国政を司るとは? わかりやすく解説

国政を司る

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 08:08 UTC 版)

裴頠」の記事における「国政を司る」の解説

290年4月司馬衷恵帝)が即位すると、国子祭酒任じられ右軍将軍兼任した291年3月司馬衷皇后賈南風司馬炎外戚楊駿権勢妬み恵帝の弟であった楚王司馬瑋らと結託して政変起こした司馬瑋軍勢によって殿中制圧されると、裴頠楊駿配下であった劉豫の下に向かい、「太傅楊駿)は2人従者従えて、白い車に乗って西へ向かわれました」と嘘を伝えた劉豫楊駿見捨てられたと思い「私は一体どうすれば良いだろうか」と尋ねると、裴頠は「廷尉出頭されるのが宜しいかと思われます」と答えた劉豫兵権裴頠預けて廷尉向かい、これにより楊駿配下穏便に接収する事に成功したその後楊駿誅殺されると、この功により裴頠武昌侯に封じられたが、裴頠はこれを辞退して嫡流にある兄の子の裴憬を代わりに封じるように請うた。最終的に自身次男であり、恵帝娘婿でもあった裴該が封じられた。 同年6月賈南風国政掌握していた汝南王司馬亮と録尚書事衛瓘排斥するため、楚王司馬瑋密詔与えて彼らを殺害させた。さらに、司馬瑋独断詔書偽造し司馬亮衛瓘殺害した宣言し司馬瑋捕らえて処刑した。この事件以降賈南風賈謐郭彰一族と共に天下専断するようになり、当時評判のあった張華政権運営委ねる事を考え、賈一族姻戚関係にあった裴頠にこの事を相談した裴頠かねてより張華重んじていたので、これに賛成した裴頠もまた侍中抜擢され張華賈模と共に朝政重臣として国政携わった裴頠学校の修建を上奏したほか、石碑には経書内容刻印し皇太子司馬遹への教育として書物を読ませて儀礼を学ばせた。また儒教思想重視し釈奠行って孔子を祀うなどした。また、荀勗定めた律度(古代の計度)を学び、古尺(度量衡基準)を研究した。古尺は当時用いられている基準よりも4分余り短かったので、裴頠上表して、古代と現在とでの度量衡差異が、医療上の問題温床となっている可能性訴え度量衡改訂進言したが、これは認められなかった。 296年趙王司馬倫洛陽に入ると、賈南風媚び諂って録尚書事尚書令地位求めた。しかし裴頠彼の人となりを軽蔑していたため、張華と共にこれに反対した。これにより両者司馬倫恨みを買う事となった。 魏晋の時代清談流行するようになり、琅邪王氏出身である王衍などは名望高かったが、清談による空論好んで実務軽視し朝廷士大夫らもこれに追従したため、裴頠はこうした風潮深く憂慮するようになった297年には著書『崇有論』において「清談を行う者達は衒学的文章で人々惑わし虚無貴ぶ気風形成している。これにより国家の大事が軽視され実務疎かとなり、職務忠実な者が少なくなった。今の世では虚無を口にすれば玄妙』と称えられ、官に就いても職を全うしなければ『雅遠(高雅)』といわれ、廉潔守らず汚職をしても『曠達豁達)』と褒められる有様となった虚無決し民衆に益となるものではない」と清談弊害広く訴えたが、当時すでに清談気風定着していたため、『崇有論』はなかなか受け入れられなかった。また王衍とその側近らとも、清談在り方巡って幾度となく激論交わした

※この「国政を司る」の解説は、「裴頠」の解説の一部です。
「国政を司る」を含む「裴頠」の記事については、「裴頠」の概要を参照ください。

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