ヘンリー6世 (イングランド王)
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ヘンリー6世(Henry VI, 1421年12月6日 - 1471年5月21日[1])は、ランカスター朝最後のイングランド王(在位:1422年8月31日 - 1461年5月4日、1470年10月30日 - 1471年4月11日)。フランス王も兼ねた(在位:1422年 - 1453年)。1437年まで摂政が後見。ヘンリー5世とフランス王シャルル6世の娘キャサリン・オブ・ヴァロワの子。
- ^ ベッドフォード公はこうした空気を払拭するため1431年5月30日に捕らえたジャンヌを処刑、12月16日にヘンリー6世のフランス王戴冠式を挙行したが、いずれも効果が無いばかりかパリ市民の反感を買い、治安悪化を理由にヘンリー6世を短期間フランスへ滞在させただけに終わった。善良公は戴冠式に出席しなかったばかりか、1432年にベッドフォード公に嫁いだ妹アンヌが亡くなり、1433年にネーデルラント問題も解決の見通しがつくとイングランドに見切りをつけ、フランスとの和睦に乗り出していった。城戸、P253 - P265、ロイル、P165 - P172。
- ^ ケイドはウェールズ辺境伯、アイルランド総督を歴任した第5代マーチ伯エドマンド・モーティマーの庶子を称してモーティマーを名乗った。マーチ伯は王位継承権がある点が注目されヘンリー5世の治世で国王擁立の陰謀(サウサンプトンの陰謀事件)に加担していたが、1425年の死後、子供がいないため甥に当たるヨーク公が遺領を継承、後に彼が王位を請求する根拠にもなった。川北、P118、P124、ロイル、P126 - P127、P162、P193。
- ^ 当初ウォリック伯はクラレンス公を王に擁立する計画で1469年から反乱を煽っていたが、思うように支持が得られなかったため断念、宿敵ランカスター派と結託してヘンリー6世の復位に変更した。尾野、P141 - P153、ロイル、P281 - P299。
- ^ 『ヘンリー6世』 - コトバンク
- ^ 森、P209 - P214、尾野、P32 - P33、P38 - P40、川北、P119 - P120、ロイル、P157 - P165。
- ^ 森、P215、ロイル、P163 - P164、P170 - P171。
- ^ エチュヴェリー、P169 - P200、P211 - P250、城戸、P204 - P207、P211 - P217、P237 - P253。
- ^ 森、P214 - P216、尾野、P40 - P49、川北、P120 - P122、ロイル、P161 - P163、P172 - P180。
- ^ 森、P216 - P217、エチュヴェリー、P257 - P259、尾野、P49 - P51、川北、P122 - P123、城戸、P208 - P209、ロイル、P181 - P185。
- ^ 森、P217 - P219、エチュヴェリー、P265 - P288、尾野、P51 - P54、川北、P123 - P124、ロイル、P185 - P192。
- ^ 森、P219 - P220、エチュヴェリー、P290 - P293、尾野、P108 - P112、川北、P124 - P125、ロイル、P193 - P208。
- ^ 森、P220、尾野、P112 - P115、川北、P126、ロイル、P209 - P217。
- ^ 森、P220 - P222、尾野、P115 - P125、川北、P126 - P128、ロイル、P217 - P256。
- ^ 森、P222、尾野、P125 - P131、川北、P128 - P130、ロイル、P257 - P281。
- ^ 森、P222 - P223、尾野、P153 - P171、川北、P130 - P132、ロイル、P300 - P322。
- ^ ロイル、P321
- ^ “英国王室も通った英名門イートン校のオンライン・ラーニングが日本へ進出!”. GSEのプレスリリース (2019年11月27日). 2020年11月26日閲覧。
- 1 ヘンリー6世 (イングランド王)とは
- 2 ヘンリー6世 (イングランド王)の概要
- 3 系図
- 4 参考文献
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