ブリトン人とは? わかりやすく解説

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ブリトン人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/14 12:29 UTC 版)

ブリトン人Britons, Brythons)は、前ローマ時代ブリテン島に定住していたケルト系の土着民族である。単に「Briton」というと近代英国民のことを指すので学術上、この民族集団を指すときは「ブリテン諸部族(British tribes)」、「古代ブリトン人(ancient Britons)」、または「ブリトン民族(ethnic Britons)」とも呼ばれる(このような書き分けはケルト系語族の区分け、ブリトン諸語ゲール語の違いを語る時に用いられる)。

なおブリソン(Brython)という言葉はウェールズ語からの借用で、民族言語学上のブリトン(Briton)と区別するための単語である。

定義

当時のブリテン島に住む者みながブリトン諸語の話者であったかどうかは分からない。かなり多くの学者が未知の言語であるピクト語ゲール語だと言っている[要出典]が、ローマ後期まではピクト人は単独に区別された部族(ちょうどブリトン諸部族の中でのダル・リアータのように)として考えられていた。このピクト人文化の特色、例えば彫刻、陶器、石碑がブリトン人の特徴と異なるためブリトン人の定義としてピクト人は除かれている[要出典]

言語

ブリトン人が用いていたブリトン語のルーツは島嶼ケルト語にある。ブリトン語は後世まで生き延び、ウェールズ語、ブルトン語コーンウォール語の基となっている。また現在では絶えてしまったカンブリア語の祖語でもある。

歴史

起源

ケルト人やケルト系言語がいつブリテン島に到来したかは諸説あり、いずれも合意には至っていない。 20世紀のほとんどの期間において伝統的であった見解では、ケルト文化は中欧のハルシュタット文化から派生し、紀元前1千年紀にケルト人や彼らの言語はブリテン島へ到達したとされていた[1][2]。 最近では、ジョン・トーマス・コーク英語版バリー・カンリフ英語版が「西からのケルト語」論、つまりケルト語は東へ広まる前に海上交易における橋渡し語として大西洋青銅器文化英語版の範囲で発達した、という説で20世紀時点での仮説に異論を唱えている[3]。 一方で、パトリック・シムズ=ウィリアムズはどちらの仮説も批判し、「中央からのケルト語」論、つまりケルト語はガリアが起源であり紀元前1千年紀の間に広まりその終盤にブリテン島へ辿り着いたという説を提唱した[4]

2021年に、主要な考古遺伝学の研究は、紀元前1300年頃〜紀元前800年頃までの500年以上の中で起きた青銅器時代英語版のブリテン南部への移住を発見した[5]。 移住者たちはフランスから来た古代の人々と遺伝子学的に最も似ており、初期ヨーロッパ農耕民の祖先である可能性が高い[5]紀元前1000年紀元前875年、ブリテン南部でその遺伝子マーカーは瞬く間に広まり[6]、その後この地域(ブリテン北部以外)の鉄器時代英語版の人々の祖先の半数を占めた[5]。 これは暴力的な侵略や一度の移住ではなく、貿易商人の移動や結婚、家族単位の小規模な移動など、ブリテン本島とヨーロッパの間の数世紀に及ぶ絶え間ない接触を通じて、人工の遺伝子的構造が変化したと考えられている[6]。 Patterson et al. (2021)はこれを「初期ケルト語族がイギリスに拡散した可能性のある経路」と説明している[5]。 その後の鉄器時代においてはブリテンへの移住が非常に少なかった。よって、ケルト人はそれ以前にブリテン島へ到達したと考えられる[5]。 バリー・カンリフはケルト語系の言語は既にブリテン島で話されており、青銅器時代の移住によってブリトン語系の言語が流入した、と提唱している[7]

890年アルフレッド大王の命令により編纂された『アングロサクソン年代記』は、ベーダの『イングランド教会史』に組み込まれた以下の記述から始まる[8]

