコットランド貴族、グレートブリテン貴族、アイルランド貴族、連合王国貴族いずれにおいても子爵位は第4位として存在する。スコットランド貴族以外の子爵位は他の爵位と違って爵位名にofがつかないという特徴がある(例えばヘレフォード子爵は「Viscount Hereford」であり「Viscount of Hereford」ではない)。
五爵のうち最上位の公爵のみ「閣下(Your Grace)」で、侯爵以降の貴族は全て「卿(Lord)」と尊称される[49]。子爵の息子及び娘にはHonorable(オナラブル)が敬称として付けられる。
英国貴族の爵位は終身であり、原則として生前に爵位を譲ることはできない。爵位保有者が死亡した時にその爵位に定められた継承方法に従って爵位継承が行われ、爵位保有者が自分で継承者を決めることはできない。かつては爵位継承を拒否することもできなかったが、1963年の貴族法制定以降は爵位継承から1年以内(未成年の貴族は成人後1年以内)であれば自分一代に限り爵位を放棄して平民になることが可能となった[50]。
有爵者は貴族院議員になりえる。かつては原則として全世襲貴族が貴族院議員になったが(ただし女性世襲貴族は1963年貴族法制定まで貴族院議員にならなかった。また1963年までスコットランド貴族とアイルランド貴族は貴族代表議員に選ばれた者以外議席を有さなかった。アイルランド貴族の貴族代表議員制度は1922年のアイルランド独立の際に終わり、スコットランド貴族は1963年貴族法によって全員が貴族院議員に列した)、1999年以降は世襲貴族枠の貴族院議員数は92議席に限定されている。貴族院の活動において爵位の等級に重要性はない[51]。
現存する子爵家
イングランド貴族
スコットランド貴族
フォークランド子爵 (1620年) ケーリー家
アーバスノット子爵 (1641年) アーバスノット家
オックスファード子爵 (1651年) マクギル家
グレートブリテン貴族
アイルランド貴族
ゴーマンストン子爵 (1478年) プレストン家
マウントガーレット子爵 (1550年) バトラー家
ヴァレンティア子爵 (1622年) アンズリー家
ディロン子爵 (1622年) ディロン家
マッセリーン子爵 (1660年)/フェラード子爵 (1797年) スケッフィントン家
チャールモント子爵 (1665年) コールフィールド家
ダウン子爵 (1680年) ドーネイ家
モールズワース子爵 (1716年) モールスワース家
チェットウィンド子爵 (1717年) チェットウィンド家
ミドルトン子爵 (1717年) ブロドリック家
ボイン子爵 (1717年) ハミルトン=ラッセル家
ゲージ子爵 (1720年) ゲージ家
ゴールウェイ子爵 (1727年) モンクトン=アランデル家
ポーズコート子爵 (1744年) ウィンフィールド家
アシュブルック子爵 (1751年) フラワー家
サゼル子爵 (1776年) サゼル家
ド・ヴェシー子爵 (1776年) ヴィジー家
リフォード子爵 (1781年) ヒューイット家
バンガー子爵 (1781年) ウォード家
ドナラル子爵 (1785年) セント・レジャー家
ハーバートン子爵 (1791年) ポメロイ家
ハワーデン子爵 (1793年) モード家
マンク子爵 (1801年1月) マンク家
ゴート子爵 (1816年) ヴェレカー家
連合王国貴族
セント・ヴィンセント子爵 (1801) ジャービス家
メルヴィル子爵 (1802) ダンダス家
シドマス子爵 (1805年) アディントン家
エクスマス子爵 (1816) ペルー家
コンバーミア子爵 (1827) ステイプルトン=コットン家
ヒル子爵 (1842) クレッグ=ヒル家
ハーディング子爵 (1846) ハーディング家
ゴフ子爵 (1849年) ゴフ家
ブリッドポート子爵 (1868) ネルソン・フッド家
ポートマン子爵 (1873) ポートマン家
ハムデン子爵 (1884) ブランド家
ハンブルデン子爵 (1891) スミス家
ナッツフォード子爵 (1895) ホランド=ヒバート家
イーシャー子爵 (1897) ブレット家
ゴッシェン子爵 (1900年) ゴッシェン家
リドレー子爵 (1900) リドレー家
クーロスのコルヴィル子爵 (1902) コルヴィル家
セルビー子爵 (1905) ガリー家
ノールズ子爵 (1911) ノールズ家
アレンデール子爵 (1911) ボーモント家
チルストン子爵 (1911)エイカーズ=ダグラス家
スカーズデール子爵 (1911) カーゾン家
マージー子爵 (1916) ビンガム家
カウドレー子爵 (1917) ピアソン家
デヴォンポート子爵 (1917) キアリー家
アスター子爵 (1917) アスター家
ウィンボーン子爵 (1918) ゲスト家
セント・デイヴィッズ子爵 (1918) フィリップス家
ロザミア子爵 (1919) ハームズワース家
アレンビー子爵 (1919) アレンビー家
チェルムスファド子爵 (1921) セシジャー家
ロング子爵 (1921) ロング家
アルスウォーター子爵 (1921) ラウザー家
レッキーのヤンガー子爵 (1923) ヤンガー家
ベアーステッド子爵 (1925) サミュエル家
クレイガヴォン子爵 (1927) クレイグ家
ブリッジマン子爵 (1929) ブリッジマン家
ヘイルシャム子爵 (1929) ホッグ家
ブレントフォード子爵 (1929) ジョインソン=ヒックス家
バックマスター子爵 (1932) バックマスター家
ブレディスロー子爵 (1935) バサースト家
ハンワース子爵 (1936) ポロック家
トレンチャード子爵 (1936) トレンチャード家
サミュエル子爵 (1937) サミュエル家
ドックスフォードのランシマン子爵 (1937) ランシマン家
デイヴィッドソン子爵 (1937) デイヴィッドソン家
ウィアー子爵 (1938) ウィアー家
カルデコート子爵 (1939) インスキップ家
キャムローズ子爵 (1941) ベリー家
スタンズゲート子爵 (1942) ベン家
マーゲッソン子爵 (1942) マーゲッソン家
ダヴェントリー子爵 (1943) フィッツロイ家
アディソン子爵 (1945) アディソン家
ケムズリー子爵 (1945) ベリー家
マーチウッド子爵 (1945) ペニー家
アラメインのモントゴメリー子爵 (1946) モントゴメリー家
ウェイヴァーリー子爵 (1952) アンダーソン家
サーソー子爵 (1952) シンクレアー家
ブルックバラ子爵 (1952) ブルック家
ノリッジ子爵 (1952) クーパー家
レザーズ子爵 (1954) レザーズ家
ソウルベリー子爵 (1954) ラムザバザム家
シャンドス子爵 (1954) リトルトン家
マルバーン子爵 (1955) ハギンズ家
ド・リール子爵 (1956) シドニー家
ブレンチリーのモンクトン子爵 (1957) モンクトン家
テンビー子爵 (1957) ロイド・ジョージ家
ハリファックスのマッキントッシュ子爵 (1957) マッキントッシュ家
ダンロッシル子爵 (1959) モリソン家
フィンドホーンのステュアート子爵 (1959) ステュアート家
ロッチデール子爵 (1960) ケンプ家
スリム子爵 (1960) スリム家
ヘッド子爵 (1960) ヘッド家
マートンのボイド子爵 (1960) レノックス=ボイド家
ミルズ子爵 (1962) ミルズ家
ブレイクナム子爵 (1963) ヘア家
エクルズ子爵 (1964)エクルズ家ディルホーン子爵 (1964) マニンガム=ブラー家
伯爵以上の貴族が従属爵位として持つ子爵位
- アーレイ子爵(レディング侯爵)
- アンバーレイ子爵(ラッセル伯爵)
- イプスウィッチ子爵(グラフトン公爵)
- インヴァーカイシング子爵(ローズベリー伯爵)
- ヴィリアーズ子爵(ジャージー伯爵)
- ウォルマー子爵(セルボーン伯爵)
- エリントン子爵(クローマー伯爵)
- オールトラップ子爵(スペンサー伯爵)
- カスルリー子爵(ビュート侯爵)
- キャルネ及びキャルストン子爵(ランズダウン侯爵)
- グウィネズ子爵(ドワイフォーのロイド=ジョージ伯爵)
- クランボーン子爵(ソールズベリー侯爵)
- クランモーリス子爵(ランズダウン侯爵)
- クローマー子爵(クローマー伯爵)
- ゴードン子爵(アバディーン=テメイア侯爵)
- ストラバーン子爵(アバコーン公爵)
