鳥居氏とは? わかりやすく解説

鳥居氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/10 15:47 UTC 版)

鳥居氏
鳥居笹
本姓
家祖 鳥居重氏
種別
出身地 紀伊国
主な根拠地
著名な人物
支流、分家
  • 旗本鳥居氏(武家)
  • 鳥居氏(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

鳥居氏(とりいし)は、武家華族だった氏族戦国時代三河国の土豪として松平氏に仕え、江戸時代前期に出羽国山形藩22万石を与えられるも改易となり、その後、下野国壬生藩3万石で廃藩置県まで続き、明治維新後は華族の子爵家に列した[1][2]

歴史

鳥居氏発祥地の碑(愛知県岡崎市渡町東浦)
鳥居氏家紋「鳥居」
(『寛政重修諸家譜』)

寛政重修諸家譜』によると、元々は穂積朝臣鈴木氏の一族で、紀伊国熊野権現の神官であり、家祖である鳥居重氏が法眼に叙された記念として熊野山に鳥居を建立したことから鳥居と名乗ったとされる。その後、内裏で実施された闘鶏に赤い鶏を参加させたところ、その鶏が勝ち続け、平清盛に平家の赤旗を連想させて縁起が良いという理由で気に入られたことから、桓武平氏を名乗る事を許されたとされている[3]

重氏の子である鳥居忠氏が承久中に三河国矢作庄の渡理に移住し渡理伝内と称し[4]、忠氏の子孫の鳥居忠吉松平清康広忠に仕えるようになったという[4]。後年には藤原実方の長男朝元の後裔とも称した[5]

忠吉の子・元忠徳川家康配下の部将として諸合戦に軍功をあげ、関ヶ原の戦い伏見城の戦いで戦死した[1]。その息子の忠政は父の戦功により加増を繰り返され、元和8年(1622年)には出羽国山形藩主20万石となる[4]。寛永3年(1626年)にはさらに2万石の加増があって22万石となったが、寛永13年(1636年)に忠恒が無嗣で死去、また故あって改易に処された[4]

しかし元忠の旧功により忠恒の弟にあたる忠春が信濃国高遠藩3万2000石を与えられた。元禄2年(1689年)にも再び改易に処されたが、やはり元忠の功で能登国下村藩1万石が与えられ、元禄8年(1695年)には近江国水口藩2万石に加増移封となり、正徳2年(1712年)に下野国壬生藩3万石に加増移封となり、以降廃藩置県まで壬生藩に定着した[6][1]

元忠の三男・鳥居成次も父の旧領を与えられ、甲斐国谷村藩藩主となり、元和2年には徳川忠長の付家老に任じられて3万5000石を領したが[7]、忠長の改易に連座して改易となっている。

江戸時代後期に庶流の旗本家から鳥居耀蔵大給松平氏出身、林述斎の子)が出て、目付南町奉行を務めて甲斐守の官位を与えられ、水野忠邦の片腕として天保の改革の民衆弾圧を指揮して「妖怪(耀甲斐)」と恐れられた[8]

最後の壬生藩主忠宝の代の幕末に家中は尊王攘夷をめぐって藩論を二分したが、戊辰戦争では官軍に参加した[9]。明治2年(1869年)6月24日に版籍奉還により壬生藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月15日の廃藩置県まで藩知事を務めた[10]

明治2年(1869年)6月17日の行政官達で公家大名家が統合されて華族制度が誕生すると鳥居家も大名家として華族に列した[11][12]

版籍奉還の際に定められた家禄は現米で1017石[13][14][注 1]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄と引き換えに支給された金禄公債の額は3万5930円66銭4厘(華族受給者中152位)[14]。明治前期に忠宝の子忠文の住居は東京市本所区柳島町にあった。当時の家扶は井狩利佑[16]

明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注 2]として忠文が子爵に列せられた[18]

忠文は外務省官僚として副領事、公使館書記官、外務省書記官などを歴任した後、貴族院子爵議員に当選して務めた[5]

その孫の3代子爵忠博の代の昭和前期に鳥居子爵家の邸宅は東京市麹町区四番町にあった[19]

現在、鳥居宗家は壬生に存在する。また、下野国であった栃木県内に散らばる多くの鳥居姓は、この鳥居氏の末裔たちである。愛知県岡崎市渡町には鳥居氏発祥地の碑がある[20]

略系図

実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。

鈴木某
 
 
 
鳥居重氏1
 
 
 
忠氏2
 
 
 
重茂3
 
 
 
忠茂4
 
 
 
重俊5
 
 
 
重勝6
 
 
 
