牧野氏
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牧野氏(まきのし)は、日本の氏族。譜代大名・諸侯・華族に列した家系ほか、さまざまな系統がある。
- 『吾妻鏡』に見える牧野氏 - 牧野太郎兵尉とその一族。
- 仙台藩士牧野氏 - 源姓。仙台藩主伊達氏の宿老。陸奥国守護代となった牧野久仲(中野宗時の子)が有名。惣領家は元亀・慶安と二度の改易を経るも仙台藩士として存続した(惣領家500石、竹谷牧野家435石)。仙台藩には久仲系牧野氏の他にも、伊達忠宗正室・孝勝院に随って仙台藩に仕えた牧野与右衛門(源姓)の家系などがある。
- 棚倉藩士牧野氏 - 陸奥国棚倉藩小笠原家重臣。
- 信濃牧野氏 - 信濃国発祥の源姓牧野氏。
- 小諸藩士牧野氏 - 信濃国小諸藩牧野家重臣(城代家老・上席家老)の牧野氏。上席家老牧野康那。斬刑に処された城代家老牧野八郎左衛門成道など。
- 田中藩士牧野氏 - 駿河国田中藩主本多家重臣。
- 三河牧野氏 - 鎌倉時代宝飯郡牧野村(豊川市牧野町)に土着し室町、戦国時代に宝飯郡から、八名郡・渥美郡の一部に進出した牧野氏。牛久保城主・吉田城(今橋城)主など。
- 近世大名牧野氏 - 前記の三河国牧野氏の一系統が、徳川家康に臣従して、譜代大名・幕臣(旗本)となったもの。譜代大名として、越後国長岡藩主、信濃国小諸藩主、常陸国笠間藩主、越後国三根山藩主、丹後国田辺藩主の牧野氏がある。
- 越後長岡藩士牧野氏 - 越後国長岡藩家老の牧野氏。本姓山本氏・本姓松井氏がある。
- 越前牧野氏 - 越前国藤原氏の利仁流斎藤氏族。加賀斎藤氏・弘岡斎藤氏とも呼ばれる。堀氏・富樫氏・坪内氏(富樫氏の系統。尾張富樫氏とも)林氏・豊田氏(林氏の系統)等々が分岐した。
- 尾張牧野氏 - 尾張国愛知郡牧野(名古屋市中村区牧野)を発祥とする牧野氏は尾張稲麿を祖とする大宮司家支流の牧野氏で成海神社神官を世襲。本姓は尾張氏。ほかに、尾張国知多郡大野村に移住した牧野氏もある。三河国渥美郡の吉田城(今橋城、豊橋市)城主であった牧野氏の子孫が吉田城落城の際に落ち延びたもの。田口姓を称す。(詳細→ 牧野信成)
- 紀伊牧野氏 - 紀伊国伊都郡官省符荘(荘園)発祥の牧野氏。
- 紀州藩士牧野氏 - 徳川御三家の一つ紀州徳川家の家臣。三河国牛久保城主の牧野氏の同族異流。(参照 → 牧野筑意)。ほかに初代藩主徳川頼宣の時、改易・絶家した家老牧野長虎の牧野氏もある。長虎は牧野信成 (関宿藩主) の弟山成(たかしげ)の子孫で初代山成の時越前松平家から紀州徳川家に転属した。
- 田辺藩士牧野氏 - 丹後国田辺藩主牧野家重臣。
- マキノ家 - 幕末・明治維新期の京都で娘義太夫師であった竹本弥奈太夫こと牧野彌奈の子孫で日本の映画草創期を切り開いた牧野省三とその一家。
- 大和国の源姓牧野氏 - 同国宇智郡牧野邑(現:奈良県五條市中之町)発祥の清和源氏宇野氏の族の牧野氏。真木野氏・槇野氏とも表記され、真木氏・槇氏にも共通するという。
- 芝村藩士牧野氏 - 織田家用人。
- 美作牧野氏 - 美作国大庭郡湯本城主。
- 岡山藩士牧野氏 - 備前国岡山藩池田家重臣。岡山藩士牧野氏には異なる3系統があり1系統が重臣に列した。この家は尾張牧野氏(牧野信成)の末裔であり、牧野成憲はこの家系である。
- 肥後牧野氏 - 肥後国菊池氏。西郷氏と同族。
- 薩摩国の牧野氏 - 大久保氏の縁族で鹿児島出身の重臣牧野伸顕の一族。牧野伸顕の実父は大久保利通であるが親族(利通の父・利世の兄・利建の娘・美和子の夫牧野惟武が牧野惟教の父)の牧野惟教(喜平次・戊辰戦争で戦死)の養子となって牧野に改姓した。
牧野氏(牧野八郎左衛門等の家系)
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「牧野氏(牧野八郎左衛門等の家系)」の解説
