グレートブリテン島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/18 23:24 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2022年10月)
|
グレートブリテン島 | |
---|---|
![]()
ブリテン諸島
|
|
所在地 | ![]() |
所在海域 | 大西洋 |
所属諸島 | ブリテン諸島 |
座標 | 北緯53度0分0秒 西経2度0分0秒 / 北緯53.00000度 西経2.00000度座標: 北緯53度0分0秒 西経2度0分0秒 / 北緯53.00000度 西経2.00000度 |
面積 | 209,331 km² |
最高標高 | 1,344 m |
最高峰 | ベン・ネビス山 |
最大都市 | ロンドン |
![]() |
グレートブリテン島(グレートブリテンとう、ラテン語:Britannia Maior、英語:Great Britain、スコットランド語:Great Breetain、コーンウォール語:Breten Veur、ウェールズ語:Prydain Fawr、スコットランド・ゲール語:Breatainn Mhòr)は、北大西洋に位置する島で、アイルランド島、マン島などとともにブリテン諸島を構成する。「グレートブリテン」という呼称は「リトルブリテン」との区別に基づいている[1]。ヨーロッパ大陸からみるとドーバー海峡を挟んで北西の方向にあたり、ヨーロッパ地域の一部である。面積は 209,331 km2で、世界で9番目に大きい島である(島の一覧参照)。グレートブリテン島は日本の本州より少し小さい。イギリスの国土の中心的な島で、同国の首都ロンドンをはじめとする多くの大都市を有する。大ブリテン島とも呼ばれる。
グレートブリテン島は、政治的に見ると、「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」(日本語での通称:イギリス、英国)の構成要素であるイングランド、スコットランド、ウェールズの3つの「国(カントリー)」からなる。


名前
「グレートブリテン」(Great Britain) という言葉は地名であり、ブリテン諸島(イングランド、スコットランド、ウェールズ)を指す[1]。これは「リトルブリテン」(Little Britain, ブルターニュ)との区別で使われている[1][注釈 1]。
由来
グレートブリテン島をさす最古の名前は、紀元前6世紀頃のカルタゴ人航海者の記録にある「アルビオン」である。その後、紀元前4世紀のギリシャ人商人の航海記にある「プレタニケ」から、現在のブリテン諸島を指す言葉として「ブリトニ」という呼び名が生まれ、次第に定着して、その最大の島であるこの島がラテン語で「ブリタンニア」と呼ばれるようになった。
ブリトン人[注釈 2]は前1世紀頃からローマ共和国、ローマ帝国、アングロ・サクソン人の相次ぐ侵攻を受けて、その一部がフランスに逃れる。フランスではブリトン人の住むようになった地域を「ブルターニュ」[注釈 3]と呼び、本来のブリタニアを「グランド・ブルターニュ」[注釈 4]と呼んで区別した。「古ブリテン島」[注釈 5]の意味である。これが英語に輸入され、英訳された形の「グレートブリテン」という地名が定着する。
分類
主要都市
地形
古期造山帯に位置しているため、平坦な土地である。アイルランド島との間をアイリッシュ海、スカンディナビア半島およびユトランド半島との間を北海とよぶ。
- カンブリア山脈
- テムズ川
地質

グレートブリテン島では太古代以降のほぼ全ての地質時代の岩石が産出する。地震学的研究によれば、グレートブリテン島を一帯とする地域では、地球の地殻は27 - 35 kmの厚みがある。最古の岩石はスコットランド北西部で発見されたルイス片麻岩で、推定で少なくとも27億年前の年代のものであり、これは地球の歴史の半分よりも古い。これらの岩石は、グレートブリテン島およびアイルランド島の地殻の大部分を占めるものと考えられているが、さらにブルターニュ半島やチャンネル諸島の地表まで広がっていると推定される。一方で、最も若い岩石はイングランド南東部で発見されている。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d Hunter 1995, p. 1305.
参照文献
- Hunter, Brian (1995). “United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland”. The Statesman’s Year-Book. Palgrave Macmillan. pp. 1305-1385. ISBN 978-1-349-39297-1
関連項目
- グレートブリテン
- グレートブリテン王国(Kingdom of Great Britain)
- グレートブリテン帝国(Empire of Great Britain 大英帝国)
- グレート・ブリテン号
- リトルブリテン(ブルターニュ)
- イギリスの歴史
- ブリテンの歴史
グレートブリテン島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 08:42 UTC 版)
ブリテンのヒルフォートは青銅器時代から存在したが、その建設が最も盛んになったのは鉄器時代の紀元前200年から紀元43年のローマ帝国による征服までの期間である。ローマ人は Hod Hill や Brean Down などの一部のヒルフォートを占領したが、他の多くのヒルフォートは破壊し放棄した。Cadbury Castle からは多数の人骨が出土しており、ここが紀元70年代の反乱の舞台となったことを示している。地名の語尾に "-bury" とつく場所の多くはヒルフォートを意味する。一部は Cytiau と呼ばれる(cytiau'r Gwyddelod は「アイルランドの小屋」の意)。ドーセットの Maiden Castle はイングランド最大のヒルフォートである。侵攻のなかったアイルランド島や占領されなかったスコットランドなどローマの影響がそれほど強くなかった地域では、さらに数世紀に渡ってヒルフォートが建設され続けた。 グレートブリテン島全体で鉄器時代のヒルフォートが2000以上知られている。ローマの支配が終わると、一部のヒルフォートが再建され、海賊の襲撃やアングロ・サクソン人の侵略に対する防衛拠点として使われた。Poundbury Hill の外側の墓地には4世紀の教会葬の墓もある。Wansdyke は Maes Knoll の既存のヒルフォートと繋がった土塁で、紀元577年から652年の間、南西イングランドにおけるケルト人とサクソン人の境界線となっていた。 一部のヒルフォートはヴァイキング時代にアングロ・サクソン人が再利用していた。アルフレッド大王はウェセックスで海岸沿いのヒルフォートの監視ネットワークを確立し、それらの間を Herepath と呼ばれる軍用道路で結んだ。それによって、海上のヴァイキングの動きに応じて軍を動かせるようにしていた。 発掘調査により、いわゆる「ヒルフォート」とされてきたものの多くは、単に牛や馬などの家畜を閉じ込めておく囲いとして使われていたことがわかった。Bindon Hill や Bathampton Down は50エーカー (20 ha) 以上の広さがある。鉄器時代には防御性の居住地だったものでも、後世には家畜の放牧に使われたものもある。例えば、Coney's Castle、Dolebury Warren、Pilsdon Pen がある。
※この「グレートブリテン島」の解説は、「ヒルフォート」の解説の一部です。
「グレートブリテン島」を含む「ヒルフォート」の記事については、「ヒルフォート」の概要を参照ください。
グレートブリテン島
「グレートブリテン島」の例文・使い方・用例・文例
固有名詞の分類
- グレートブリテン島のページへのリンク