ローマによる征服

ペイガンヒルのローマ神殿英語版再建を描いた絵

カエサルは紀元前55年と紀元前54年の計2回、ブリタンニアへ侵攻した。2回目の侵攻でブリトン人の王カッシウェラウヌスを屈服させ、ローマへの貢納を約束させた。 クラウディウス帝の時代の43年、ローマ帝国はブリテン島へ侵攻し、勝利した[13]。 ブリテン島の部族たちはローマ軍団に対して何十年も抵抗を続けた。しかし、84年までにローマ人たちは南ブリテン島を征服し、決定打を与えた。そして、後に北イングランドと南スコットランドとなるブリトン人の領域へ押し込んだ。 同時期、ガリアとゲルマニアの境目から来たベルガエ人たちが南ブリテン島に居住した。 122年、ローマ人たちは、現在の北イングランド英語版まで広がるハドリアヌスの長城で北の国境を強化した。 142年、ローマ人は再び北進し、フォース川クライド川間の地峡にアントニヌスの長城の建設を始めた。しかし20年後、彼らはハドリアヌスの長城まで後退した。 ハドリアヌスの長城の南側に住んでいたブリトン人は自身の領土をほぼ保持していたが、ローマのブリタンニア総督英語版の支配下にあった。一方、長城の北部に住んでいたピクト人は抵抗し続けた。 3世紀の危機の時代、ブリタンニアでも動乱が起きた。ブリタンニア北部に住んでいたピクト人やスコット人が南下し、これに呼応して不満を持っていたブリトン人農民も反乱を起こした[14]。 ローマの東西分裂後、西ローマ皇帝ホノリウスはブリテン島の防衛を放棄した[15]

アングロ・サクソン人のブリテン島への入植

アングロ・サクソン人のブリテン島への入植期間中のブリトン人の西への移住

ローマ人撤退から50年以上後、ゲルマン語派に属するアングロ・サクソン人がブリテン島南東海岸への移住を始め、独立した王国を築き始めた。また、スコットランド・ゲール語を話すスコット人がDál nAraidi(現在の北アイルランド)からスコットランド東岸とマン島へ移住した[16][17]。 同時期に、現在のブルターニュチャンネル諸島でブリトン人が独自の王国を築いた。彼らは自分たちの小国を築き上げた。 スペインの北西ガラエキア英語版にも、この頃ブリトン人の入植地ブリトニア英語版がさらに建設された。

5世紀前半にガリアの司教オーセールのゲルマヌス英語版来島を記した『ゲルマヌス伝』によれば、当時、アングロ・サクソン人の侵攻はまだ小規模だった[18]。 ブリトン人の宗主ヴォーティガンは、ピクト人やスコット人の侵入を防ぐため、アングロ・サクソン人の指導者ヘンギストや戦士たちを雇ったと伝えられている[19][20]。 しかし、アングロ・サクソン人たちは反乱を起こし、ブリトン人と激突するようになった。この争いの過程で生まれた伝説が、ブリトン人の英雄アーサー王を中心としたアーサー王伝説である。アーサー王が実在したかは定かではないが、5世紀後半に勇敢な指導者がブリトン人の中にいたことは確かである[21]

5世紀後半からしばらくの間、アングロ・サクソン人の侵入は停滞した。しかし、6世紀にその侵入は再開された。

現在のイースト・アングリアイースト・ミッドランズノース・イースト・イングランドアーガイル英語版サウス・イースト・イングランドの地域の一部は、アングロ・サクソン人やスコット人の侵略により最初に陥落した。

ケント王国(現代のケント)は456年に滅亡した。 現代のリンカンシャーノッティンガムシャーにまたがっていたリンヌイス王国は500年頃に合併され、イングランドのリンジー王国となった。

