三河移住時期の矛盾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/21 06:41 UTC 版)
系図は高貴人・偉人の子孫に仮冒する例がしばしば見られるが、三河真木氏が真木定観の末裔とする根拠は中條神社社記以外には見ることができない。 真木定観は大和国を在所とする一方で、中條神社神官牧氏(槇氏)は河内国古市郡から、渡来したとしているため、隣国とはいえ地域的にやや離れた場所を故地としている。 真木定観は、大和国宇智郡牧野邑(奈良県五條市中之町)発祥の清和源氏宇野氏の氏族・真木野氏(牧野氏とも表記)であるとされるが、その出自については史料も乏しく確定的な系譜も知られていない。『太平記』の記述によれば、この真木野氏は護良親王を奉じて大和国上村城で籠城した南朝系武士であるとされる。 しかし15世紀後半と推定される三河国宝飯郡牧野城主の牧野成富、及びこの末裔となる譜代大名となった牧野氏は、北朝系武士であるとされ、大和国真木野氏(牧野氏)との系譜的関連性は史料上、見出されていない。 三河国宝飯郡(豊川市)の中條神社は、1350年(南朝:正平5年、北朝:観応元年)の創建を伝えるが一方で、真木定観は、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)に後村上天皇を奉じていることが、『太平記』に記述されているが、これは年代的に前後する矛盾点がある。すなわち、真木定観の子や孫が、南朝軍敗退の前に定観を残したまま、敵方の足利氏分国である三河国の宝飯郡鍛冶村に渡来したことになり、疑問が残る。
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