パーシー家前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:34 UTC 版)
「ノーサンバーランド公爵」の記事における「パーシー家前」の解説
最初にノーサンバーランド公に叙されたのは、テューダー朝の廷臣ジョン・ダドリー(1502-1553)である。彼は専制君主ヘンリー8世とつづく少年王エドワード6世の治世下において出世し、ヘンリー8世時代の1542年3月12日にライル子爵(英語版)(Viscount Lisle)、エドワード6世即位直後の1547年2月16日にウォリック伯爵(Earl of Warwick)に叙せられた。そして1551年10月に摂政サマセット公エドワード・シーモア(1506-1552)を失脚に追い込んだことで国政を主導する立場になり、この際の1551年10月11日にノーサンバーランド公に叙された。しかし1553年7月にエドワード6世が崩御するとカトリックのメアリー王女の即位を防ぐべく、ジェーン・グレイを女王に擁立。それに反発して蜂起したメアリーに敗れた結果、大逆罪で処刑されるという末路をたどった。ノーサンバーランド公の爵位も剥奪された。 2期目のノーサンバランド公に叙されたのはチャールズ2世の私生児ジョージ・フィッツロイ(1665-1716)である。彼はバーバラ・パーマー(1641-1709)が生んだチャールズ2世の3人の私生児の末息子であり、1674年10月1日にノーサンバーランド伯爵(Earl of Northumberland)、コーンウォール州におけるファルマス子爵(Viscount Falmouth in the county of Cornwall)、ヨーク州におけるポンテフラクト男爵(Baron of Pontefract in the county of York)に叙され、さらに1683年4月6日にノーサンバーランド公爵に叙された。しかし子供がなかったため、彼の死とともに全爵位が廃絶した。 公式の物と認められていないが、1716年にはジャコバイト支持者だった第2代ウォートン侯爵フィリップ・ウォートンがジャコバイトの王「ジェイムズ3世」(大僭称者)からジャコバイト貴族(英語: Jacobite Peerage)の爵位として「ノーサンバーランド公爵」に叙せられている。
※この「パーシー家前」の解説は、「ノーサンバーランド公爵」の解説の一部です。
「パーシー家前」を含む「ノーサンバーランド公爵」の記事については、「ノーサンバーランド公爵」の概要を参照ください。
- パーシー家前のページへのリンク