出羽守
出羽守とは、出羽守の意味
出羽守とは、海外(特に欧米)の習慣や事柄を引き合いにして、日本のことを貶すような言動を取りがちな人のこと。出羽守の本来の意味は、律令制における地方官のうち、出羽国(現在の山形県と秋田県)の国司を指す言葉である。最近では、「海外では〜」などと話し始め、「それにひきかえ日本は〜」などと日本を卑下する言動をとる人を揶揄する意味として使われるようになった。この意の場合は特に「海外出羽守」などともいう。英語で表現すると「tend to compare」(比べたがり)となる。対義語は「身内贔屓」(みうちびいき)。出羽守説法
出羽守説法は、他国(特に欧米)や他業界などを論拠にして自論を展開するものである。そのような出羽守的論法の根底には「自分だけが知っている」という優越感が漂っている。元々は海外居住の日本人が自分の住んでいる国や地域を引き合いにして、日本を揶揄するようなことが多かったが、その中には自論を補強するための誇大な表現や極論、意図的なのか無意識なのかは別として嘘も混じっていたようである。出羽守と同系統の言葉
出羽守の語源は「欧米では〜」や「海外では〜」などの「では」に由来する。同系統の言葉として「それゆえ日本は終わりだ」などと日本のことを悲観的に論じる「尾張守(おわりのかみ)」、当てずっぽうで予言したことが偶然的中した、または後出しジャンケン的に「実はそう思っていた」など事後に「それみろ」と得意になる「備後守(ビンゴのかみ)」などがある。出羽守
でわ‐の‐かみ〔では‐〕【出羽▽守】
出羽守
出羽守とは、とかく海外や異業種の事例を引き合いに出して難癖をつけたがる人を指す、俗な表現である。海外(外国)の事例と比較して日本はダメだと嘆く人を特に「海外出羽守」と呼ぶこともある。
出羽守という言葉はそもそもは旧国名「出羽国」の国司、すなわち長官の役職名である。「でわ(出羽)」の音が共通しているだけでなく、「守」の字からも「偉そうに上から物を言う」ようなニュアンスを汲み取ることができる。
出羽守の論難は、比較を論拠としているため、端的かつ明確という印象を抱かせやすい。他方、往々にして、見方が一面的・表面的・短絡的になりがちでもある。自身の主張に都合のいい特殊事例を引き合いに出しているだけだったり、事の経緯や背景事情を無視していたりして、比較的あっさり論破されるケースもままある。
出羽守
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:13 UTC 版)
多治比家主 - 養老7年(723年)多治比池守の子。 田辺難波(田辺難破) - 天平9年(737年) 藤原田麻呂 - 天平宝字7年(763年)陸奥出羽按察使。 文室綿麻呂 - 延暦20年(801年)正月(出羽権守) 大伴今人 - 弘仁2年(811年)3月に出羽守として武功。 藤原興世 - 元慶2年(878年)元慶の乱で逃亡。 藤原保則 - 元慶2年(878年出羽権守。 藤原義理 - 長保2年(1000年)出羽守として馬を献上 平季信 - 長保3年(1001年)任官。出羽弁の父。 藤原済家 寛弘6年(1009年)任官。 源親平 - 寛弘9年(1012年)任官。 大中臣宣茂 - 長和6年1017年任官 大江時棟 - 寛仁4年(1020年)任官。 多米国隆 - 万寿4年(1027年)任官 藤原為通 - 長元5年(1032年)任官。 源兼長 - 永承5年(1050年)任官。 源忠国 源斉頼 - 天喜5年(1057年)任官。 源義家 - 康平6年(1063年)任官。 中原師元 - 大外記兼明経博士。 平正衡 - 承徳3年(1099年)任官。平清盛曾祖父。 源光国 - 天仁2年(1109年)任官?。天永元年(1110年)出羽国寒河江荘に濫入した(『殿暦』)。 平信兼 - 久寿3年(1156年)任官。 高階泰経 - 保元3年(1158年)任官。後白河院側近。 秩父重綱 - 久安4年(1184年)出羽権守を務めていた。 藤原秀能 - 建保4年(1216年)任官。 中条家長 - 貞応2年(1223年)任官。評定衆。 二階堂行義 - 嘉禎3年(1237年)任官。評定衆。 二階堂貞藤 - 政所執事。法名道蘊(どううん)。 寒河江元時 大宝寺淳氏 - 寛正3年(1462年)任官。
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