真木氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 15:50 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動主な流れとして、次の一族がある。
- 三河真木氏 室町・戦国期の三河国宝飯郡の豪族。真木越中守、同善兵衛。牛久保城主牧野康成と兄弟分の契りを結んでいた。越後国長岡藩・上級家臣の槙氏・真木氏、及び信濃国小諸藩・上級家臣の真木氏の先祖となる。宝飯郡牛久保城主(豊川市)・牧野保成の女官に真木花藻。また愛知県豊橋市・豊川市地域では、鍛冶屋を先祖の職業としていた人に真木姓が多い。
- 真木氏 (牧野家重臣) は、上記の末裔である。
- 佐賀藩士真木氏 藤原秀郷流真木氏で、建武年間に朝敵として九州に都落ちした足利尊氏に随従して太宰府の豪族少弐氏の家臣となった家系。少弐氏は、龍造寺氏に家を乗っ取られ、さらに龍造寺氏は鍋島氏に家を乗っ取られたため、真木氏は佐賀藩主鍋島氏の家臣となっていた。佐賀藩士の真木長義は、男爵・海軍中将となった。
- 駿河真木氏 藤原秀郷流真木氏。上記3の同族異流。北条時政の妾・牧の方の実家の家系。
- 甲斐真木氏 甲斐槙氏の同族異流。都留郡真木村(大月市)発祥の真木氏。
- 武蔵真木氏 深谷(埼玉県北部)の真木氏。
- 石見真木氏 石見国(島根県)の豪族。戦国大名の尼子氏の重臣とされた尼子十旗の真木氏。この地域では鍛冶屋を先祖の職業としていた人に真木姓が多い。
- 美作真木氏 美作国(岡山県山間部)の豪族。英田郡などの真木氏。
- 大和真木氏 清和源氏。太平記収載の真木定観。
- 肥後真木氏 合志郡真木邑発祥の真木氏。
- 奥州真木氏 磐城・石川郡の真木備中守。
- 常陸真木氏 小田知重は、鎌倉幕府の有力御家人から小田城主となった。その弟・家政は、宍戸姓を称する。家政から5代目の宍戸朝里の3男、家里が新治郡園部村真木に分家を立てて、真木姓を称した。マイク真木は、先祖の出身地を茨城県であると述べている。
- 水戸藩士真木氏 常陸国水戸藩徳川家の財政再建を担当した郡奉行・真木景嗣(彦之進)。
- 久留米藩士真木氏 水天宮神官で、久留米藩・中小姓格の家柄。尊皇攘夷の志士 真木保臣(真木和泉)を輩出した家系。
- 佐々成政家臣真木氏 戦国大名の佐々氏重臣・真木中務。
同族異流
全国的にみて真木氏は、牧野氏・槙氏・牧氏・巻氏の同族異流であることが比較的多いので、真木氏を研究するにあたっては、同じ地域に、これら該当する姓が多い場合(あるいは有力な該当姓を持つ豪族などがあるとき)は、あわせて考察してみる必要性がある。
真木(槇)氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/15 19:53 UTC 版)
「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「真木(槇)氏」の解説
藩主・牧野氏と兄弟分の筋目・士分上禄に3家が着座。 真木(槇)氏は、橘姓を本姓とするが、源姓を称した南朝の忠臣・真木定観の末裔とする説もある。 三河国宝飯郡(愛知県豊川市及び、その周辺)の槇氏の史料学的な初見は、南朝正平5年・北朝観応元年の1350年のことである(槇家系記・中條神社社記)。現在の豊川市中条町に本拠地を持ち、戦国大名・今川氏の三河国侵略に協力して、牧野氏股肱の寄騎(あるいは年寄)として、発展した(三河真木氏)。そして、三河国内の土豪であった田原の戸田氏・岡崎の松平氏(徳川氏)・伊奈の本多氏などと対立して抗争を繰り広げた。 永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、織田信長の奇襲に敗れて今川義元が討ち死にした。