現在のサセックスハンプシャー東部にあたるレグネンセス王国510年までにほぼ完全に征服された。 Ynys Weith (ワイト島)は530年に、現在のエセックス辺りに位置していたカムロドゥルム王国英語版540年までに滅亡した。 現在のティーズサイド英語版ウィアサイド英語版タインサイド英語版ハンバーサイド英語版リンディスファーン島ファーン諸島を含むデイラ王国がアングロ・サクソン人により陥落し、デイラ王国はこの時点からアングロ・サクソン人の王国となった [22]。 Caer Wentは575年までに公式に消滅し、アングロ・サクソン人のイースト・アングリア王国となった。 グウェント王国英語版は部分的に支配された。首都Caer Gloui(グロスター)は577年にアングロ・サクソン人に奪われ、グロスタシャーウィルトシャーは侵略者の手に渡った。 現在のエアシャー英語版を含むアーロン王国英語版[23]700年までにアングロ・サクソン人のノーサンブリア王国に征服された。 現在のロンドンセント・オールバンズホーム・カントリーズ英語版を含むCaer Lundein(ロンディニウム[24]600年までにブリトン人が手放すことになった。

現在のノーサンブリアダラムに存在し、首都はDin Guardi(現在のバンボロー英語版)で、Ynys Metcaut(リンディスファーン島)を含むBryneich(バーニシア)は605年までに陥落し、アングロ・サクソン人のバーニシアとなった[25]。 Caer Celemion(現在のハンプシャーバークシャー)は610年までに陥落した。 現在のヨークシャーランカシャーチェシャーの大半を占めており、都市はリーズにあったと思われる大国のエルメット英語版はアングロ・サクソン人により627年に征服された。 現在のスタッフォードシャーシュロップシャーヘレフォードシャーウスターシャーを範囲としていたペングウェーン王国英語版656年に大破され、現在のウェールズにあたる東端部だけがブリトン人の支配地域として残った。 そして現在のベッドフォードシャーからノーサンプトンシャーまで広がっていたCynwidionはペングウェーンと同時代に陥落した可能性が高いが、Cynwidionの小王国はしばらくチルターン丘陵に留まっていた可能性もある[26]

こうしてアングロ・サクソン人の侵入は進んだが、ブリトン人全員が排除されたわけではなく、アングロ・サクソン人と同化した者たちも多かったと推測されている。その論拠として、イングランド各地にブリトン語系の地名が残っていることが挙げられる[27]。例えば、現在のシュロップシャーにあるMyndtown(en)やヘレフォードシャーにあるThe Mynde(en)は、ブリトン語系に含まれるウェールズ語のmynydd「山」からとられている地名である。

一方、スコット人もまたブリテン島へ侵攻した。彼らはアイルランドからブリテン島北西岸に到着し、先住民であるブリトン人を追放した。そして、500~560年の間に、現在のアーガイルやスカイ島アイオナ島を含むダルリアダ王国を建てた。

こうして、6世紀末までにウェールズ以外のブリテン島は、アングロ・サクソン人を主とするブリトン人以外の民族に制圧された。

アル・ヘーン・オグレッズ(Yr Hen Ogledd 「古き北部」)

550~650年頃のアル・ヘーン・オグレッズ(昔の北イングランド)

アングロ・サクソン人などの侵攻に耐え、生き延びたブリトン人国家もある。

ストラスクライド王国英語版は、現在のレンフルーシャー、ウェスト・ダーバントンシャーとイースト・ダーバントンシャーの一部、ノース・ラナークシャーサウス・ラナークシャーエアシャー英語版ダンフリーズ英語版を含んでおり[28]、ブリトン人国家の中でも特に強力な国家であった。11世紀にスコットランドと併合されるまで独立を保っており、ストラスクライド王国はアル・ヘーン・オグレッズのブリトン人国家の中で最後に滅んだ国となった[29][30]

レグド王国英語版は現在のノーサンバーランドやダラムの大部分、および南部スコットランドとスコティッシュ・ボーダーズの一部を含んでおり、8世紀まで生き残った。

ゴドジン王国はDin Eidyn(現在のエディンバラに宮廷があったとされており、現代のノーサンブリアやダラム、ロージアンクラックマナンシャーを含んでいた。この王国は600年頃にアングロ・サクソン人と戦闘し、全滅した[31]。この戦いについては、叙事詩ア・ゴドズィン』に記されている。775年頃まで続いたこの王国は、最終的にピクト人やスコット人、アングロ・サクソン人によって分割された。