- スペンサー子爵(スペンサー伯爵)
- ダンダフ子爵(モントローズ公爵)
- チャムリー子爵(チャムリー侯爵)
- トレンタム子爵(サザーランド公爵)
- ハーウィック子爵(グレイ伯爵)
- ハリファックス子爵(ハリファックス伯爵)
- フィッツモーリス子爵(ランズダウン侯爵)
- フォーマーティーン子爵(アバディーン=テメイア侯爵)
- プレストウッド子爵(アトリー伯爵)
- ベルグレイヴ子爵(ウェストミンスター公爵)
- マクミラン子爵(ストックトン伯爵)
- マルパス子爵(チャムリー侯爵)
- メルガンド子爵(ミントー伯爵)
- メントモア子爵(ローズベリー伯爵)
- モーペスのハワード子爵(カーライル伯爵)
- ローズベリー子爵(ローズベリー伯爵)
- ロチェスター子爵(サマセット公爵)
- ロッコウ=グレニーレ子爵(アーガイル公爵)
廃絶した子爵位
スペインの子爵
王室の称号プリンシペ(Príncipe)を除けば、スペイン貴族の階級には上からDuque(公爵)、Marqués(侯爵)、Conde(伯爵)、Vizconde(子爵)、 Barón(男爵)、Señor(領主)の6階級があり、子爵は第4位である[52][53]。爵位の大半は伯爵以上であり、子爵以下は数が少ない[52]。子爵位にはグランデの格式が伴う物と伴わない物がある。グランデの格式を伴う爵位保有者はExcelentísimo Señor (男性) Excelentísima Señora (女性)の敬称で呼ばれ、グランデの格式がない爵位保有者はIlustrísimo Señor (男性) Ilustrísima Señora(女性)の敬称で呼ばれる[53]。
伯爵以上の貴族の長男は他の称号を持たない場合には親の称号に由来する地名の子爵位を爵位の継承まで名乗ることができる[53]。貴族称号の放棄も可能だが、他の継承資格者の権利を害することはできず、また直接の相続人以外から継承者を指名することはできない[53]。貴族称号保持者が死去した場合、その相続人は1年以内に法務省に継承を請願する必要があり、もし2年以内に請願が行われなかった場合は受爵者が死亡した場所の州政府が政府広報で発表した後、他の承継人に継承の道が開かれる[53]。爵位の継承には所定の料金がかかる[53]。
歴史的にはスペインの前身であるカスティーリャ王国、アラゴン連合王国、ナバーラ王国にそれぞれ爵位貴族制度があり[54]、17世紀のカスティーリャの貴族の爵位は公爵、侯爵、伯爵に限られ、この三爵位の次期候補者がまれに子爵を使っていた[55]。1520年までカスティーリャの爵位貴族は35名しかいなかったが、フェリペ3世時代以降に爵位貴族が急増した[55]。
1931年の革命で王位が廃されて第二共和政になった際に貴族制度が廃止されたことがあるが[56]、1948年に総統フランシスコ・フランコが貴族制度を復活させ[53][57]、国王による授爵と同じ規則のもとにフランコが授爵を行うようになった[53]。王政復古後は再び国王が授爵を行っている。
現存する子爵位
スペイン貴族には現在141個の子爵位が存在し、うち2個がグランデの格式を有する。
日本の子爵
華族の子爵
旧暦明治2年6月17日(1869年7月25日)の行政官達542号において公家と武家の最上層たる大名家を「皇室の藩屏」として統合した華族身分が誕生した[58][59]。当初は華族内において序列を付けるような制度は存在しなかったが、華族身分設置当初から華族内の序列付けをしようという意見があり、様々な華族等級案が提起されたが、最終的には法制局大書記官の尾崎三良と同少書記官の桜井能監が新暦1878年(明治11年)に提案した上記の古代中国の官制に由来する公侯伯子男からなる五爵制が採用された[60]。
1884年(明治17年)5月頃に賞勲局総裁柳原前光らによって各家の叙爵基準となる叙爵内規が定められ[61]、従来の華族(旧華族)に加えて勲功者や臣籍降下した皇族も叙爵対象に加わり[62]、同年7月7日に発せられた華族令[63][注釈 1](明治17年宮内省達、明治40年皇室令第2号)と華族授爵ノ詔勅[64]により、五爵制に基づく華族制度の運用が開始された。なおこの際に旧華族にあった終身華族(一代限りの華族)の制度は廃止され、華族はすべて世襲制となった[65]。
子爵は公爵、侯爵、伯爵に次ぐ第4位(正従三位[66])に位置づけられた。男爵の上位である。叙爵内規では子爵の叙爵基準について「一新前家ヲ起シタル旧堂上 旧小藩知事即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家 国家二勲功アル者」と定めていた[67]。
子爵家の数は1884年時点では324家(華族家の総数509家)、1902年時点では362家(同789家)、1920年時点では381家(同947家)と漸次増えていったが、これをピークとして、1947年時点では351家(同889家)に減っていた[68]。制度発足時の1884年の段階では子爵家は華族全体の63.7%を占め、男爵家よりもはるかに数が多かったが、その後男爵が急増し、1907年になって子爵家と男爵家の数が同数に並び、この後は男爵家の方が多くなり、上に行くほど少なく下に行くほど多いという綺麗なピラミッド構造となった[69]。
宮中女官は伯爵以下の華族の娘が務めることが多かった。近代前、宮中女官は平堂上の公家の娘が務めており(摂家・清華家・大臣家の娘は女官にはならなかった)、明治後に平堂上に相当する家格が伯爵家・子爵家だったため伯爵以下の娘たちがやっていた[70]。女官には典侍、掌侍、命婦、女嬬といった序列があり、例外もあるが基本的に人事は出身家の爵位で決まり、伯爵家の娘が上位の役職に就き、子爵家・男爵家の娘は下位の役職に配置されるのが普通だった[71]。
1886年(明治19年)の華族世襲財産法により華族は差押ができない世襲財産を設定できた。世襲財産は土地と公債証書等であり、毎年500円以上の純利益を生ずる財産は宮内大臣が管理する。全ての華族が世襲財産を設定したわけではなく、明治42年時点では世襲財産を設定していた華族はわずかに26%にすぎない[72]。
旧公家華族は経済的に困窮している家が多かったことから、1894年(明治27年)には明治天皇の結婚25周年記念で「旧堂上華族恵恤賜金」が作られ、その利子が旧公家華族に支給されることになった[73]。配分は公侯爵が3、伯爵が2、子爵が1という割合で年間支給額では公侯爵が1800円、伯爵1200円、子爵600円だった[74]。
1907年(明治40年)の華族令改正により襲爵のためには相続人が6か月以内に宮内大臣に相続の届け出をすることが必要となり、これによりその期間内に届け出をしないことによって襲爵を放棄することができるようになった。ただしこれ以前にも爵位を返上する事例はあった[75]。
1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法第14条(法の下の平等)において「華族その他の貴族の制度は、これを認めない。」と定められたことにより子爵位を含めた華族制度は廃止された。
貴族院における子爵
1889年(明治22年)の貴族院令により貴族院議員の種別として華族議員が設けられた(ほかに皇族議員と勅任議員がある)[76]。華族議員は公侯爵と伯爵以下で選出方法や待遇が異なり、公侯爵が30歳に達すれば自動的に終身の貴族院議員に列するのに対し、伯爵以下は同爵者の間の連記・記名投票選挙によって当選した者のみが任期7年で貴族院議員となった[77]。この選挙の選挙権は成年、被選挙権は30歳以上だった[78]。選挙と任期が存在する伯爵以下議員は政治的結束を固める必要があり、公侯爵議員より政治的活動が活発だった[79]。また公侯爵議員は無給だったため、貴族院への出席を重んじない者が多かったが、伯爵以下議員は議員歳費が支給されたため、議席を希望する者が多かった[80]。なお議員歳費は当初は800円(+旅費)で、後に3000円に上がっており、かなりの高給である。貧しい家が多い旧公家華族には特に魅力的な金額だったと思われる[81]。特に子爵の場合は旧公家華族だけでなく旧大名華族も小大名だった家がほとんどなので経済状態が芳しくないことが多く議席を欲する者が多かった。研究会幹部だった貴族院議員酒井忠亮子爵も「大学を卒業して傾いていた家運を挽回するのにどうし様かと思った。安月給取りではやっていけない。結局早く(貴族院に入って)研究会の幹部になる外はないと思った」と述懐している。そのため子爵たちの選挙戦は激しいものがあった[82]。