戦後、戦国大名・今川氏の衰亡が、次第に明らかになり、今川氏を離れて、岡崎に自立した家康に内通したり、服属する者が増える中で、東三河の牧野出羽守一族と、真木越中守定善等の今川支持派は、依然として、これに固執(あるいは義理を重んじていた)。 特に真木(槇)氏は、室町及び戦国時代における牧野氏の根城である吉田城(豊橋市)と、牛久保城(豊川市)を守り、数度に渡り、松平(徳川)氏と衝突した。真木越中守定善の父は、永禄4年(1561年)4月に、家康配下の軍勢によって、夜襲を受けた牧野氏の牙城・牛久保城を死守するため獅子奮迅の働きをして討死した(東京大学真木家文書など)。 永禄7年〜8年(1564年〜1565年)ごろの真木越中守定善の動静は、ほかの牧野組の諸士に習って、家康の降伏勧告を受け入れ追放・蟄居は免れていた。しかし、牧野組は、家康の国衆となった牧野成定・康成親子を新たな盟主として、今川派の牧野出羽守一族を追放して新体制となった。新体制の牧野組に残留した真木氏は、当然に新体制の牧野組の中での発言権は、大幅に低下したものと推察される。永禄12年(1569年)、真木氏は一向一揆鎮圧のため出陣して戦傷死した。その妻は後追い自殺をした。 真木氏は、天正18年(1590年)、三河国牛久保城主から、上野国大胡城主(群馬県前橋市東部)2万石に栄転した牧野氏から、その家老首座を上まわる家中(かちゅう)最高家禄となる食禄3,000石を与えられこれに随従。この時点では、まだ牧野氏の客人分であって、家臣ではなかった。 やがて大胡藩主牧野氏は、豊臣氏を滅亡させた大坂夏の陣の勲功などにより、越後国長岡藩6万石(後に7万4千石)に栄転した。真木氏は、藩主牧野氏の先祖が、今川氏に服属していた時代の功労が大きく、家康服属後には、殊功がそれまでなかったが、真木氏庶系の真木金右衛門は、服属後となる大坂夏の陣で武功をあげた。 元和年間の家臣団名簿である「大胡ヨリ長峰御引越御人数帳」には、真木(槇)姓の者が、多数見える。この前後に真木氏は牧野氏に家臣団化されたとみられるが、これを嫌って、牧野氏の旗下を一時、真木氏当主(真木清十郎重清・通称は越中守)が出奔した。 長岡藩主・牧野忠成は三顧の礼を持って、出奔した真木氏当主を呼び戻したが、牧野氏の旗下に出戻った家系は、真木を槇と改めその筋目から特権的な家臣となった。真木(槇)氏は、藩主牧野氏の先祖(牧野新次郎)と兄弟分の契りを交わし、水魚の交わりをなした家柄であったとされる(出典、長岡藩関係文書の『温古之栞』など)。長岡藩では、特別な筋目と由緒から特権的家臣として扱った3家を、特に先法家と呼んだ。槇氏(本姓真木氏)は、この3家の中で最有力の1家に数えられていた。 しかし、『温古之栞』などの伝説は美談として、後世にまとめたものであって、真木(槇)氏は、江戸時代初期当時では、死罪もあり得る「当主出奔」によって、厳しい減石処分を受けたが、その筋目と由緒から、特権的家臣として残さざるを得なかったともいえる。 他方、当主の弟は出奔せずに残留して、長岡家臣1700石となったので、この家系は、引き続き真木を称した。小諸真木氏は、出奔せずに残留した弟家系の出自で、小諸真木氏の家祖となったのは、大坂夏の陣で殊功をあげた真木金右衛門であった。 真木金右衛門惣領の真木権左衛門は、長岡藩主・牧野忠成の2男武成が与板侯として分家・立藩したときに、番頭として長岡から移動した。当時の与板藩には用人・加判は設置されていなかったので、番頭は家老に次ぐ役職である。2代目の真木権左衛門は、与板藩の在所家老に累進し、3代目となる真木六郎兵衛もまた、与板の在所家老に就任した。 