与板立藩以来、家老の家柄。室町時代には牧野平四郎として文献に登場。 当家と、藩主家(長岡・小諸)との系図的な繋がりは、諸説があるが、同一の先祖を求めるならば室町・戦国期以前になるため、藩主牧野氏とは、異流か同族異流になるに過ぎない。 長岡藩主・「牧野家御系図」と、牧野平四郎家の家譜は、大きく異なる。最大の相違点は京合戦(応仁の乱)で、一色氏に与力のため参陣して疲弊した伝説上の人物、牧野平三郎成興に先祖を求めるのか、それとも当家の主家筋に当たる牛久保城主牧野氏に対して徳川・松平のために一時的に反旗を翻した、実在性の確認できる正岡城主牧野成敏に求めるかである。 牧野平三郎が牛久保牧野氏の一門衆であった根拠として享禄2年(1529年)、宝飯郡伊奈の住人、牧野平三郎某が牛窪に来て成勝に属す(『御家譜』長岡市中央図書館所蔵)とあるが、このときはまだ平四郎の記述はない。つまりこの牧野氏は、伊奈本多氏の拠点があった宝飯郡伊奈から、牛久保に来て一門衆に加えられたことになる。徳川家康の枢機に預かった本多正信と、伊奈城主本多忠次は、忠次から数えて8代前の先祖である本多助正を共通の祖とする説もあるが、伊奈本多氏と、正信家系とは別家系(あるいは同族異流)の出自である(近江国膳所藩を参照)。 牛窪に来てとは、伊奈本多氏から追放されて来たのか、出奔してきたものか、あるいは敗れて退散してきたものかなど、『御家譜』には明らかにされておらず、牛窪に来た動機と理由は不明である。 『宗長手記』によると大永7年(1527年)7月に、伊奈の牧野平三郎方に宿泊したとの記事があるほか、天文13年(1544年)に連歌師谷宗牧が東三河に訪れた際に牧野平三郎・平四郎兄弟が牛久保より出迎えた記事が『牛久保密談記』に見える一方で、牧野平四郎家の家譜には、平三郎という記述は見られず、田三郎とある。 牧野平四郎家譜からは、成興、忠高、氏勝の記載はみられず牧野平四郎家譜は、正岡城主牧野成敏の4男・新九郎氏成を祖としていることが特徴的であり、牧野平四郎の実兄を牧野田三郎であるとしている。 天文年間頃には、実在性が確実の牧野平四郎は、名を政成と云い直系子孫は、牛久保城主であった牧野氏に随従して、大胡・長岡・与板と移り、4代目牧野平四郎政成(4代前と同名)が、牧野八郎左衛門(初代)と通称を改めたものである(出典→長野県小諸市役所元助役・小諸藩士族会元会長 牧野一郎所蔵文書)・(当家・遠祖の詳細→三河牧野氏を参照)。なお牧野平三郎家の江戸時代の行方については未見である。 元和年間の家臣団名簿「大胡ヨリ長峰御引越御人数帳」などにも、牧野平四郎の名が見えるが、牧野武成が名を康成と改めて長岡の支藩として与板に分家・立藩した当初は、牧野八郎左衛門家は、家臣中次席の家柄とされたが、倉地氏が本藩の長岡に帰参してからは、家臣中筆頭の家柄とされた。 牧野八郎左衛門(初代)は、長男を廃し、2男を他家に養子に出し、3男に家督を相続させ、4男を分家として分出させた。 与板立藩当初ごろに4男牧野庄兵衛正長(50石)を分家として分出したが、その後に成立したとみられる牧野康道(在職明暦4年(1658年)〜元禄2年(1689年))分限帳に牧野八郎左衛門230石、牧野庄兵衛100石と見える。この分家々系は段々と立身して、家臣筆頭にまで累進した。 牧野八郎左衛門政成は、小諸移封時には若輩のため用人・加判の地位にあったが、宝永元年(1704年)に家老職となった。家臣筆頭役となった時期は不明である。享保6年(1721年)6月、病気で致仕となり、嫡子・牧野金之助種成が家督を相続。若輩のためか200石に減石されて側用人を勤めていたが、跡取りがないまま数え20歳で死亡した。小諸家臣山本金右衛門清継の庶子で、山本金右衛門清玄の実弟であった牧野庄左衛門成素は、牧野金之助種成より年長であったが、その死後に末期養子として当家に入り、側用人(160石)となった。享保17年(1732年)用人・加判となり、後に家老職には登用され、元文2年(1737年)64歳で死亡した。享保17年(1732年)の昇進にあたって家禄改訂の記録はない。小諸家臣山本氏から、牧野氏(牧野八郎左衛門家)に養子入りは、家臣筆頭格の家系を断絶から救うために行われたものであるが、この一件により牧野八郎左衛門家は、藩内での地位を大きく下げた。小諸家臣山本氏は、当時、奏者格の家柄であり牧野八郎左衛門家とは、近縁ではなく家柄に格式にやや差があるが、与板立藩時に家老職であった牧野八郎左衛門政成(=初代の八郎左衛門)2男・清成が山本氏に養子入りしていたので、男系の血縁にはなる。 次の牧野成載(異に載成)は、丹後国田邊藩主牧野氏の重臣・大貫氏の長男が牧野八郎左衛門家(牧野庄左衛門成素)の跡式を子細あって、相続したともいわれる。