忠勝7
 
 
 
忠俊8
 
 
 
忠吉9
 
 
 
忠景10
 
 
 
重政11
 
 
 
重春12
 
 
 
重近13
 
 
 
重賢14
 
 
 
重元15
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠次16 吉守
 
 
 
 
 
忠明17 吉則
 
 
 
 
 
忠吉18 吉清
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠宗 本翁意伯 元忠19 忠広
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
康忠 忠政20 成次 忠勝 忠頼 忠昌
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠恒21 戸沢定盛 忠春22 忠房 忠春
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠則23 忠辰 忠虎 揖斐政寿 忠春
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠英24 忠瞭
 
 
 
忠瞭25
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠意26 大久保忠翰 忠亮
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠求 坪内定系 忠計 忠見 竹中元恭 忠温 戸川安昶 忠寄 忠良 忠貴
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠貴 竹村嘉道 忠燾27
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠威28 忠挙
 
 
 
忠挙29
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠粛 忠宝30 忠文
 
 
 
忠文31
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠一32 三宅忠強 住友忠輝 忠治 忠博
 
 
 
忠博33
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
信通[注 3] 34[注 4]

脚注

注釈

  1. ^ 明治2年6月17日の版籍奉還時、藩財政と藩知事の個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の十分の一をもって藩知事個人の家禄と定められた[15]
  2. ^ 旧壬生藩は現米1万170石(表高3万石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[17]
  3. ^ 鷹司公爵家分家鷹司信熙の子。
  4. ^ 川島米太郎の子。

出典

  1. ^ a b c 鳥居氏」『世界大百科事典 第2版』https://kotobank.jp/word/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E6%B0%8Fコトバンクより2022年11月8日閲覧 
  2. ^ 小田部 2006, p. 334.
  3. ^ 『寛政重脩諸家譜 第3輯』國民圖書、1923年、1044頁。NDLJP:1082714/1 
  4. ^ a b c d 新田 1984, p. 816.
  5. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 244.
  6. ^ 新田 1984, pp. 817–818.
  7. ^ 鳥居成次」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E6%88%90%E6%AC%A1コトバンクより2022年12月19日閲覧 
  8. ^ 鳥居耀蔵」『朝日日本歴史人物事典』https://kotobank.jp/word/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E8%80%80%E8%94%B5コトバンクより2022年12月19日閲覧 
  9. ^ 壬生藩」『藩名・旧国名がわかる事典』https://kotobank.jp/word/%E5%A3%AC%E7%94%9F%E8%97%A9コトバンクより2023年8月25日閲覧 
  10. ^ 新田 1984, p. 819.
  11. ^ 浅見 1994, p. 24.
  12. ^ 小田部 2006, pp. 13–14.
  13. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 20.
  14. ^ a b 石川 1972, p. 36.
  15. ^ 刑部 2014, p. 107.
  16. ^ 石井孝太郎『明治華族名鑑』深沢堅二。NDLJP:994441/42 
  17. ^ 浅見 1994, p. 151.
  18. ^ 小田部 2006, p. 336.
  19. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 243.
  20. ^ 鳥居氏一族の発祥地”. 岡崎いいとこ風景ブログ. 岡崎市まちづくりデザイン課 (2010年4月16日). 2021年7月19日閲覧。

参考文献

外部リンク


鳥居(鳥井)氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)