江戸時代中期になると、長岡家臣の真木氏は、たび重なる不祥事により、名跡こそ残してはいたが、没落していた。明治初期に士族の教会との異名を持つ信州上田教会(現、日本キリスト教団上田教会)指導者の1人となり、小諸でも布教活動を行ったことで知られる真木重遠(日本キリスト教大辞典に収載)は、この家系の出自であり、旧小諸藩士ではなく、旧長岡藩士であった。その一方で槇氏は、長岡で先法家と呼ばれた特権的地位を、廃藩まで保持した。 元禄年間、長岡重臣(先法家)の槇勘左衛門重全が、天然痘となり重篤となったため、かわりに庶系の槇権左衛門が奉公した。槇勘左衛門重全は奇跡的に回復して、実子を儲けた。ほぼ同じころ与板侯牧野氏は、小諸城主に栄転となったが、このときの家老に真木六郎兵衛が見える。 史料が一部公開されていない(あるいは欠如している)ため、享保年間に400石で家臣筆頭となった真木(槇)権左衛門則成以前の小諸家臣真木氏の細かい事績は不明であるが、真木権左衛門則成から3代に渡り、家臣筆頭役を勤めている。小諸家臣真木氏は、与板在封期には槇姓を使用することが、全くなかったが、小諸藩に移封後、特に移封時の家老職・真木六郎兵衛が退役してから、槇姓を用いることが多くなった。長岡家臣・槇権左衛門系から小諸家臣真木氏に養子入りをしたと推察、想像させる記述もあるが、断定する根拠は未見である。真木六郎兵衛は嫡子・六之丞に家督を譲ったとの記述しか公開されていない。 真木権左衛門則成の甥・真木市右衛門が100石で召し出されているが、別家召し出しによる新恩給付なのか、分家として分出されたものかは、史料がなく不明である。真木市右衛門家は、2代目の真木九郎次から当主若輩や、幼少が続いたため100石に満たない家禄となり、宝暦期に3代目が幼少で、出仕しないまま夭折した。幼少当主が跡取りを残さず死亡したので、末期養子は認められず無嗣廃絶となった(改易)。当家が立てられた時点の真木権左衛門家は400石であった。真木市右衛門家が分家の分出であったとすれば、真木権左衛門家の家禄は400石を越えていた可能性もあるが仔細不明である。 また小諸移封後に、分家として分出された真木水右衛門家(家老真木権左衛門則成の2男が家祖)と、同じく真木九馬左衛門家(家老真木権左衛門則成の3男が家祖)がある。もっとも真木水右衛門家は、与板家臣であった真木庄右衛門家の名跡再興であったとみられる記事もある。 真木権左衛門則成から家督を相続した真木権左衛門則復も、父と同じく家臣筆頭役・家老職となった。退役・隠居後の家督は分家の真木九馬左衛門家から養子入りした真木造酒二郎が真木権左衛門則陽と名を改めて家督を相続、のちに家臣筆頭役・家老職となった。真木権左衛門則陽には、はじめ男子がなく、藩主家から、養子幸十郎を迎えたが、元服前に死亡した。その一方で真木権左衛門則陽には、はじめから男子があったとみられる記事もある。寛政8年に家督を相続した真木兵橘は、320石のうち、父の加恩に相当する150石を減石されて170石を認められた。 当家は、小諸に移封直後から江戸詰め連綿の家柄であるとされてきたが、寛政4年(1792年)、在所小諸に引越し。隠居していた首席家老経験者の槇権左衛門則陽も、小諸に移転後、病死した。槇権左衛門則陽までは、槇姓で葬られた。真木氏は、小諸に屋敷を構えるようになったが、維新まで数回の屋敷替えをしている。 真木(槇)玄橘は、寛政7年給人となり170石、文政3年(1832年)奏者となったが同じく170石。文政12年に成立した文政分限に227石とあるため、文政3年(1820年)から文政12年の間に、役職が同じであるにもかかわらず57石の加増があった。これについては諸説が考えられる。 真木兵橘の役高(役職分)は、家柄より常に低い役職に就任していたため、当然ゼロであった。