伯爵以下議員はそれぞれの爵位の中で約18パーセントの者が貴族院議員に選出されるよう議席数が配分されており[83]、当初は伯爵議員14人、子爵議員70人、男爵議員20人だったが、それぞれの爵位数の変動(特に男爵の急増)に対応してしばしば貴族院令改正案が議会に提出されては政治論争となった。その最初のものは桂太郎内閣下の1905年に議会に提出された第一次貴族院令改正案(伯爵17人、子爵70人、男爵56人)だったが、日露戦争の勲功で急増していた男爵の数が反映されていないと男爵議員が反発し、貴族院で1票差で否決。これに対応して桂内閣が1909年に議会に提出した第2次改正案は男爵議員数を63名に増加させるものだったが、その比率は伯爵が5.94名、子爵が5.38名、男爵が6名につき1名が議員という計算だったので「子爵保護法」と批判された。しかしこれ以上男爵議員を増やすと衆貴両院の議員数の均衡が崩れ、また貴族院内の華族議員と勅選議員の数の差が著しくなるとの擁護があり、結局政府原案通り採決された。さらに第一次世界大戦の勲功で男爵位が増加した後の1918年(寺内正毅内閣下)には伯爵20人、子爵・男爵を73名以内とする第三次改正案が議会に提出された。さらに1925年の加藤高明内閣下の第四次改正では子爵議員の定数を4名削減された。これにより最終的には子爵議員の数は66名となった[84]。
貴族院内には爵位ごとに会派が形成されており、子爵議員たちは「研究会」という会派を形成した。「研究会」には勅選議員も多数参加し、院内における最大会派となり、1920年代に大きな力を持った[80]。特に華族議員制度の解体を目指していた加藤高明内閣による貴族院改革案を研究会は常に反対し続けた[85]。
子爵家の一覧
高位華族の分家の子爵家
明治以降に分家した華族は「一新後華族に列せられたる者」という叙爵内規によって男爵を授爵されるのが基本であったが、本家が高い爵位を持っている場合には特例[86]として子爵位が与えられることがあった(ただし公侯爵の分家でも大半は男爵である)。子爵を与えられた分家華族としては以下の家がある。また、男爵から子爵に陞爵した家も含まれる。
旧公家の子爵家
叙爵内規では「一新前家ヲ興シタル旧堂上」を子爵位の対象者に定めていた[67]。ただし、伯爵以上に該当する家はそちらに叙される。
具体的には、摂家(公爵)と清華家(侯爵)を除く堂上家のうち、「大納言迄宣任の例多き」家が伯爵となり、それに該当しない家が子爵となった。「大納言迄宣任の例多き」の定義については、柳原前光の『爵制備考』で「旧大臣家三家」「四位より参議に任じ大納言迄直任の旧堂上二十二家」「三位より参議に任ずといえども大納言迄直任の旧堂上三家」「大納言までの直任の例は少ないが従一位に叙せられたことのある二家」と明記されている[87]。
ここでいう「直任」とは、中納言からいったん辞職することなく、そのまま大納言に任じられることを指す。公家社会では格上の扱いと見なされており、この直任の例が一回でもあれば「宣任の例多き」に該当し、伯爵位が与えられた。これらに該当しない(直任の例がない)堂上家が子爵となった[88]。
なお、羽林家や旧家であることが伯爵の条件であるという俗説は誤りである。叙爵内規には家格(羽林家・名家・半家)や歴史(旧家・新家)による区別はない。半家(非藤原氏が主)や新家(江戸時代以降の分家)に子爵が多いのは、単に家格ゆえに大納言直任の機会が少なかったという実務上の結果に過ぎない[89]。以下に該当する子爵家を分類する。
- 羽林家(旧家)
- 羽林家(新家)
- 名家(旧家)
- 名家(新家)
- 半家(旧家)
- 半家(新家)
旧大名の子爵家
叙爵内規では「旧小藩知事即チ現米五万石未満及ヒ一新前旧諸侯タリシ家」を旧大名からの子爵位の対象者と定めていた[67]。この「5万石未満」という基準は表高や内高といった米穀の生産量ではなく、税収を指す「現米(現高)」である点に注意を要する[90]。
明治2年2月(1869年)、政府は各藩に対し元治元年(1864年)から明治元年(1868年)までの5年間の租税収入の平均を申告させた。これに基づき、明治3年(1870年)に太政官は現米15万石以上を大藩、5万石以上を中藩、それ未満を小藩に分類した。もともとは政府費用の分担基準として算出されたものであったが、1884年(明治17年)の叙爵内規においても、この現米による分類が爵位基準として流用されることとなった[91]。
この基準に基づき、以下の家が旧小藩知事として子爵家に列せられた。なお、表高は爵位選定に影響しないが、喜連川藩主家という特例を除き、表高1万石以上であることが「旧諸侯」と見なされる前提条件であった。
- 青木家 (麻田藩 現米4,792石・表高1万石)
- 青山家 (篠山藩 現米3万6,320石・表高6万石)
- 青山家 (郡上藩 現米1万5,970石・表高4万8,000石)
- 秋田家 (三春藩 現米1万2,580石・表高5万石)
- 秋月家 (高鍋藩 現米1万6,770石・表高2万7,000石)
- 秋元家 (館林藩 現米3万7,450石・表高6万石)
- 足利家 (喜連川藩 現米1,930石・表高5,000石)
- 阿部家 (棚倉藩 現米1万0,140石・表高6万石)
- 阿部家 (佐貫藩 現米4,470石・表高1万6,000石)
- 有馬家 (吹上藩 現米3,530石・表高1万石)
- 有馬家 (丸岡藩 現米1万7,360石・表高5万石)
- 安藤家 (磐城平藩 現米6,760石・表高3万石)
- 安部家 (半原藩 現米5,940石・表高2万0,250石)
- 井伊家 (与板藩 現米7,190石・表高2万石)
- 池田家 (生坂藩 現米5,680石・表高1万5,000石)
- 池田家 (鴨方藩 現米9,220石・表高2万5,000石)
- 池田家 (鹿奴藩 現米1万3,250石・表高3万石)
- 池田家 (若桜藩 現米8,830石・表高1万5,000石)
- 石川家 (亀山藩 現米2万4,450石・表高6万石・1887年返上・1899年再叙爵)
- 石川家 (下館藩 現米7,910石・表高2万石)
- 板倉家 (高梁藩 現米8,570石・表高2万石)
- 板倉家 (安中藩 現米7,680石・表高3万石)
- 板倉家 (重原藩 現米8,880石・表高2万8,000石)
- 板倉家 (庭瀬藩 現米1万0,470石・表高2万石)
- 市橋家 (西大路藩 現米6,710石・表高1万8,000石)
- 伊東家 (飫肥藩 現米2万3,340石・表高5万1,080石)
- 伊東家 (岡田藩 現米7,750石・表高1万0,343石)
- 稲垣家 (鳥羽藩 現米1万2,920石・表高3万石)
- 稲垣家 (山上藩 表高1万3,000石)
- 稲葉家 (臼杵藩 現米3万5,270石・表高5万0,060石)
- 稲葉家 (淀藩 現米4万3,780石・表高10万2,000石)
- 稲葉家 (館山藩 現米3,498石・表高1万石)
- 井上家 (鶴舞藩 現米2万4,150石・表高6万石)
- 井上家 (下妻藩 現米2,090石・表高1万石)
- 井上家 (高岡藩 現米3,540石・表高1万石)
- 岩城家 (亀田藩 現米1万2,200石・表高1万8,000石)
- 上杉家 (米沢新田藩 現米2,926石・表高1万石)
- 植村家 (高取藩 現米1万2,700石・表高2万5,000石)
- 内田家 (小見川藩 現米2,710石・表高1万石)
- 大岡家 (西大平藩 現米3,250石・表高1万石)
- 大岡家 (岩槻藩 現米8,880石・表高2万3,000石)
- 大久保家 (小田原藩 現米2万3,410石・表高7万5,000石)
- 大久保家 (荻野山中藩 現米4,660石・表高1万3,000石)
- 大久保家 (烏山藩 現米7,530石・表高3万石)
- 大河内家 (大多喜藩 現米7,280石・表高2万2,294石)
- 大河内家 (豊橋藩 現米2万6,200石・表高7万石)
- 大河内家 (高崎藩 現米3万3,110石・表高8万2,000石)
- 大関家 (黒羽藩 現米5,340石・表高1万8,000石)
- 太田家 (松尾藩 現米1万9,540石・表高5万0,037石)
- 大田原家 (大田原藩 現米2,528石・表高1万1,400石)
