中條神社社記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/21 06:41 UTC 版)
槇家系記を基礎に書かれたとみられる中條神社の社記を根拠とする移住伝説等によると、南朝の拠点であった吉野山に最後まで踏みとどまった真木定観の末裔たちが、宝飯郡中條郷に渡来して、刀鍛冶になって創建し、同地を鍛冶村と呼んだとしている(諸説あり)。 社記によると1350年(南朝:正平5年、北朝:観応元年)、河内国古市郡真木村より、金山比古神(金山彦神・かなやまひこのかみ)・金山比売神(金山姫神・かなやまひめのかみ)を奉じて渡来したとする。 渡来後の約10年後にはじめて社殿が造られた。 江戸時代の加知天神の神官神職は、槇氏(牧氏)にほぼ独占されていたが、その先祖は真木定観であるとしている。加知天神は三河国神名帳にみることができ、明治・大正期に近隣の小さな神社・社(やしろ)を合併・吸収したが、村社の熊野神社を合祀したことを契機に、1914年(大正3年)1月7日から中條神社と称するようになった。同神社内に鎮座する金山彦大明神の棟札(成立年月不詳)に真木伊右衛門・真木宗太郎が見える。 しかし、厳密には、中條神社社記をはじめとする同神社関係の古文書には、神官神職に牧氏・槇氏と云う表記を見ることができるが、真木姓の表記は見い出だせない。
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