ローマ帝国における禁止令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 14:01 UTC 版)
ローマ帝国のハドリアヌス皇帝の時代には帝国全土に割礼禁止令が出され、『皇帝史(Historia Augusuta)』などではこれがユダヤ人たちのバル・コクバの乱の原因になったという説が挙げられている。 この対象はユダヤ人以外の民族にも適応され、サマリア人やナバテア人(ナバテア人にあった割礼の掟自体はトラヤヌス皇帝の時代に直接支配された時に廃止)、およびエジプト人も規制対象になっている記録があるが、後にこれは緩和されユダヤ人の場合は「割礼はユダヤ人達が自分達の息子に施す場合は許される」という勅令が次代のアントニウス・ピウス皇帝の時代に出されたが、成人がユダヤ教に改宗する場合は割礼は認められなかった(前述の説明の後に「他は罰則の適応になる」と続くため)といった記録や、2世紀終わりごろのエジプトで「割礼の風習のある宗教の聖職者は後継者の息子に割礼をする場合、請願書を出して役人とローマ人最高祭司の許可を得れば割礼が認められる。」という記録があり、一律禁止ではなくなったことが分かる。
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