しばらく病身で出仕していない期間があり、世襲とされる持高を170石に減石され、再出仕後に200石となり、天保3年(1832年)隠居。家老連綿とされる真木権左衛門家の歴代当主の中で、真木兵橘は当主36年に及んだが、そのほとんどの期間が家老職より4階級も低い奏者職にあった。真木兵橘は、227石の持高を支給されたこともありながら、要職に就任したり業績があったとする文献は未見である一方で、大きな懲罰を受けた形跡がまったくない。 天保3年(1832年)、真木権左衛門則義は、200石の持高の内、150石の相続を認められた。父が病身などの理由により、奉公が充分にできなかったことが理由である。その一方で、牧野勝兵衛家の牧野成章から、成裕の相続例と同じと見ることもできる。すなわち長期病身分の減石は27石で、50石の減石は役職手当増額整備による改革による減石である可能性もある。 真木権左衛門則義は小納戸、同9年給人、側用人、天保15年用人見習・加判、弘化5年(1848年)に用人本職となったが、見習期間が異常に長かった。嘉永4年(1851年)末、出火したが重い処分を受けていないため、ボヤであったとみられる。その後、真木氏としては40数年ぶりに家老職(在所)に進み、父の死により、その家督を相続した真木要人則道も、用人職等を経て家老職(在所)となった。 分家2家の家系が、家格を上げたことで、家老・真木権左衛門家とその支族は、1家を無嗣廃絶で失ったが、小諸藩内で一層、有力となっていった。2つの分家の当主の中には罪を責められた者もいたが、大きく失脚することはなく、分家2家は維新まで連綿したため、3家共に、士分上禄が認められた。士分上禄3家は、同藩において、真木氏以外には存在しない。 真木権左衛門則成2男を祖とする分家(あるいは真木庄右衛門家、名跡再興の家)2代目は、実は、その当時、深刻な財政危機に陥っていた信濃高遠藩33,000石(藩主・内藤氏)家老の庶子が招聘されたものである。当家の女子と藩主の内旨で縁組したことで、班を進めた。このような招聘事例が本間氏にもある。高遠藩家老の庶子が婿入りして当主となって以来、真木水右衛門家は若輩当主と、文政年間後半から幕末近くの当主1名を除いた全ての当主が番頭職もしくは、江戸留守居役・御城使などの番頭級以上の役職に就任して、これを勤めあげた。 真木水右衛門家は、天保9年10月17日、江戸城和田倉門勤仕中に、その職務の次席にあったが失態(軽微な火の不始末)があり、その連帯責任が問われて懲戒処分を受けている。また嘉永5年12月、牧野蔀家の改易・取り潰しに伴い、その近縁者となるため、縁坐で謹慎の懲戒処分を受けた。 真木権左衛門則成3男を祖とする分家は、その2代目である真木造酒右衛門則芳が、班を進めて明和3年12月26日、当家として初めて用人・加判となる。実は真木造酒右衛門則芳は、小諸家臣・山本金右衛門(重右衛門清福)家の庶子が養子入りしたものであった。山本清福は、家老牧野八郎左衛門成素の甥にあたる。真木則芳の庶子、則陽を本家の真木権左衛門家に養子に出して、後に首席家老としたことで、当家は家老の家柄で家老職となった2名の近縁者となった。 実父則芳から家督を相続した真木九馬左衛門則寅は、実弟が家老職となったが、家督した家の格式の違いから、弟の後塵を拝するようになった。寛政2年3月1日、江戸留守居役であったとき、牧野備後守に不調法があった。謹慎・縁坐の適用となったが、本家(長岡藩)の口添えがあり許された。寛政5年、用人見習・加判で江戸留守居役兼帯。翌年用人本職。 次いで実父から家督を相続した真木九馬左衛門則高も、用人・加判に進んだ。しかし、真木則高は天保9年10月17日、江戸城和田倉門勤仕中にその責任者(首席)の地位にあったが失態があり、謹慎・持高減石・格式降格の懲戒処分を受けた(これより奏者格)。