ドゥムノニア王国は現在のコーンウォールやデヴォンシリー諸島を含んでおり、9世紀中葉に部分的に征服された。現在のデヴォンシャーにあたる地域のほとんどがアングロ・サクソン人により併合されたが、コーンウォールやシリー諸島、一時的にはダートムーアを含むデヴォンシャー西部はブリトン人の手に残り、ブリトン人のケルノウ国となった。

ブリトン人が5世紀に入植したチャンネル諸島は、9世紀初期にノース人デーン人ヴァイキングからの攻撃を受け、9世紀末にはヴァイキングの侵略者たちにより征服された。

ウェールズ、コーンウォール及びブルターニュ

ブリトン人はウェールズとケルノウ(現代のコーンウォールや、ダートムーアを含むデヴォンの一部、シリー諸島)の支配権を、コーンウォールが実質的にイングランドが併合された11世紀中葉まで保持していた。シリー諸島も数年後に続いた。しかしながら、コーンウォールの領主たちの支配権は12世紀前半まで散在していたようである。

ウェールズはアングロ・サクソン人やスコットランド・ゲール人、ヴァイキングの支配からは離れ、様々なブリトン人王国に分割された。この王国の中には、グウィネッズ王国英語版(現在のクルーウィド王国英語版アングルシー島)、ポウィス王国英語版、元々はケレディジョン王国英語版セイシルグ王国英語版ディフェド王国英語版だったデヘイバース王国英語版、グウェント王国、モーガング王国英語版(現在のグラモーガン英語版)が含まれていた。 これらブリトン系ウェールズ人の王国は、現在のウェールズの境界よりも東の領域を含んでいた。例えば、ポウィス王国は現在のマージーサイドやチェシャー、ウィラル半島英語版の3か所の一部を含んでいた。グウェント王国は現在のヘレフォードシャーやウスターシャー、サマセット、グロスタシャーの4か所の一部が含まれていた。しかし、12世紀初頭までにブリトン人が支配していた領域の大半はアングロ・サクソン人とゲール人が支配的な文化勢力となり、ブリトン人の支配領域は現在のウェールズの境界内までとなった。

そしてその後、現地のブリトン人の言語や文化は徐々に置き換わっていき[32]、ウェールズやコーンウォール、シリー諸島、ブルターニュ、そしてしばらくの間はカンブリアやストラスクライド、ギャロウェーの一部でのみ存続した。 コーンウォール(ケルノウ王国、ドゥムノニア王国)は1050年代~1100年代初期までの間にイングランドにより大部分が吸収されたことは確かだが、独自のブリトン人文化と言語を保持していた[33]。 スペインのガリシアのブリトニアは900年までに消滅したとされている。 ウェールズとブルターニュはかなりの期間独立を保っていたが、1532年にブルターニュがフランスに統合された。また、男系にウェールズの血統を有していたテューダー朝(Y Tuduriaid)による治世の中、合同法 (1536年および1543年)英語版によりウェールズはイングランドに統合された。

ウェールズやコーンウォール、ブルターニュ、シリー諸島はブリトン人固有の文化やアイデンティティを現在まで維持し続けている。ウェールズ語とブリトン諸語は今でも広く話されており、かつては絶滅に瀕していたコーンウォール語は20世紀から復活を遂げた。 ウェールズやコーンウォール、シリー諸島、ブルターニュの場所や地形の名称のほとんどはブリトン系の言語からとられており、ブリトン系の苗字や名前は現在でも一般的である。

19世紀の間、多くのウェールズ人農民が南米のパタゴニアアルゼンチンへ移住し、「ア・ウラドヴァ英語版」と呼ばれるコミュニティを形成した。このコミュニティは今日でも1,500人以上のウェールズ語話者で構成されている[34]

