ローマ帝国による征服とは? わかりやすく解説

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ローマ帝国による征服

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/31 06:47 UTC 版)

アラビア・ペトラエア」の記事における「ローマ帝国による征服」の解説

106年ローマ征服されるまでは、この地域ナバテア王国領域で、ナバテア最後の王ラッベル2世ソテル(Rabbel、70年から在位)に統治されていた。ラッベルが死去すると、ローマ第3軍団キュレナイカアエギュプトゥスエジプト)から北上してペトラを、一方でシリア駐屯していたローマ第6軍団フェラタ南下してボスラそれぞれ征服した。ラッベルにはオボダス(Obodas)という名の後継ぎがおり、何を口実ローマ侵略したのかを示す記録残っていない。二つローマ軍団ナバテア王の親衛隊からはいくらか抵抗されたものの、ナバテア人からの本格的な抵抗はなく、さらに征服後にはナバテア人軍隊はすぐにアウクシリアとして従事しはじめたトラヤヌスアラビア遠征成功したにもかかわらずアラビクスのような称号受けておらず(例えダキア戦争勝利したときにはダキウスの称号受けた)、この征服に際しては、ナバテア王国側に何か事情があったと考えられるトラヤヌスは、この後チグリス川越えてメソポタミアまで征服することになるが、ナバテア征服によってその野望足がかり確保したことになる。 アラビア・ペトラエア中心を通るトライアナ・ノウァ街道(Via Traiana Nova)が建設された。このローマ街道は、ボスラからペトラ経由してアカバまでを結んだ街道開設待って公式にナバテア征服祝賀され、表面トラヤヌス帝の胸像裏面にはラクダ描いた硬貨発行された。この硬貨115年まで鋳造され続けたが、その頃になると、ローマ帝国関心アラビア・ペトラエアから離れてもっと東の領土移った

※この「ローマ帝国による征服」の解説は、「アラビア・ペトラエア」の解説の一部です。
「ローマ帝国による征服」を含む「アラビア・ペトラエア」の記事については、「アラビア・ペトラエア」の概要を参照ください。

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