譜代大名となった牧野氏
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「三河牧野氏」の記事における「譜代大名となった牧野氏」の解説
近世の譜代大名牧野氏は「三河物語」・「徳川実紀」などの徳川方の史料において、その先祖が松平家(徳川家)の三河国統一の過程に東三河で頑強に抵抗した勢力であった牛久保城の牧野氏として登場する。三河国内で今川家の力が後退するまでこの抵抗は続いたとされる。 三河牧野氏は宝飯郡の牛久保城と渥美郡の吉田城(今橋城)を牙城にしていたが、16世紀初めには駿河国の戦国大名今川氏に帰属していた。やがて、牧野氏は西三河で勢力を急拡大した松平清康により、享禄2年(1529年)から天文元年(1532年)の侵攻で吉田城を奪われた。宝飯郡の牛久保城を拠点としていた牧野氏(吉田城主牧野家の同族)も、その際に清康に服属している。 しかし、天文4年(1535年)の守山崩れで松平清康が落命すると牛久保牧野氏は再び今川氏に帰属し、その傘下で勢力を盛り返した。しかし、天文6年(1537年)に今度は戸田康光に吉田城を奪われた。しかし、今川氏に戸田氏が滅ぼされたことで、今川氏に従っていた牧野氏は再び勢力を回復させる。清康の孫の徳川家康による、永禄4年4月からの東三河侵攻に対しても今川方として頑強に抵抗するが、一族からも次第に徳川氏に転属する者が現れ始める。永禄5年(1562年)2月には「三州錯乱」の収束を目指した牧野氏の宗主今川氏真は親征したが、家康との直接対決に敗れた。次いで同年9月に東三河駐留今川軍は三州東岡合戦・三州八幡の戦いに大敗、翌年3月牛久保城外の戦いで今川支持者の牧野保成が死去すると、東三河諸勢の今川氏離反は決定的となった。結局、氏真の援軍を得られず孤立した城主牧野成定も永禄9年(1566年)5月までには服属した。 以後、牧野氏は、家康の国衆に列して、東三河の旗頭として吉田城に詰めた酒井忠次の配下となり各地に転戦している。天正18年(1590年)家康の関東入りの際、牛久保牧野家は譜代大名に列した(→牧野康成 (大胡藩主))。また、この大胡藩主牧野家から長岡藩・笠間藩・小諸藩・三根山藩)の徳川譜代の各藩が成立した。 近世大名牧野氏の宗家であるとされる長岡藩主牧野家がいつ譜代に列したかを特定できる史料は知られていないが、『柳営秘鑑』を根拠とすれば、およそ1570年-1590年の間に譜代に列したことになる。
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