小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「鳥居鳥井)氏」の解説

改易された外様大名家臣先祖持ち越後国浪人となった与板藩に再仕官寛延期ごろに長岡藩の前藩主大殿様)特別な縁故を持つ。寛政期断絶危機となるも、家老加藤氏の弟を末期養子として、その精勤により1代限りではあるが家老次席抜擢され用人連綿家系となる。北佐久郡長の鳥居義処は、小諸藩加判職や、少参事上の役職就任していたことは、あり得ず、また鳥居氏庶流出自であり、家老鳥居氏とは同姓一門ではあるが別家系である。 その先祖は藩主養子入り随従して、足利藩本荘氏家臣から与板藩牧野氏家臣転籍し有能な家臣であったので抜擢家老となったと、鳥居家由緒解説している刊本がある。しかし、この刊本出典根拠としている一次史料には、こうした記述存在せず小諸家臣小川氏同じく江戸時代初期外様大名家中内訌改易となり浪人与板藩に再仕官が、かなったことが書かれている。鳥居氏は鳥井と書かれている古文書があるので、改易取り潰しされて、名跡再興がなかった浅井氏取り違えられた可能性もある。この浅井氏は、藩主養子入りに伴い足利藩本荘氏家臣から与板藩牧野氏家臣転籍していた。 鳥居氏は与板在封期に50石・給人馬上格式であった元禄9年用人加判抜擢され重臣の列となった小諸入封後に分家の分出を行い150石から120石に減石となった享保期の当主であった鳥居勘兵衛義信は、寛延4年7月2日長岡藩から特別な用向きがあり、江戸藩邸召し出された。公にできない仰せがあり、長岡藩転籍打診されたが、固辞した小諸20加増となる(持高計140石)。用人加判に非常置役職である勝手方総元〆兼帯することになり、実質的に小諸藩財政民政実権握った長岡藩は、さらなる加増昇進求めたが、鳥居勘兵衛義信は、またも固辞して宝暦12年家督譲った。ところが次の当主若輩跡取りがないまま死亡した鳥居勘兵衛義信未亡人の強い意向で、鳥居氏の分家から末期養子を招かず、寛政初期家老加藤成昭・弟が、その名跡格式降格減石の上、受けることになり、鳥居勘兵衛義智(持高80石)となった。しかし段々と立身して、享和期から文化年間初期まで足高により家老職となった。1代限りではあるが、役職上、家臣中次席の格式栄進。1代で旧鳥居惣領家格式回復してその後は、用人格の格式連綿した。小諸惣士草高成立時持高147石。9代藩主による改革後持高130石。幕末・維新期には、当主鳥居平左衛門は、小諸騒動謹慎処罰受けているが、入牢はしていない加藤牧野馬派失脚時に役職奪われ(あるいは辞任して)、無役士分上禄となったこの人事の事情には諸説がある。惣領家部屋住み鳥居左平次義行は、小諸藩明倫堂漢文教師となった家老加藤氏の弟が、鳥居惣領家名跡を受ける2代前に、鳥居氏から分家として分出されていた家系末裔である鳥居半蔵義処(正確に旧字体該当する常用漢字がない。読みヨシズミ)は、父の代には中小姓格・馬廻り役に過ぎなかったが、小諸騒動影響重臣門閥謹慎遠慮となり、身動きがとれなくなったときに、班を進めて為政副幹事少参事旧制度奏者取次相当)に抜擢され士分下禄(9代藩主による改革後持高20石・中小姓格)に列した廃藩までに軍務幹事となり、廃藩後鳥居半蔵義処は、御牧ヶ原(みまきがはら)に一時帰農して開墾事業などに尽力し、関五太夫家(小諸本町庄屋)の資金援助受けて北佐久郡内の土地払下げなどを受けたが、長野県出仕して北佐久郡となった郡長在職明治12年から14年)。その一方で関五太夫家は、信越本線ライバル回して競合区間馬車事業おこなったほか、数種の事業失敗して父祖以来家産を、明治中期までに失った。 「実録小諸藩明治維新出版は、史実フィクション化した刊本である。この著述中に維新期の小諸藩軍務局という機関設置され軍務局長というポスト存在するが、史実では軍務局長というポスト存在したことはない。軍務幹事というポスト存在する少参事下位で、少参事統率を受ける。ましてや鳥居義処軍務局長などというポスト就任していたことは、史料学あり得ない。 「軽井沢という聖地桐山秀樹吉村裕美著(2012年4月NTT出版によると、「軽井沢風景作った日本人」の章で、「1875年明治5年)旧小諸藩家老鳥居義処が、約100ヘクタール国有地払い下げを受け、1881年明治14年)にも、民有地212ヘクタール買収しカラマツ植えて開拓行っている(中略)。この鳥居から、事業引き継いで1883年明治16年)に100ヘクタール官有地と、民有地を約17万円購入毎年30本ずつのカラマツ植林続け、計700本を植えたのが、山梨県出身実業家雨宮敬次郎であった」との著述がある。 同書によると鳥居義処は、旧小諸藩家老であり、東京大学史料編纂所小諸藩一次史料である小諸藩留書などによると、彼は家老重臣就任したという形跡痕跡はまったくない。このように旧藩時代役職格式について、一次史料と、「軽井沢という聖地桐山秀樹吉村裕美がなした著述との間には、驚くべき乖離存在する。なお「軽井沢という聖地桐山秀樹吉村裕美著には、鳥居義処小諸藩家老であったとする根拠出典に関する記述はない。 鳥居義処が、小諸藩加判職や、少参事上の役職就任していたことが、あり得えないことは、下記掲載各種文献から、明らかである。

※この「鳥居(鳥井)氏」の解説は、「小諸藩牧野氏の家臣団」の解説の一部です。
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