- 小笠原家 (安志藩 現米4,560石・表高1万石)
- 小笠原家 (千束藩 現米4,800石・表高1万石)
- 小笠原家 (唐津藩 現米2万9,423石・表高6万石)
- 小笠原家 (勝山藩 現米7,260石・表高2万2,777石)
- 岡部家 (岸和田藩 現米3万4,090石・表高5万3,000石)
- 大給家 (府内藩 現米1万4,160石・表高2万1,200石)
- 奥田家 (村松藩 現米2万0,690石・表高3万石)
- 奥田家 (須坂藩 現米4,330石・表高1万0,053石)
- 奥田家 (椎谷藩 現米4,390石・表高1万石)
- 織田家 (天童藩 現米7,650石・表高1万8,000石)
- 織田家 (柏原藩 現米9,190石・表高2万石)
- 織田家 (芝村藩 現米5,210石・表高1万石)
- 織田家 (柳本藩 現米6,600石・表高1万石)
- 片桐家 (小泉藩 現米5,590石・表高1万1,100石)
- 加藤家 (水口藩 現米1万1,710石・表高2万石)
- 加藤家 (大洲藩 現米3万0,476石・表高6万石)
- 加藤家 (新谷藩 現米4,890石・表高1万石)
- 加納家 (一宮藩 現米5,470石・表高1万3,000石)
- 吉川家 (岩国藩 男爵より陞爵)
- 木下家 (足守藩 現米1万0,520石・表高2万5,000石)
- 木下家 (日出藩 現米1万0,280石・表高2万5,000石)
- 京極家 (丸亀藩 現米3万3,120石・表高5万1,512石)
- 京極家 (多度津藩 現米7,400石・表高1万石)
- 京極家 (豊岡藩 現米5,380石・表高1万5,000石)
- 京極家 (峰山藩 現米6,030石・表高1万1,144石)
- 九鬼家 (三田藩 現米1万5,290石・表高3万6,000石)
- 九鬼家 (綾部藩 現米7,160石・表高1万9,500石)
- 久世家 (関宿藩 現米1万5,550石・表高4万3,000石)
- 朽木家 (福知山藩 現米1万3,330石・表高3万2,000石)
- 久留島家 (森藩 現米6,100石・表高1万2,500石)
- 黒田家 (秋月藩 現米2万0,800石・表高5万石)
- 黒田家 (久留里藩 現米1万1,126石・表高3万石)
- 小出家 (園部藩 現米1万3,530石・表高2万6,711石)
- 五島家 (福江藩 現米6,460石・表高1万2,500石)
- 酒井家 (松嶺藩 現米1万2,420石・表高2万2,500石)
- 酒井家 (伊勢崎藩 現米5,510石・表高2万石)
- 酒井家 (加知山藩 現米4,280石・表高1万2,000石・1899年返上)
- 酒井家 (敦賀藩 現米4,950石・表高1万石)
- 榊原家 (高田藩 現米4万8,410石・表高15万石)
- 相良家 (人吉藩 現米2万5,090石・表高2万2,100石)
- 桜井家 (尼崎藩 現米2万7,670石・表高4万石)
- 佐竹家 (久保田新田藩 現米1万1,910石・表高2万石)
- 新庄家 (麻生藩 現米4,710石・表高1万石)
- 諏訪家 (高島藩 現米1万6,070石・表高3万石)
- 関家 (新見藩 現米6,510石・表高1万8,000石)
- 仙石家 (出石藩 現米1万3,840石・表高3万石)
- 相馬家 (中村藩 現米3万4,610石・表高6万石)
- 高木家 (丹南藩 現米6,600石・表高1万石)
- 滝脇家 (小島藩 現米3,560石・表高1万石)
- 建部家 (林田藩 現米6,420石・表高1万石・1947年返上)
- 立花家 (三池藩 現米4,130石・表高1万石)
- 伊達家 (伊予吉田藩 現米1万4,730石・表高3万石)
- 谷家 (山家藩 現米4,389石)
- 田沼家 (小久保藩 現米4,400石・表高1万石)
- 田村家 (一関藩 現米1万1,210石・表高2万7,000石)
- 津軽家 (黒石藩 現米8,020石・表高1万石)
- 土屋家 (土浦藩 現米2万8,380石・表高9万5,000石)
- 土井家 (古河藩 現米2万5,710石・表高8万石)
- 土井家 (刈谷藩 現米7,090石・表高2万3,000石)
- 土井家 (大野藩 現米1万2,630石・表高4万石)
- 東家 (三上藩 現米5,200石・表高1万2,000石)
- 藤堂家 (久居藩 現米2万3,240石・表高5万3,000石)
- 遠山家 (苗木藩 現米4,920石・表高1万0,021石)
- 土岐家 (沼田藩 現米1万5,110石・表高3万5,000石)
- 戸沢家 (新庄藩 現米2万6,070石・表高6万8,200石)
- 戸田家 (松本藩 現米3万6,850石・表高6万石)
- 戸田家 (宇都宮藩 現米1万8,830石・表高7万0,850石)
- 戸田家 (足利藩 現米2,700石・表高1万1,000石)
- 戸田家 (曾我野藩 現米3,720石・表高1万1,139石)
- 戸田家 (野村藩 現米3,900石)
- 鳥居家 (壬生藩 現米1万0,170石・表高3万石)
- 内藤家 (村上藩 現米2万9,480石・表高5万0,090石)
- 内藤家 (高遠藩 現米1万5,330石・表高3万3,000石)
- 内藤家 (岩村田藩 現米4,300石・表高1万5,000石)
- 内藤家 (延岡藩 現米2万8,906石・表高7万石)
- 内藤家 (挙母藩 現米6,710石・表高2万石)
- 内藤家 (湯長谷藩 現米3,260石・表高1万4,000石)
- 永井家 (櫛羅藩 現米4,550石・表高1万石)
- 永井家 (高槻藩 現米1万7,440石・表高3万6,000石)
- 永井家 (加納藩 現米1万3,050石・表高3万2,000石)
- 成瀬家 (犬山藩 男爵より陞爵)
- 鍋島家 (蓮池藩 現米2万0,430石・表高5万2,600石)
- 鍋島家 (小城藩 現米2万7,372石・表高7万3,253石)
- 鍋島家 (鹿島藩 現米9,895石・表高2万石・1947年返上)
- 南部家 (八戸藩 現米9,440石・表高2万石)
- 南部家 (七戸藩 現米1,620石・表高1万0,384石)
- 西尾家 (横須賀藩 現米1万4,570石・表高3万5,000石)
- 丹羽家 (二本松藩 現米1万2,860石・表高5万石)
- 丹羽家 (三草藩 現米4,840石・表高1万石・1940年女戸主)
- 久松家 (多古藩 現米2,750石・表高1万2,000石)
- 久松家 (今治藩 現米2万2,720石・表高3万5000石)
- 土方家 (菰野藩 現米5,720石・表高1万1,000石)
- 一柳家 (小野藩 現米5,280石・表高1万石)
- 一柳家 (小松藩 現米4,830石・表高1万石)
- 北条家 (狭山藩 現米5,470石・表高1万石)
- 保科家 (飯野藩 現米7,500石・表高2万石)
- 細川家 (宇土藩 現米1万2,990石・表高3万石)
- 細川家 (高瀬藩 現米1万3,570石・表高3万5,000石)
- 細川家 (茂木藩 現米3,850石・表高1万6,300石)
- 堀田家 (宮川藩 現米4,830石・表高1万3,000石)
- 堀田家 (佐野藩 現米5,290石・表高1万6,000石)
- 堀家 (飯田藩 現米1万0,040石・表高1万7,000石)
- 本庄家 (高富藩 現米3,220石・表高1万石)
- 本庄家 (宮津藩 現米2万7,160石・表高7万石)
- 本多家 (岡崎藩 現米2万1,351石・表高5万石)
- 本多家 (泉藩 現米4,550石・表高1万8,000石)
- 本多家 (山崎藩 現米6,680石・表高1万石)
- 本多家 (膳所藩 現米2万5,300石・表高6万石)
- 本多家 (西端藩 現米3,280石・表高1万0,500石)
- 本多家 (神戸藩 現米6,670石・表高1万5,000石)
- 本多家 (長尾藩 現米1万8,939石・表高4万石)
- 本多家 (飯山藩 現米1万1,970石・表高2万石)
- 蒔田家 (浅尾藩 現米4,140石・表高1万石)
- 前田家 (大聖寺藩 現米2万8,730石・表高10万石)
- 前田家 (七日市藩 現米2,600石・表高1万0,014石)
- 牧野家 (長岡藩 現米1万0,500石・表高2万4,000石)
- 牧野家 (嶺岡藩)
- 牧野家 (笠間藩 現米2万5,180石・表高8万石)
- 牧野家 (舞鶴藩 現米1万6,750石・表高3万5,000石)