失態の内容は軽微な火の不始末の監督責任であったが、公儀御用であったため、重大視された。また則高には3人の男子があり、長男は夭折し、次男の真木則直が妻子を持ったが、家督相続前に若くして死亡。このため真木則高は、小諸藩家老木俣氏の庶子を養子に迎えた。家老木俣氏は長岡家臣槇氏(本姓真木氏)から、木俣氏に養子入りした者であった。3男の金太郎は真木水右衛門家に養子入りさせた。真木則寅までに3代連綿して用人・加判職となったが、この職を勤めあげることができずに格下げとなったので、則高は格式回復のため、かなり焦って無理をした形跡が各種一次史料から読み取れる。 木俣氏から養子入りした真木九馬衛門則孝は、奏者格の格式で物頭職に班を進めた。養子の則孝は、婿養子ではなく亡き真木則直の妻子と対立を深め、嘉永年間ごろより家内騒動になり、ついに則直の女子は出奔・家出をして捕まると自害したとされる。ここに真木九馬衛門則孝は、藩内・家中を騒がせ家内不取締まりを責められて懲戒処分を受け、謹慎となり、奏者格・奏者職に格下げとなった。 その後、真木九馬左衛門則孝は、元席に復して昇進し、番頭級の江戸留守居役に就任したが、真木九馬左衛門家の父祖が獲得した家の格式を回復することはできなかった。則孝には跡取りがなかったので、真木水右衛門家から真木鐘次郎則忠が急ぎ養子入りした。なお真木金太郎は、真木水右衛門家に養子入り後に、子を持つことなく死亡していた。真木水右衛門家は、金太郎の死後、長岡家臣から婿養子を求めたので、養親子関係となった真木九馬左衛門則孝と、真木鐘次郎則忠には、叔父・甥の血縁関係は存在しない。金太郎の死後、長岡家臣から婿入りした時期は、牧野八郎左衛門成澄が長岡家臣から養子入りしたときと、おおむね同じである。後の8代藩主康命が長岡藩から、養子入りした時期でもある。 明治元年(1868年)11月9日、小諸騒動のため、朝敵となっていた本藩である長岡藩の脱走兵を匿ったことを口実に、真木権左衛門家の当主であった在所家老・真木要人則道は、他の3名(牧野・高崎・高栗)と共に斬首刑に処せられ、家族は城下から追放され正眼院において軟禁状態におかれた。京に遊学中であった真木守人は、帰国を命じられ一人だけ在所の当家屋敷に監禁された。加藤六郎兵衛成美・牧野求馬成賢等が失脚後に家族は呼び戻され、真木守人則近に家名再興が許され、席次は元席に戻った。 真木要人則道が斬首のとき、在所にいた若輩の真木鐘次郎則忠(真木九馬左衛門家)は、本家の改易・斬首で縁坐が適用されたとみられるが、重い処罰はなかった。斬首執行時、真木力太則徳(真木水右衛門家)は、江戸詰めであった。真木要人則道の改易・斬首で縁坐が適用されたほか、太田氏出奔の手助けをしたため、真木鐘次郎則忠とは異なり、江戸で謹慎が長く続いた。しかし、加藤・牧野求馬派失脚時(明治2年9月)、明治新政府(刑部省)から、謹慎には及ばずとの命令を受け復権。後に家令上席・家扶長に就任した。 真木力太等が、信濃国松代藩(藩主・真田氏)宛に、「藩主遠江守が(小諸騒動による)謹慎を解かれたので、小諸藩江戸藩邸に(松代藩主におかれては)来遊されたい」旨、打診した書簡が現存(独立行政法人国文学館資料館所蔵、松代藩真田家文書)。
※この「真木(槇)氏」の解説は、「小諸藩牧野氏の家臣団」の解説の一部です。
「真木(槇)氏」を含む「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事については、「小諸藩牧野氏の家臣団」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 真木氏のページへのリンク