パーシー男爵パーシー家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:43 UTC 版)
「パーシー家」の記事における「パーシー男爵パーシー家」の解説
その子ヘンリー・ド・パーシー(英語版)(1273–1314)は、1299年2月6日にパーシー男爵(英語版)として議会招集令状を受けた。また1309年にはダラム司教(英語版)よりアニック城を購入した。以降この城はパーシー家所有の城の中でももっとも有名なものとなる。彼はエドワード1世とエドワード2世のスコットランドへの計略に重要な役割を果たしたが、1314年のバノックバーンの戦いに参加して敗れている。エドワード2世の寵臣政治に反対し、1312年にはエドワード2世を捕虜にし、1316年にはギャヴィストンを逮捕した貴族の一人である。 その息子の2代パーシー男爵ヘンリー・ド・パーシー(英語版)(1299–1352)は、1328年に辺境警備長官(英語版)に任じられ、第2代ネヴィル男爵ラルフ・ネヴィル(英語版)とともにスコットランド国境の守備にあたり、1346年にネヴィルズ・クロスの戦いでスコットランド軍を撃破するのに貢献した。 その息子の3代パーシー男爵ヘンリー(英語版)(1320–1368)は、百年戦争のウィンチェルシーの海戦でスペインを撃破するのに貢献した。また辺境警備長官としてスコットランド軍とも戦火を交えた。
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