- 牧野家 (小諸藩 現米1万0,020石・表高1万5,000石)
- 増山家 (長島藩 現米7,390石・表高2万石)
- 松井家 (川越藩 現米2万1,660石・表高8万0,400石)
- 松平家 (亀岡藩 現米2万8,380石・表高5万石)
- 松平家 (島原藩 現米4万5,120石・表高6万5,900石)
- 松平家 (杵築藩 現米2万1,040石・表高3万2,000石)
- 松平家 (上山藩 現米1万0,480石・表高2万7,000石)
- 松平家 (上田藩 現米2万2,808石・表高5万3,000石)
- 松平家 (西尾藩 現米2万3,190石・表高6万石)
- 松平家 (岩村藩 現米1万3,270石・表高3万石)
- 松平家 (桑名藩 現米2万3,450石・表高6万石)
- 松平家 (津山藩 現米4万3,120石・表高10万石)
- 松平家 (清崎藩 現米5,520石・表高1万石)
- 松平家 (広瀬藩 現米1万4,390石・表高3万石)
- 松平家 (母里藩 現米5,353石・表高1万石)
- 松平家 (明石藩 現米4万3,470石・表高8万石)
- 松平家 (斗南藩 現米7,380石・表高3万石)
- 松平家 (鶴田藩 現米2万0,660石・表高6万1,000石)
- 松平家 (高須藩 現米6,630石・表高3万石)
- 松平家 (西条藩 現米1万8,190石・表高3万石)
- 松平家 (松川藩 現米6,170石・表高2万石)
- 松平家 (石岡藩 現米5,260石・表高2万石)
- 松平家 (宍戸藩 現米1,890石・表高1万石)
- 松平家 (忍藩 現米4万2,070石・表高10万石)
- 松平家 (小幡藩 現米4,170石・表高2万石)
- 松前家 (松前藩 現米2万3,300石・表高3万石)
- 松浦家 (平戸新田藩 現米4,080石・表高1万石)
- 間部家 (鯖江藩 現米1万4,960石・表高4万石・1943年返上)
- 三浦家 (勝山藩 現米1万1,930石・表高2万3,000石)
- 水野家 (結城藩 現米4,840石・表高1万7,000石)
- 水野家 (菊間藩 現米1万9,260石・表高5万石)
- 水野家 (鶴牧藩 現米7,040石・表高1万5,000石)
- 水野家 (朝日山藩 現米1万1,500石・表高5万石)
- 三宅家 (田原藩 現米5,740石・表高1万2,072石)
- 毛利家 (長府藩 現米3万9,972石・表高5万石)
- 毛利家 (清末藩 現米7,600石・表高1万石)
- 毛利家 (徳山藩 現米2万1,410石・表高4万0,010石)
- 毛利家 (佐伯藩 現米1万2,210石・表高2万石)
- 森家 (赤穂藩 現米1万0,730石・表高2万石)
- 森家 (三日月藩 現米8,390石・表高1万5,000石)
- 森川家 (生実藩 現米4,030石・表高1万石)
- 柳生家 (柳生藩 現米5,710石・表高1万石)
- 柳沢家 (黒川藩 現米4,760石・表高1万石)
- 柳沢家 (三日市藩 現米4,810石・表高1万石)
- 山内家 (土佐新田藩 現米4,720石・表高1万3,000石)
- 山口家 (牛久藩 現米3,700石・表高1万0,017石)
- 吉井家 (吉井藩 現米2,160石・表高1万石)
- 米津家 (龍ヶ崎藩 現米3,320石・表高1万1,000石)
- 米倉家 (六浦藩 現米2,700石・表高1万2,000石・1937年女戸主)
- 六郷家 (本荘藩 現米1万3,270石・表高2万0,021石)
- 脇坂家 (龍野藩 現米2万7,776石・表高5万1,089石)
- 分部家 (大溝藩 現米6,730石・表高2万石・1902年返上)
- 渡辺家 (伯太藩 現米6,070石・表高1万3,520石)
1869年(明治2年)の華族制度発足時、大名(諸侯)として華族に列する基準は表高1万石以上であった。しかし、下野国喜連川藩の足利家(旧喜連川家)は、表高5,000石ながら江戸時代を通じて大名格の待遇を受けていた経緯から、特例として華族に列していた。叙爵内規に記された「一新前旧諸侯タリシ家」という文言は、この足利家を子爵に含めるために設けられた規定である[92]。
また、御三家付家老や周防国岩国藩の吉川家などは、幕府体制下では陪臣(諸侯に準ずる扱いではあったが、形式上は家臣)の立場であったため、当初の叙爵は男爵にとどまった。その後、吉川家と成瀬家(犬山藩)については、1891年(明治24年)に子爵へと陞爵している。
現米算出の基準については、明治2年時点の領地範囲に基づいている。このため、戊辰戦争で敗北し減封処分を受けた藩は、縮小された領地に基づき算出された現米高が爵位基準となった。例えば、当初表高23万石であった会津藩は、処分後に陸奥斗南藩3万石(現米7,380石)となったため、当主の松平家は子爵に列せられた。減封がなければ現米5万石を超え伯爵となった可能性が高いが、これは「賊藩だから罰として子爵にした」のではなく、「処分による減封の結果、機械的に現米が減少したために子爵となった」ことを意味する。爵位の決定はあくまで現米高のみに基づく客観的なものであり、処罰としての爵位決定という性格は持たなかった[93]。他の減封を受けた旧大名家についても、減封がなくとも現米5万石に達する例は稀であり、多くは結果的に子爵相当となっている[94]。
なお、旧諸侯でありながら叙爵されなかった例外も存在する。上総請西藩の林家は、戊辰戦争の結果、表高1万石から300石へと大幅な減知を受け、大名の地位を喪失したため当初は叙爵されなかった(1893年に特旨により男爵)。また、安芸広島新田藩の浅野家は、華族制度発足後に本藩である広島藩に合併され、当主が華族身分を返上していたため、華族令公布時には叙爵対象から外れていた。このほか、石高偽装が露見し華族身分を剥奪された堀江藩の大沢家(元高家旗本)も叙爵されなかった。1869年から1884年までの間に、旧諸侯でありながら華族身分を失っていたのは、これら2家のみである。
勲功による子爵家
叙爵内規における「国家ニ勲功アル者」のうち、男爵より上位の功績を認められた家系である。初期に子爵を授けられた「維新の元勲」に近い層から、男爵からの陞爵(爵位が上がること)によって子爵となった層まで、近代日本の軍事・政治・経済の各界を牽引した最高指導者層が含まれる。
- 軍人(子爵家)
軍人における子爵家は、陸海軍の最高幹部(元帥、大将級)や、大規模戦役における師団長・艦隊司令官クラスが中心である。日清・日露戦争における統帥・作戦立案の直接的な功績に加え、軍政・国政の要職(陸海軍大臣、内閣総理大臣など)を務め、国家運営の根幹を担った「軍の重鎮」が名を連ねる。
- 伊集院家 (薩摩藩)
- 伊東家 (薩摩藩)
- 井上良馨家 (薩摩藩・男爵から陞爵)
- 上原家 (薩摩藩・男爵から陞爵)
- 大迫尚敏家 (薩摩藩・男爵から陞爵)
- 大島久直家 (久保田藩・男爵から陞爵)
- 大島義昌家 (長州藩・男爵から陞爵)
- 岡沢家 (長州藩・男爵から陞爵)
- 小川家 (小倉藩・男爵から陞爵)
- 加藤家 (広島藩・男爵から陞爵)
- 川上家 (薩摩藩)
- 川村家 (薩摩藩・男爵から陞爵)
- 斎藤家 (仙台藩・男爵から陞爵)
- 曾我家 (柳河藩)
- 高島家 (薩摩藩)
- 立見家 (桑名藩・男爵から陞爵)
- 谷家 (土佐藩)
- 鳥尾家 (長州藩)
- 中牟田家 (佐賀藩)
- 西家 (薩摩藩・男爵から陞爵)
- 仁礼家 (薩摩藩)
- 三浦家 (長州藩)
- 三好家 (阿波藩)
- 山口家 (長州藩・男爵から陞爵)
- 山地家 (土佐藩・男爵から陞爵)
- 政官学系・実業家(子爵家)
政治・行政・学術・経済分野における子爵家は、文官として内閣・宮中・外交の枢要を担った者、あるいは専門知識をもって近代日本の知的・産業的基盤を築いた人々である。維新の混乱期から行政実務を支えた者や、渋沢栄一のように民間の立場から国力を伸長させた功労者が含まれる。いずれも、軍事以外の側面から「国家の近代化」を完遂させた指導者層である。
- 青木家 (長州藩)
- 石井家 (上総国・男爵から陞爵)
- 石黒家 (陸奥国・男爵から陞爵・1941年継嗣襲爵せず)
- 井上毅家 (肥後藩)
- 井上勝家 (長州藩)
- 岩下家 (薩摩藩)
- 榎本家 (旗本・武蔵国)
- 大浦家 (薩摩藩・男爵から陞爵)
- 大久保家 (旗本・武蔵国・静岡藩)
- 大迫貞清家 (薩摩藩)