寛政期に、浅間山の噴火がおきて、凶作に悩まされたが、このときの浅間山を観察した、小諸藩城代家老・牧野八郎左衛門成載(異に載成)の日記は、史料学的価値が高いとされている。 牧野八郎左衛星門成載(異に載成)は寛政年間に、勝手方家老となっていたが、独断で多額の借金をして、藩財政に打撃を与えた。この事績を責められて失脚し、寛政6年(1796年)、退役・隠居・閉門を命じられ340石から、150石に減知された。惣領の牧野須磨之丞成寿に家督は認められたが、成寿も連座して押し込みの処分を受けた。この事件で家老の家柄を取りあげられたわけではないが、後に許されて牧野須磨之丞成寿は、分家の牧野勝兵衛成章の娘を内室(妻)に迎え、家老職となった。享和3年(1803年)用人・加判から、家老職見習いに出世したときに、持高が20石加増され、計170石となったが、この加増は1代限りとなった。 成載(異に載成)の名跡上、孫に当たる牧野成澄は、実は当時の牧野八郎左衛門家とは、8親等以上と推察される遠縁の本藩長岡家臣、新井氏の庶子にあたる人物であった。新井氏庶子であった牧野成寿が急ぎ養子入りして、持高150石で家督相続が認められた。 牧野成澄は、原則固定・世襲とされる持高も2度にわたって加増され、9代藩主康哉の治世が終わるまでに持高が計200石となり、この持高の世襲が認められた。城代家老にもなり籾米300俵(持高200石+家老手当100石)を支給され、笠間藩出身の9代藩主の治世になっても、藩主からの寵や、信任を失わなかった一方で、9代藩主康哉の改革で、結果的に分家筋の牧野庄兵衛家の家系(すなわち馬場町・牧野隼人進成聖の家系)より格下が定まり、家臣筆頭格連綿の筋目・家柄を、ついに回復することはできなかった。 嘉永5年、連枝にあたる牧野蔀家が、改易・取り潰しとなり縁坐で謹慎の懲戒処分を受けた。 元治元年(1864年)に、水戸浪士通行事件(天狗党の乱)で、小諸藩では牧野八郎左衛門成澄を総大将、この補佐に加判の太田宇忠太一道を添えて出陣したが、天狗党と遭遇せず、領内の通行を許して小諸藩兵は帰城した。この失敗の責めを2人は負って、翌年牧野八郎左衛門成澄は、家老職取りあげ・隠居となったが、減石処分とはならなかった。 父の家督を相続した牧野八郎左衛門成道は、このときすでに家老に次ぐ用人・加判にあったが役職を留め置かれて、しばらく家老職となることができなかった。やがて家老職となった牧野八郎左衛門成道(200石・100俵取り)は、一味を集めて、牧野隼人進成聖、加藤六郎兵衛成美、村井藤左衛門盛徳(成徳と誤記している2次史料あり)の取り計らい不審な行為をあげて、藩主に奏上して、藩政の刷新と、懲戒処分を求めた。そして牧野隼人進成聖を失脚させたのちに、牧野八郎左衛門成道は、自ら家臣筆頭に就任したとみられるが、本藩である長岡藩の調停で、取り消された。このとき牧野八郎左衛門成道と、牧野隼人進成聖は、名跡上は本末関係にあり、近縁者である一方、血縁上は近縁者でなくなっているだけでなく、分家の牧野隼人進成聖のほうが、役職上の格式、及び連綿する家の格式の双方において、牧野八郎左衛門成道より格上となっていた。 時代が下って、明治元年(1868年)11月9日、小諸騒動のため、朝敵となっていた本藩長岡藩の脱走兵を匿ったことを口実に、城代家老・牧野八郎左衛門成道は、他の3名(真木・高崎・高栗)と共に斬首刑に処せられ、家族は小諸城下から追放され柏木の小山又四郎方において軟禁状態におかれた。京に遊学中の牧野庄次郎は、帰国を命じられ一人だけ在所の当家屋敷に監禁された。加藤六郎兵衛成美・牧野求馬成賢等が失脚後に家族は呼び戻され家名再興が許され、牧野荘次郎成行(異に庄次郎)が名跡を再興して席次は元席に戻った。 牧野荘次郎成行の正室には、牧野隼人進成聖の女子が輿入れして、3度名実ともに近縁となり、両家の和睦がなった。もっとも牧野隼人進成聖には、牧野八郎左衛門成道・牧野荘次郎成行親子と、初めから、最後まで敵対しようとしたり、家老職の昇進を不当に止めたり、失脚を画策した事実はなかったと解説する記事も存在する。また牧野荘次郎成行は、父と一味であった太田道一の推挙により、明治期に小諸銀行取締役となった。
※この「牧野氏(牧野八郎左衛門等の家系)」の解説は、「小諸藩牧野氏の家臣団」の解説の一部です。
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