譜代大名となった牧野氏とは? わかりやすく解説

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譜代大名となった牧野氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:31 UTC 版)

三河牧野氏」の記事における「譜代大名となった牧野氏」の解説

近世譜代大名牧野氏は「三河物語」・「徳川実紀」などの徳川方史料において、その先祖が松平家徳川家)の三河国統一過程東三河頑強に抵抗した勢力であった牛久保城牧野氏として登場する三河国内で今川家の力が後退するまでこの抵抗続いたとされる三河牧野氏宝飯郡牛久保城渥美郡吉田城今橋城)を牙城にしていたが、16世紀初めに駿河国戦国大名今川氏帰属していた。やがて、牧野氏西三河勢力を急拡大した松平清康により、享禄2年1529年)から天文元年1532年)の侵攻吉田城奪われた。宝飯郡牛久保城拠点としていた牧野氏吉田城牧野家同族)も、その際清康服属している。 しかし、天文4年1535年)の守山崩れ松平清康落命すると牛久保牧野氏は再び今川氏帰属し、その傘下勢力盛り返した。しかし、天文6年1537年)に今度戸田康光吉田城奪われた。しかし、今川氏戸田氏滅ぼされたことで、今川氏に従っていた牧野氏は再び勢力回復させる清康の孫の徳川家康による、永禄4年4月からの東三河侵攻に対して今川方として頑強に抵抗するが、一族からも次第徳川氏転属する者が現れ始める。永禄5年1562年2月には「三州錯乱」の収束目指し牧野氏宗主今川氏真親征したが、家康との直接対決敗れた次いで同年9月東三河駐留今川軍三州東岡合戦三州八幡の戦い大敗翌年3月牛久保城外の戦いで今川支持者牧野保成死去すると、東三河諸勢の今川氏離反決定的となった結局、氏真の援軍得られ孤立した城主牧野成定永禄9年1566年5月までには服属した。 以後牧野氏は、家康国衆列して東三河旗頭として吉田城詰めた酒井忠次配下となり各地転戦している。天正18年1590年家康関東入りの際、牛久保牧野家譜代大名列した(→牧野康成 (大胡藩主))。また、この大胡藩牧野家から長岡藩笠間藩小諸藩三根山藩)の徳川譜代各藩成立した近世大名牧野氏宗家であるとされる長岡藩牧野家がいつ譜代列したかを特定できる史料知られていないが、『柳営秘鑑』を根拠とすれば、およそ1570年-1590年の間に譜代列したことになる。

※この「譜代大名となった牧野氏」の解説は、「三河牧野氏」の解説の一部です。
「譜代大名となった牧野氏」を含む「三河牧野氏」の記事については、「三河牧野氏」の概要を参照ください。

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