- 大村家 (長州藩)
- 海江田家 (薩摩藩)
- 河瀬家 (長州藩)
- 河田家 (鳥取藩)
- 河野家 (土佐藩)
- 清岡家 (土佐藩)
- 栗野家 (福岡藩・男爵から陞爵)
- 黒田家 (薩摩藩)
- 阪谷家 (備中国・男爵から陞爵)
- 税所家 (薩摩藩)
- 実吉家 (薩摩藩・男爵から陞爵)
- 滋野家 (長州藩)
- 宍戸家 (長州藩)
- 品川家 (長州藩)
- 渋沢家 (岡部藩・静岡藩・男爵から陞爵)
- 杉家 (長州藩)
- 末松家 (豊前国・男爵から陞爵)
- 曾禰家 (長州藩・男爵から陞爵)
- 高橋家 (仙台藩・男爵から陞爵)
- 田尻家 (薩摩藩・男爵から陞爵)
- 田中家 (尾張藩)
- 野村家 (長州藩)
- 橋本家 (越前藩・男爵から陞爵)
- 波多野家 (小城藩・男爵から陞爵)
- 花房家 (岡山藩・男爵から陞爵)
- 濱尾家 (豊岡藩・男爵から陞爵)
- 福岡家 (土佐藩)
- 福羽家 (津和野藩)
- 三島家 (薩摩藩)
- 本野家 (肥前国・男爵から陞爵)
- 森家 (薩摩藩)
- 山尾家 (長州藩)
- 山岡家 (武蔵国・静岡藩)
- 由利家 (福井藩)
- 吉田家 (熊本藩)
- 米田家 (奈良県・男爵から陞爵)
- 渡辺国武家 (諏訪藩)
- 渡辺昇家 (大村藩)
朝鮮貴族の子爵
日韓併合後の1910年(明治43年)の朝鮮貴族令(皇室令第14号)により華族に準じた朝鮮貴族の制度が設けられた。朝鮮貴族にも公侯伯子男の五爵が存在した(ただし朝鮮貴族の公爵に叙された者は現れず、朝鮮貴族の最上位爵位は侯爵だった)。朝鮮貴族の爵位は華族における同爵位と対等の立場にあるが、貴族院議員になる特権がない点が華族と異なった[95][96]。
朝鮮貴族の爵位は家柄に対してではなく日韓併合における勲功などに対して与えられたものだったが[95]、そうした勲功を上げることができるのは大臣級の政治家や軍人だった者だけであるため、朝鮮王朝の最上位貴族階級だった両班出身者で占められた[97]。
朝鮮貴族の爵位に叙された者は全部で76名であり、うち子爵に叙されたのは22名である[96]。現代韓国で「親日売国奴」の代名詞となっている「乙巳五賊」のうち4人、「丁未七賊」のうち6人が子爵に叙されている[96]。一方、李容稙と金允植は併合後、反日民族主義者となり、1919年の三・一独立運動で韓国独立を請願したために爵位剥奪処分となった。彼らや受爵を拒絶したり返却した者らはたとえ日韓併合時に「親日売国」行為があったとしても現代韓国で高く評価される傾向がある[98]。
1944年時点で朝鮮貴族の子爵家の数は当初の22家から17家に減っていた(朝鮮貴族家の総数も当初の76家から59家に減少していた)[99]。
- 朴斉純家
-
朴斉純(パク_チェスン/1858–1916):大韓帝国の外交官・政治家。乙巳五賊および庚戌国賊の一人。併合前は外部大臣や内閣総理大臣を歴任し、併合後は朝鮮総督府中枢院顧問を務めた。
- 朴富陽(パク・ブヤン/1905–1974):朴斉純の長男。1916年襲爵。朝鮮総督府の地方官吏(税務官)や中枢院書記を歴任。
- 高永喜家
- 高永喜(コ・ヨンヒ/1849–1916):官僚。丁未七賊および庚戌国賊の一人。併合前は学部大臣、法部大臣、度支部大臣を歴任。併合後は中枢院顧問。1916年の死後、爵位は長男の高羲敬が継いだが、1920年に侯爵へ昇爵した。
- 閔丙奭家
-
閔丙奭(ミン・ビョンソク/1858–1940):官僚。庚戌国賊の一人。李王職の初代長官を務め、長年にわたり王公族の家政を司った。
- 閔弘基(ミン・ホンギ/1883–1951):閔丙奭の養子。1940年襲爵。朝鮮総督府官吏を務めた。
- 金允植家
- 金允植(キム・ユンシク/1835–1922):政治家・文人。穏健開化派の重鎮。併合時は中枢院議長を務めたが、三・一独立運動で独立請願を首謀し、爵位剥奪および懲役2年の宣告を受けた。
- 権重顕家
-
権重顕(クォン・ジュンヒョン/1854–1934):軍人・官僚。乙巳五賊の一人。農商工部大臣として第二次日韓協約に賛成。併合後は中枢院顧問。
- 権泰煥(クォン・テファン/1876–1947):権重顕の養子。1934年襲爵。中枢院参議を務めた。
- 李根沢家
-
李根沢(イ・グンテク/1865–1919):政治家。乙巳五賊・丁未七賊。軍部大臣として第二次日韓協約を主導。併合後は中枢院顧問。
- 李昌薫(イ_チャンフン/1890–1947):李根沢の嗣子。1920年襲爵。実業界でも活動し、大陸ゴム工業の理事などを務めた。
- 李載崑家
-
李載崑(イ・ジェゴン/1859–1943):政治家。丁未七賊の一人。学部大臣を務め、併合後は中枢院顧問。
- 李海菊(イ・ヘグク/1926–1950):李載崑の孫。1943年襲爵。朝鮮戦争中に戦死。
- 尹徳栄家
-
尹徳栄(ユン・ドギョン/1873–1940):政治家。純宗の妃である純貞孝皇后の伯父。併合に際し王室を説得。中枢院副議長や貴族院勅選議員を歴任。
- 尹強老(ユン・ガンノ/1919–1965):尹徳栄の養孫。1940年襲爵。医師としても活動。
- 趙民熙家
- 趙民熙(チョ・ミンヒ/1859–1931):官僚。併合時は承寧府総管。併合後は中枢院顧問。後に私生活での放蕩により破産宣告を受けた。
- 李秉武家
-
李秉武(イ・ビョンム/1864–1926):軍人。丁未七賊・庚戌国賊。軍部大臣として大韓帝国軍の解散を主導。日本陸軍中将に昇進。
- 李鴻黙(イ・ホンムク/1895–1960):李秉武の養子。1927年襲爵。朝鮮臨戦報国団の発起人などを務めた。
- 李根命家
- 李根命(イ・グンミョン/1840–1916):官僚。併合前は義政府賛政。併合後は中枢院顧問。
- 閔泳奎家
-
閔泳奎(ミン・ヨンギュ/1846–1922):政治家。閔氏一族の重鎮で、併合前は議政大臣を務めた。併合後は中枢院顧問。
- 閔丙三(ミン・ビョンサム/1903–1947):1924年襲爵。朝鮮国防協会の発起人。
- 閔泳韶家
- 閔泳韶(ミン・ヨンソ/1852–1917):官僚。併合前は兵曹判書や宮内府大臣を歴任。死後、爵位は閔忠植が継いだ。
中国の子爵
西周時代に設置された爵について、『礼記』には「王者之制緑爵。公侯伯子男凡五等」とあり、「子」は五つある爵の下から二番目に位置づけている[100]。一方で『孟子』万章下には「天子之卿、受地視侯、大夫受地視伯、元士受地視子男。」とあり、天子を爵の第一とし、子男をひとまとめにしている[101]。『礼記』・『孟子』とともに男、もしくは子男は五十里四方の領地をもつものと定義している[101]。また『春秋公羊伝』には「天子は三公を公と称し、王者之後は公と称し、其の余大国は侯と称し、小国は伯・子・男を称す」という三等爵制が記述されている[102]。金文史料が検討されるようになって傅期年、郭沫若、楊樹達といった研究者は五等爵制度は当時存在せず、後世によって創出されたものと見るようになった[103]。王世民が金文史料を検討した際には公侯伯には一定の規則が存在したが、子男については実態ははっきりしないと述べている[104]。貝塚茂樹は『春秋左氏伝』を検討し、五等爵は春秋時代末期には存在していたとしたが、体系化された制度としての五等爵制度が確立していたとは言えないと見ている[105]。
漢代においては二十等爵制が敷かれ、「子」の爵位は存在しなかった。魏の咸熙元年(264年)、爵制が改革され、子の爵位が復活した。「公侯伯子男」の爵位は列侯や亭侯の上位に置かれ、諸侯王の下の地位となる[106]。食邑は大国なら八百戸、五十里四方の土地、次国なら六百戸、四十五里四方の土地が与えられることとなっている[106]。その後西晋および東晋でも爵位は存続している[107]。
南北朝時代においても晋の制度に近い叙爵が行われている。隋においては国王・郡王・国公・県公・侯・伯・子・男の爵が置かれ、唐においては王・開国国公・開国郡公・開国県公・開国侯・開国伯・開国子・開国男の爵位が置かれた[108]。
主要な中国の子爵
咸熙元年の叙爵では、陳羣・高柔・荀彧といった魏時代の功臣の子孫が「子」の爵を受けている[109]。また羊祜もこの際に子の爵位(鋸平子)を受けている[109]。
脚注
注釈
- ↑ 『華族令要覧』によると、主な内容は次のとおり(表記は常用漢字)。
*「第一 総規 §公卿諸侯ノ称ヲ廃シ改テ華族ト称ス/21p」「同 §華族令/21p」「同 §戸主ニ非サル者爵ヲ授ケラレタル場合ニ関スル法律/42p」
