パーシー家との確執
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「リチャード・ネヴィル (第5代ソールズベリー伯)」の記事における「パーシー家との確執」の解説
1443年の終わりから、リチャード・ネヴィルはノース・ヨークシャーのミドルハム城を居城とした。彼は国王の顧問団の一員で西部国境警備責任者でもあり、その地位に満足していた。弟ロバートはダラム司教になり、もう1人の弟ウィリアムはロックスバラ城の監督権を得た。リチャードの子供達はと言えば、1436年に長女セシリーと長男リチャードはそれぞれウォリック伯リチャード・ド・ビーチャムの息子・娘と結婚した。リチャードは後に妻の権利でウォリック伯爵位も継承した。 しかし、ネヴィル家の栄達はこの頃から陰りを見せ始める。成長したヘンリー6世は1430年代の後半頃から親政を始めたが、ヘンリー6世は凋落していた王室の権威を増すために、王族に近い貴族の富が増すように腐心した。しかしリチャードはまだ若かった上に、エドワード3世の血を引いているとは言え庶出である上に女系の血縁だったため、あまり富の分配にあずかれなかった。 この状況下の北イングランドにおいて、ネヴィル家とエドワード3世の男系血縁であるパーシー家との主導権争いは、重大事に発展する可能性があった。支配者である国王が強くて有能であれば この不和をコントロールするなり自身の得になるように采配するところであるが、病弱なヘンリー6世では対処できず、当初の地方課題はイングランド全土での紛争へと発展してしまった。 パーシー家は北イングランド中に所領を持っているのに対し、ネヴィル家の北イングランドにおける所領はノース・ヨークシャーとダラムに集中していた。しかしネヴィル家は西部国境警備責任者だったため、北西部での所領はケンダルとペンリスだけにも関わらず、北西部でも大きな力を持っていた。パーシー家はカンバーランドとウェストモーランドにある自家の所領の住人に対して、ネヴィル家が資金力にものを言わせて西部国境警備のための兵士を募集したことに憤慨していた。 15世紀イングランドの体制は『疑似封建制』とも言える状況で、全ての臣民は信頼に足る主君を求めていた。雇われた家臣は主に軍事活動で奉公し、それに対して主君は家臣に「若干の年俸」と「主君への忠誠を表すための徽章や服に付ける小物等(制服)」と「近隣との諍いが生じた時の支援(保全)」を与えていた。しかし北イングランドはウェストミンスターの宮廷から遠いため、不正に対する法的対処という保全は十分に行き渡っていなかった。そんな中、リチャードの国境警備責任者としての財力をもってすれば、パーシー家の所領の住人に対しても無償で支援を与えることも可能だった。 1448年にスコットランドとの戦いが再開すると、ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーはリチャードが管轄する西部国境を通って兵を投入した。これはノーサンバランド伯の重大なエチケット違反である。ノーサンバランド伯は西部国境で突出した上に戦闘に敗れ、息子のポイニングズ卿は捕らえられた。攻撃に転じたスコットランド軍に対応したため、リチャードは2000頭以上の馬を失い、さらに後の和平交渉のメンバーからもノーサンバランド伯と共に外されてしまった。これで両家の感情的な対立が煽られた。 長い間が空けば悪意は薄らいだかもしれないが、ノーサンバランド伯の次男イグリモント卿はその後数年にわたってリチャードの地盤のヨークシャー、特にヨークとシェリフ・ハットンのネヴィル家の城で紛争を起こして回った。 1453年8月、イグリモント卿はシェリフ・ハットンへと向かったリチャードを待ち伏せするつもりで、1000人以上の兵を集めた。リチャードはリンカンシャーで4男のトマスの結婚式に出席しており、その護衛の方がイグリモント卿の伏兵の人数よりは少なかったであろうが、充分な武装をしていたのか、無事にシェリフ・ハットンに到着した。無事だったとはいえ、これが私闘の始まりである。
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