王冠連合
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王冠連合(おうかんれんごう、英語: Union of the Crowns、スコットランド・ゲール語: Aonadh nan Crùintean、スコットランド語: Union o the Crouns)は、1603年3月24日にスコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王国とアイルランド王国の国王に即位したことで成立した同君連合を指す呼称。テューダー朝最後の君主エリザベス1世の死により成立した同君連合である[1]。同君連合の成立により、外交など一部の領域においては三王国が統合される形となった。
- ^ McVey, John Daniel. "The Union of The Crowns 1603 - 2003" (英語). Uotc.scran.ac.uk. 2013年10月25日閲覧。
- ^ Smith, David Lawrence (1998). "Chapter 2". A History of the Modern British Isles, 1603–1707: The Double Crown (英語).
- ^ Conlee, John, ed. (2004). William Dunbar: The Complete Works (英語). Kalamazoo, Michigan: Medieval Institute Publications. 2007年3月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年8月26日閲覧。
- ^ Leslie, John (1570). The History of Scotland: From the Death of King James I, in the Year M. CCCC. XXXVI, to the Year M.D. LXI (英語). 2019年11月26日閲覧。
- ^ Croft 2003, p. 48.
- ^ Willson 1963, pp. 154–155.
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- ^ Stewart 2003, p. 169.
- ^ Stewart 2003, p. 172.
- ^ Stewart 2003, p. 173.
- ^ James I, speech to the Westminster parliament, 19 March 1603, e.g. in King James VI and I: Political Writings, ed. Johann Sommerville, Cambridge Texts in the History of Political Thought, Cambridge: Cambridge University Press 1995, p. 136.
- ^ Velde, Francois. "Royal Arms, Styles and Titles of Great Britain" (英語). Heraldica.org. 2013年10月25日閲覧。
王冠連合
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イングランドからテューダー家のヘンリー7世の娘マーガレットがジェームズ4世に嫁してジェームズ5世が生まれ、ステュアート家はイングランドの王位継承権を得た(ただし、ジェームズ4世の祖父ジェームズ2世はヘンリー7世の大おばジョーン・ボーフォートの子であり、すでにイングランド王家との血のつながりはあった)。 イングランドでエリザベス1世が即位すると、スコットランド女王メアリー(ジェームズ5世の長女)はエリザベスが庶出であるとしてイングランド王位を要求し、スコットランドとイングランドの関係は悪化した。嫡子のいなかったエリザベス1世の死後、メアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王位にも就き、アン女王の時代にグレートブリテン王国として統合されるまで、両国は共通の王と独自の政府・議会を持つ同君連合体制をとった。これをイギリス史では王冠連合 (Union of the Crowns) と呼ぶ。 ジェームズ1世とその子チャールズ1世は、王権神授説を唱えて国王の絶対性を説き、議会と対立した。清教徒革命(イングランド内戦)が起こるとチャールズ1世は処刑され、イングランドでは王制が廃止された。チャールズ2世が王政復古を果たすが、ジェームズ7世/2世は名誉革命でカトリック王として追放された。後、ジャコバイトがジェームズ7世/2世やその長男の家系による王位の奪還を目指したものの、彼らが正式に王としてイングランド、スコットランドに迎えられることはなかった。イングランドとスコットランドの王位はチャールズ1世の孫に当たるウィリアム3世、およびジェームズ7世/2世の2人の娘によって継承され、アン女王の死後はジェームズ1世の曾孫に当たるブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯(ハノーファー選帝侯)ゲオルク・ルートヴィヒがグレートブリテン王ジョージ1世として迎えられてハノーヴァー朝が成立した。 なお、ピューリタン革命期にイングランドでは王のいない空位時代があったが、スコットランドでは王太子のチャールズ2世がただちに即位して空位時代はなかったとされる。
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