*「第二 授爵叙位 §授爵の詔勅/44p」「同 §授爵ノ順序/44p」「同 §叙位条例/44p」。
以下、「第三 華族戒飭(かいちょく)令 (0029.jp2-)」「第四 華族世襲財産法/(0031.jp2)-」「第五 華族就学規則/(0054.jp2-)」、「第六 宗秩寮審議会並學習院評議会官規/(0063.jp2-)」。
出典
- ↑ 新村出 2011, p. 1124.
- ↑ 松村明 2006, p. 1093.
- ↑ 新村出[1]および松村明[2]参照。
- ↑ Hélène Débax, "Des vice-comtes aux vicomtes, des vicomtes aux vicomtés", pp. 7-19.
- ↑ Géraldine Damon, "Vicomtes et vicomtés dans le Poitou médiéval (ixe-xiie siècle)", pp. 200-217.
- ↑ Jacqueline Caille, "Vicomtes et vicomté de Narbonne des origines au début du xiiie siècle", pp. 37-53.
- ↑ Henri Dolset, "Vicomtes et vicomtés en Catalogne frontalière aux ixe-xiie siècles (Barcelone, Gérone, Osone, Tarragone) : Territoire et pouvoir", pp. 157-168.
- ↑ Géraldine Damon, "Vicomtes et vicomtés dans le Poitou médiéval (ixe-xiie siècle)", pp. 200-217.
- ↑ Jacqueline Caille, "Vicomtes et vicomté de Narbonne des origines au début du xiiie siècle", pp. 37-53.
- ↑ Henri Dolset, "Vicomtes et vicomtés en Catalogne frontalière aux ixe-xiie siècles (Barcelone, Gérone, Osone, Tarragone) : Territoire et pouvoir", pp. 157-168.
- ↑ Jean-François Nieus, "Vicomtes et vicomtés dans le nord de la France (xie-xiiie siècles) : Un monde d’officiers au service du pouvoir princier", pp. 291-304.
- ↑ Jean-François Nieus, "Vicomtes et vicomtés dans le nord de la France (xie-xiiie siècles) : Un monde d’officiers au service du pouvoir princier", pp. 291-304.
- ↑ Jean-François Nieus, "Vicomtes et vicomtés dans le nord de la France (xie-xiiie siècles) : Un monde d’officiers au service du pouvoir princier", pp. 291-304.
- ↑ Géraldine Damon, "Vicomtes et vicomtés dans le Poitou médiéval (ixe-xiie siècle)", pp. 200-217.
- ↑ Géraldine Damon, "Vicomtes et vicomtés dans le Poitou médiéval (ixe-xiie siècle)", pp. 200-217.
- ↑ Géraldine Damon, "Vicomtes et vicomtés dans le Poitou médiéval (ixe-xiie siècle)", pp. 200-217.
- ↑ Jacqueline Caille, "Vicomtes et vicomté de Narbonne des origines au début du xiiie siècle", pp. 37-53.
- ↑ Claudie Duhamel-Amado, "Les vicomtes de Béziers et d’Agde", pp. 21-31.
- ↑ Claudie Duhamel-Amado, "Les vicomtes de Béziers et d’Agde", pp. 21-31.
- ↑ Claudie Duhamel-Amado, "Les vicomtes de Béziers et d’Agde", pp. 21-31.
- ↑ Henri Dolset, "Vicomtes et vicomtés en Catalogne frontalière aux ixe-xiie siècles (Barcelone, Gérone, Osone, Tarragone) : Territoire et pouvoir", pp. 157-168.
- ↑ Henri Dolset, "Vicomtes et vicomtés en Catalogne frontalière aux ixe-xiie siècles (Barcelone, Gérone, Osone, Tarragone) : Territoire et pouvoir", pp. 157-168.
- ↑ Henri Dolset, "Vicomtes et vicomtés en Catalogne frontalière aux ixe-xiie siècles (Barcelone, Gérone, Osone, Tarragone) : Territoire et pouvoir", pp. 157-168.
- ↑ Hélène Débax, "Des vice-comtes aux vicomtes, des vicomtes aux vicomtés", pp. 7-19.
- ↑ Jean-François Nieus, "Vicomtes et vicomtés dans le nord de la France (xie-xiiie siècles) : Un monde d’officiers au service du pouvoir princier", pp. 291-304.
- ↑ Géraldine Damon, "Vicomtes et vicomtés dans le Poitou médiéval (ixe-xiie siècle)", pp. 200-217.
- ↑ Jacqueline Caille, "Vicomtes et vicomté de Narbonne des origines au début du xiiie siècle", pp. 37-53.
- ↑ Claudie Duhamel-Amado, "Les vicomtes de Béziers et d’Agde", pp. 21-31.
- ↑ Henri Dolset, "Vicomtes et vicomtés en Catalogne frontalière aux ixe-xiie siècles (Barcelone, Gérone, Osone, Tarragone) : Territoire et pouvoir", pp. 157-168.
- ↑ W. A. Morris, "The Office of Sheriff in the Early Norman Period", The English Historical Review, Vol. 33, No. 130 (1918), pp. 145–146.
- 1 2 Morris 1918, p. 146.
- 1 2 3 Morris 1918, p. 149.
- ↑ Morris 1918, pp. 146–148.