イングランド東部

イースト・オブ・イングランド(イングランド東部)には、イケニ族コリエルタウウィ族カトウェッラウニ族英語版といったブリトン系の部族が大勢いた。 最も一般的な見解では、450~600年頃の最初の侵略により、イングランド東部のブリトン人は彼らの王国は征服されるにつれて、アングロ・サクソン人に同化されたと考えられている。アングロ・サクソン人による侵略は、『アングロ・サクソン年代記』でも言及されている。491年に関する記述では「エールチサー英語版アンドレデスチェスター英語版を創設し、そこに住むものすべてを殺したため、生き残ったブリトン人は一人もいなかった[35] 」とある。

一方で、イングランド東部で生き残ったブリトン人もいたとされている。8世紀初期フェンズ英語版に住んでいた東アングル人の隠者の伝記『ガスラックの人生』から読み取れる。聖ガスラック英語版は、フェンズに住んでいたブリトン人と思われる人々から幾度かの攻撃を受けたとされている[36]。 12世紀の小説『Havelok the Dane』にはブリトン系サクソン人の王アルシが登場する。彼はリンカンやリンジー、ラトランドスタンフォード英語版を統治していたという。 1090年には、ラムジー英語版の僧侶が「野蛮で制御不能なブリトン人がハンティンドンの広い範囲で暴れまわっていた」と記述している。ここから、11世紀までブリトン人はフェンズに居住しており、おそらく彼ら独自のキリスト教信仰は現地のアングロ・サクソン人から異端とみなされていた、と読み取れる[36]。 ラムジーの他の話では、ロイストン英語版からそう遠くないところから来たブリトン人の襲撃が10世紀に起こったと示されている[37]The Memorials of Cambridgeでは、次のような一節を見ることができる。「ギルドの誰かが人を殺し、その者が補償をもって復讐したり強制的な暴力を働き、殺された者が1200シリング以上の価値がある(twelfhynde)場合、各ギルドは殺された者の救済のために半マークを差し出す必要がある。殺された者が自由民である場合は1オラを、ウェールズ人(ここではブリトン人のこと)の場合は1オラを差し出す」と。 ここから、10世紀のケンブリッジシャーには、他の地域ほどではないものの低い身分のウェールズ人が住んでおり、他の地域と比べるとあまり尊重されていなかったことがわかる[36]。 ケンブリッジで有名なワンドルベリー・ヒル英語版の伝説では、異教徒が登場する。Cantabricaの町や、イーリー近辺に住んでいたWandaliの部族について、彼らはキリスト教徒を残酷に殺していたと書かれている[38]。この伝説はティルベリ・オヴ・ゲルウァシス英語版により1211年に初めて書かれた。これはヴァンダル族に襲撃されていた最中のローマ帝国末期に起源を持つ、現地のアングロ・サクソン人に引き継がれたケルト人の物語であるとされている[39]

Oosthuizenの2016年の著書では、「ブリトン人」を示すwealh-という語根を持つ6つの地名を記している。その中にはWalewrthウォルソケン英語版)やWalpoleが含まれる。その他の地名として、原ケルト語の*Udso-s(水)に由来するグレートウーズ川や、wealh-の語根を持つとされるリバー・ウェルランド英語版、原ケルト語の*kambos(曲がった)に由来するケム川英語版、ウェールズ語のcoed(木)と比較されるチェッティシャム英語版チャテリス英語版、ブリトン諸語の*llɨnn(湖)に由来するキングズ・リンが紹介されている[40][41]。サウス・ケンブリッジシャーの教区であるコンバートン英語版は、全ブリトン人を示すcymryという語根から来ている[42]

注釈

  1. ^ ソープの対訳 Cott. Tober. B.ivではBrytwylscと読める。[9]
  2. ^ スウォントンは、写本Eが「Brittisc ond Wilsc」と記して6つの言語を挙げており、Brittiscコーンウォール語を指す可能性があると指摘する。一方、写本Dは「Bryt-Wylsc」を単一の言語として記している[10]
  3. ^ スウォントンはこれをラテン語と解釈している[10]
  4. ^ スウォントンの20世紀の訳は、オリジナルの写本について注記を添えて「アルモリカ」がそのまま置き換えられている[10]ジェイムズ・イングラム英語版による19世紀の訳ではオリジナルの写本にある誤りが翻訳にもそのまま残っており、『アングロサクソン年代記』を転写したサクソン人が、現在のブルターニュを含むガリア北西部地域を指す「Armoricano」を書いたベーダの言葉を誤って写したと注釈している[11]。ベンジャミン・ソープも同様の注釈をしている[12]

