国政を主導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 01:26 UTC 版)
「ジョン・ダドリー (初代ノーサンバランド公)」の記事における「国政を主導」の解説
サマセット公失脚後、ウォリック伯が最高権力を握ることになった。1550年2月には枢密院議長と王室家政長官(英語版)に就任した。1551年には国王に自らをノーサンバランド公爵に叙させた。 ノーサンバランド公はサマセット公と比べるとプロテスタント信仰への情熱は弱いと見られており、カトリックたちはこの権力者交代で宗教政策が転換されることを期待したが、エドワード6世が熱心なプロテスタントに成長していたため、ノーサンバランド公も国王の信任を維持するため急進的なプロテスタント政策を遂行した。 枢密院の命令として聖像の破壊を命じるとともに保守派の聖職者の追放と改革派の聖職者の登用を推し進めた。サマセット公時代に作られた共通祈祷書をよりプロテスタント的に改正した共通祈祷書をトマス・クランマーに作成させ、1552年の礼拝統一法によって全ての教会にこの祈祷書の備え付けを命じた。1553年にはアウクスブルク信仰告白をもとに42信仰箇条を制定。その内容はエリザベス女王時代の39信仰箇条にも引き継がれ、イングランド国教会の基礎となる。 外交面では危機的な財政状況を鑑み、ヘンリー8世時代から続くフランスとスコットランドとの戦争を終わらせることを決意。和平交渉を行い、1550年にはフランス、1551年にはスコットランドと講和した。また太平洋、レパント、アフリカ海岸への遠征を開始させて新大陸に最初の領土を獲得した。後に世界最大の植民地帝国となる大英帝国の最初の基礎を築いた これまで戦費の穴埋めに通貨悪鋳が行われてきたが、ノーサンバランド公も当初それを踏襲して1551年に通貨悪鋳を行っている。しかしこれにより通貨の信用が低下してインフレーションが発生したため、大蔵卿(英語版)初代ウィンチェスター侯爵ウィリアム・ポーレットや国際金融専門家トマス・グレシャムらの助言を容れて1552年には通貨の品質を向上させた。財政機構改革にも乗り出し、財務府の汚職や縄張り意識、人員過剰などの問題にメスを入れた。増収裁判所と初収入税・十分の一税裁判所(英語版)の財務府への吸収はその一環である。また能率的な会計監査制度を財務府に導入した。 1551年から1552年にかけてはケンブリッジ大学学長(英語版)を務めている。
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