- 1 2 Morris 1918, pp. 148–149.
- ↑ Morris 1918, pp. 149, 158–160.
- ↑ Morris 1918, pp. 157–158.
- 1 2 Morris 1918, p. 156.
- ↑ Morris 1918, p. 161.
- ↑ Morris 1918, p. 162.
- ↑ Morris 1918, pp. 150–153.
- ↑ Morris 1918, pp. 154–155.
- ↑ Morris 1918, pp. 154–156.
- ↑ Morris 1918, p. 155.
- ↑ Morris 1918, p. 156.
- ↑ Morris 1918, pp. 156, 170–175.
- ↑ Morris 1918, pp. 145–175.
- ↑ 小林(1991) p.16-17
- ↑ 森(1987) p.5-6
- ↑ 森(1987) p.15
- ↑ 前田英昭 1976, p. 46-58.
- ↑ 田中嘉彦 2009, p. 279/290.
- 1 2 坂東省次 2013, p. 68.
- 1 2 3 4 5 6 7 8 Noble Titles in Spain and Spanish Grandees
- ↑ 関哲行, 中塚次郎 & 立石博高 2008, p. 315.
- 1 2 関哲行, 中塚次郎 & 立石博高 2008, p. 370.
- ↑ https://www.boe.es/datos/pdfs/BOE//1931/153/A01122-01123.pdf [PDFファイルの名無しリンク]
- ↑ https://www.boe.es/buscar/act.php?id=BOE-A-1948-3512 [名無しリンク]
- ↑ 小田部雄次 2006, p. 13.
- ↑ 浅見雅男 1994, p. 24/86.
- ↑ 小田部雄次 2006, p. 21.
- ↑ 浅見雅男 1994, p. 71-76.
- ↑ 小田部雄次 2006, p. 26.
- ↑ 居相正広 1925, p. 21.
- ↑ 居相正広 1925, p. 44.
- ↑ 小田部雄次 2006, p. 30.
- ↑ 居相 1925, p. 45「第二 授爵叙位 §授爵ノ順序」
- 1 2 3 百瀬孝 1990, p. 242.
- ↑ 小田部雄次 2006, p. 56.
- ↑ 浅見雅男 1994, p. 153.
- ↑ 小田部雄次 2006, p. 156-157.
- ↑ 小田部雄次 2006, p. 158.
- ↑ 百瀬孝 1990, p. 243-244.
- ↑ 浅見雅男 1994, p. 34.
- ↑ 浅見雅男 1994, p. 116-117.
- ↑ 百瀬孝 1990, p. 243.
- ↑ 百瀬孝 1990, p. 37.
- ↑ 百瀬孝, 1990 & p37-38.
- ↑ 百瀬孝, 1990 & p37/38/243.
- ↑ 小田部雄次 2006, p. 195-196.
- 1 2 小田部雄次 2006, p. 45.
- ↑ 浅見雅男 1994, p. 116.
- ↑ 内藤一成 2008, p. 109-110.
- ↑ 百瀬孝 1990, p. 38.
- ↑ 小田部雄次 2006, p. 184/191-195.
- ↑ 小田部雄次 2006, p. 195.
- ↑ 居相 1925, pp. 42–43「第一 總規 §戸主ニ非サル者爵ヲ授ケラレタル場合ニ關スル法律」
- ↑ 浅見雅男 1994, pp. 117–118.
- ↑ 浅見雅男 1994, p. 118.
- ↑ 浅見雅男 1994, pp. 119–120.
- ↑ 浅見雅男 1994, pp. 87–88, 111.
- ↑ 浅見雅男 1994, pp. 87–88.
- ↑ 小田部雄次 2006, p. 147.
- ↑ 浅見雅男 1994, pp. 112, 147–150.
- ↑ 浅見雅男 1994, p. 149.
- 1 2 百瀬孝 1990, p. 244.
- 1 2 3 小田部雄次 2006, p. 162.
- ↑ 小田部雄次 2006, p. 163/166.
- ↑ 小田部雄次 2006, p. 164-171.
- ↑ 小田部雄次 2006, p. 173.
- ↑ 石黒ひさ子 2006, p. 2-3.
- 1 2 石黒ひさ子 2006, p. 3.
- ↑ 石黒ひさ子 2006, p. 5.
- ↑ 石黒ひさ子 2006, p. 4.
- ↑ 石黒ひさ子 2006, p. 6.
- ↑ 石黒ひさ子 2006, p. 9.
- 1 2 袴田郁一 2014, p. 86-87.
- ↑ 袴田郁一 2014, p. 95.
- ↑ 今堀誠二, p. 422-423.
- 1 2 袴田郁一 2014, p. 85.
参考文献
- 居相正広「明治四年衆華族ヲ便殿ニ召シ賜リタル 勅諭」『華族要覧』第1輯、東京:居相正広、1925年、1-44 (コマ番号0005.jp2-0028.jp2)頁。doi:10.11501/1018502。2021年2月20日閲覧。全国書誌番号: 43045309
- 今堀誠二「唐代封爵制拾遺」『社会経済史学』第12巻第4号、社会経済史学会、1942年、419-451頁、 NAID 110001212961。
- 前田英昭『イギリスの上院改革』木鐸社、1976年。ASIN B000J9IN6U。
- 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。 ISBN 978-4469240979。
- 百瀬孝『事典 昭和戦前期の日本:制度と実態』吉川弘文館、1990年。 ISBN 978-4642036191。
- 小林章夫『イギリス貴族』講談社〈講談社現代新書1078〉、1991年。 ISBN 978-4061490789。
- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年。 ISBN 978-4121018366。
- 内藤一成『貴族院』同成社〈同成社近現代史叢書〉、2008年。 ISBN 978-4886214188。
- 坂東省次『現代スペインを知るための60章』明石書店〈エリアスタディーズ116〉、2013年。 ISBN 978-4750337838。
- 松村明 編『大辞林 第三版』三省堂、2006年、1094頁。 ISBN 4385139059。
- 『広辞苑 第六版』岩波書店、2011年、1224頁。
- 石黒ひさ子「「五等爵制」再考」『駿台史學』第129巻、明治大学史学地理学会、2006年12月25日、1-20頁、 ISSN 0562-5955、 NAID 120001439019。
- 田中嘉彦「英国ブレア政権下の貴族院改革 : 第二院の構成と機能」『一橋法学』第8巻第1号、一橋大学大学院法学研究科、2009年3月、221-302頁、 doi:10.15057/17144、 ISSN 1347-0388、 NAID 110007620135。
- ISBN 400080121X
- 袴田郁一「両晉における爵制の再編と展開 : 五等爵制を中心として」『論叢アジアの文化と思想』第23号、アジアの文化と思想の会、2014年12月、79-134頁、 ISSN 1340-3370、 NAID 120005819881。
関連項目
子爵(ししゃく)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 15:19 UTC 版)
「MAO (漫画)」の記事における「子爵(ししゃく)」の解説
館の元主人。顔を包帯で隠していた。すでに体は死んでいて、蜘蛛女に操られていた。
※この「子爵(ししゃく)」の解説は、「MAO (漫画)」の解説の一部です。
「子爵(ししゃく)」を含む「MAO (漫画)」の記事については、「MAO (漫画)」の概要を参照ください。
子爵
出典:『Wiktionary』 (2018/07/05 14:39 UTC 版)
名詞
関連語
翻訳
「子爵」の例文・使い方・用例・文例
- 子爵に叙せらる
- 子爵夫人
- 田中子爵
- 田中子爵夫人
- 子爵の敬称
- 子爵あるいは女子爵が支配する領地
- 英国の身分、侯爵より下で子爵より上
- 英国の貴族階級に属する貴族(公爵、侯爵、伯爵、子爵または男爵)
- 生まれながらの子爵の爵位を有する貴族の女性
- 子爵の妻、あるいは未亡人
- 子爵あるいは子爵夫人の爵位もしくは階級、地位
- 公爵と侯爵と伯爵と子爵と男爵という爵位
- 明治憲法下における公爵,侯爵,伯爵,子爵,男爵
- 旧憲法における日本の爵位の一つで,侯爵の下,子爵の上の位
- 子爵という階級にある人
- 子爵という社会的階級
- しかし,メイブリー子爵はこの王室の婚約を台無しにしようとする。
子爵と同じ種類の言葉
- >> 「子爵」を含む用語の索引
- 子爵のページへのリンク