脚注

  1. ^ MacAulay 1992, p. 1.
  2. ^ Karl 2010.
  3. ^ Cunliffe & Koch 2016, pp. 1–5.
  4. ^ Sims-Williams 2020, p. 523.
  5. ^ a b c d e Patterson et al. 2021.
  6. ^ a b “Ancient DNA study reveals large scale migrations into Bronze Age Britain”. University of York. (2021年12月22日). https://www.york.ac.uk/news-and-events/news/2021/research/ancient-dna-study-migration-bronze-age/ 2022年1月21日閲覧。 
  7. ^ “Ancient mass migration transformed Britons' DNA”. BBC News. (2021年12月22日). https://www.bbc.co.uk/news/science-environment-59741723 2022年1月21日閲覧。 
  8. ^ Giles 1887, p. 303.
  9. ^ a b Thorpe 1861, p. 3.
  10. ^ a b c d Swanton 1998, p. 3.
  11. ^ Ingram & Giles 1847, p. 103.
  12. ^ Thorpe 1861, p. 394.
  13. ^ 川北稔編『イギリス史 上』p.24
  14. ^ 川北稔編『イギリス史 上』p.26
  15. ^ 川北稔編『イギリス史 上』p.26
  16. ^ Pattison 2008.
  17. ^ Pattison 2011.
  18. ^ 川北稔編『イギリス史 上』p.30
  19. ^ 川北稔編『イギリス史 上』p.31
  20. ^ ジェフリー・オブ・モンマスブリタニア列王史』6.12
  21. ^ 川北稔編『イギリス史 上』p.32
  22. ^ Kingdoms of the Anglo-Saxons - Deira”. www.historyfiles.co.uk. 2025年8月27日閲覧。
  23. ^ Bromwich, Foster & Jones 1978, p. 157.
  24. ^ ネンニウス (c. 828). History of the Britons. Chapter 6: "Cities of Britain".
  25. ^ Koch 2006, pp. 515–516, Cumbric.
  26. ^ Kessler, P. L.. “Kingdoms of British Celts - Cynwidion” (英語). The History Files. 2025年1月4日閲覧。
  27. ^ ジャネット・デイヴィス著 小池剛史 訳『ウェールズ語の歴史』p.23
  28. ^ 木村正俊『ケルト全史』p.255
  29. ^ Charles-Edwards 2013, pp. 12, 575.
  30. ^ Clarkson 2014, pp. 12, 63–66, 154–158.
  31. ^ 木村正俊『ケルト全史』p.245
  32. ^ "Germanic invaders may not have ruled by apartheid". New Scientist, 23 April 2008.
  33. ^ Williams & Martin 2002, pp. 341–357.
  34. ^ ジャネット・デイヴィス著 小池剛史 訳『ウェールズ語の歴史』p.118
  35. ^ Hodgkin, Thomas. “The history of England, from the earliest times to the Norman Conquest” (英語). www.gutenberg.org. 2025年5月9日閲覧。
  36. ^ a b c Late survival of Celtic population in E. Anglia”. www.cantab.net. 2025年5月9日閲覧。
  37. ^ Chronicon Abbatiae Rameseiensis, p. 140
  38. ^ Gervase of Tilbury, Otia Imperialia (c.13th century)
  39. ^ On The Wandlebury legend”. www.cantab.net. 2025年5月21日閲覧。
  40. ^ Oosthuizen, Susan (2016年). “Culture and identity in the early medieval fenland landscape”. 2025年9月11日閲覧。
  41. ^ Green, T., 2012. Britons and Anglo-­‐Saxons.
  42. ^ Key to English Place-names”. kepn.nottingham.ac.uk. 2025年8月21日閲覧。

参考文献

日本語文献


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