国政を司る
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290年4月、司馬衷(恵帝)が即位すると、国子祭酒に任じられ、右軍将軍を兼任した。 291年3月、司馬衷の皇后賈南風は司馬炎の外戚楊駿の権勢を妬み、恵帝の弟であった楚王司馬瑋らと結託して政変を起こした。司馬瑋の軍勢によって殿中が制圧されると、裴頠は楊駿の配下であった劉豫の下に向かい、「太傅(楊駿)は2人の従者を従えて、白い車に乗って西へ向かわれました」と嘘を伝えた。劉豫は楊駿に見捨てられたと思い「私は一体どうすれば良いのだろうか」と尋ねると、裴頠は「廷尉に出頭されるのが宜しいかと思われます」と答えた。劉豫は兵権を裴頠に預けて廷尉に向かい、これにより楊駿の配下を穏便に接収する事に成功した。その後楊駿が誅殺されると、この功により裴頠は武昌侯に封じられたが、裴頠はこれを辞退して嫡流にある兄の子の裴憬を代わりに封じるように請うた。最終的には自身の次男であり、恵帝の娘婿でもあった裴該が封じられた。 同年6月、賈南風は国政を掌握していた汝南王司馬亮と録尚書事衛瓘を排斥するため、楚王司馬瑋に密詔を与えて彼らを殺害させた。さらに、司馬瑋が独断で詔書を偽造して司馬亮と衛瓘を殺害したと宣言し、司馬瑋を捕らえて処刑した。この事件以降、賈南風は賈謐・郭彰ら一族と共に天下を専断するようになり、当時評判のあった張華に政権運営を委ねる事を考え、賈一族と姻戚関係にあった裴頠にこの事を相談した。裴頠はかねてより張華を重んじていたので、これに賛成した。裴頠もまた侍中に抜擢され、張華・賈模と共に朝政の重臣として国政に携わった。 裴頠は学校の修建を上奏したほか、石碑には経書の内容を刻印し、皇太子司馬遹への教育として書物を読ませて儀礼を学ばせた。また儒教の思想を重視し、釈奠を行って孔子を祀うなどした。また、荀勗の定めた律度(古代の計度)を学び、古尺(度量衡の基準)を研究した。古尺は当時に用いられている基準よりも4分余り短かったので、裴頠は上表して、古代と現在とでの度量衡の差異が、医療上の問題の温床となっている可能性を訴え、度量衡の改訂を進言したが、これは認められなかった。 296年、趙王司馬倫は洛陽に入ると、賈南風に媚び諂って録尚書事や尚書令の地位を求めた。しかし裴頠は彼の人となりを軽蔑していたため、張華と共にこれに反対した。これにより両者は司馬倫の恨みを買う事となった。 魏晋の時代は清談は流行するようになり、琅邪王氏の出身である王衍などは名望も高かったが、清談による空論を好んで実務を軽視し、朝廷の士大夫らもこれに追従したため、裴頠はこうした風潮を深く憂慮するようになった。297年には著書『崇有論』において「清談を行う者達は衒学的な文章で人々を惑わし、虚無を貴ぶ気風を形成している。これにより国家の大事が軽視され、実務が疎かとなり、職務に忠実な者が少なくなった。今の世では虚無を口にすれば『玄妙』と称えられ、官に就いても職を全うしなければ『雅遠(高雅)』といわれ、廉潔を守らず汚職をしても『曠達(豁達)』と褒められる有様となった。虚無は決して民衆に益となるものではない」と清談の弊害を広く訴えたが、当時すでに清談の気風が定着していたため、『崇有論』はなかなか受け入れられなかった。また王衍とその側近らとも、清談の在り方を巡って幾度となく激論を交わした。
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