ローマ帝国と初期キリスト教において
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「反ユダヤ主義」の記事における「ローマ帝国と初期キリスト教において」の解説
「初期キリスト教#ローマ帝国におけるキリスト教」および「古代末期のキリスト教」を参照 1世紀、ユダヤ教の堕落に対して洗礼運動を開始したユダヤ人の洗礼者ヨハネは、生粋のユダヤ人ではないイドマヤ系のガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスが異母兄弟の妻ヘロデヤと結婚したことを姦淫罪として非難し、処刑された。洗礼者ヨハネから洗礼を受けたユダヤ人のナザレのイエス(イエス・キリスト)はユダヤ教を改革し、これを民族宗教から普遍宗教へ変化させた。 35年(36年)頃、ユダヤ人キリスト教徒ステファノはユダヤ教を批判したためファリサイ派に石打ちで処刑され、キリスト教で初の殉教者となった。ファリサイ派のユダヤ人サウロは当初キリスト教徒を弾圧していたが、回心してキリスト教徒となりパウロに改名し、後に聖人となった。ユダヤ教を批判したパウロは「ユダヤ人の敵」で反ユダヤ主義の源泉ともいわれる。 哲学者セネカは、ユダヤ・キリスト両教徒について「極悪な民族の習慣はますます強固となって、全世界に根を下ろすようになった。被征服者が征服者に法律を定めた」と述べた。 66年、ローマ帝国のユダヤ属州総督の迫害に対してユダヤ教過激派が反乱を起こしてユダヤ戦争が始まった。70年のエルサレム攻囲戦に際し、ローマ軍司令官(後皇帝)ティトゥスはユダヤ・キリスト両教徒を絶やすためにエルサレム神殿を破壊し、反乱を鎮圧した。ヨセフスもローマ軍に投降し、熱心党とサドカイ派とエッセネ派のクムラン教団はこの戦争で消滅し、パリサイ派だけが残った。 ユダヤ戦争後、ユダヤ教は存在を許されたが、エルサレムの神殿体制は崩壊し、ファリサイ派はヤブネの土地を拠点とした。10万近いユダヤ人捕虜は、全ローマ帝国に銀貨一枚で奴隷として売られた。ユダヤ戦争の際にキリスト教徒は反乱に加わらなかったため、ユダヤ教徒はキリスト教徒を敵視するようになった。 70年代にパレスチナと小アジアで成立したキリスト教の福音書では、エルサレム攻囲戦で生き残った唯一のユダヤ教集団のパリサイ派が偽善者として批判された。ヨハネ福音書ではユダヤ人は「悪魔から出てきた者」であって「彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない」と、ユダヤ人をキリスト殺し、悪魔の子と非難し、キリスト教の反ユダヤ主義に神学的表現を与えた。福音書で記されたイスカリオテのユダについて、ポリアコフはユダの名前は偶然というよりも意図が働いていたのではないかと疑っている。 当時の記録では、フラウィウス・ヨセフスがリュシマコスを引用して「モーセはユダヤ人に対して、何人にも愛想よくしてはならぬ」と説教したと書き、またタキトゥスはユダヤ人は彼ら以外の人間には敵意と憎悪をいだき、自分たちの間ではすべてを許すと書いた。 132年-135年、ユダヤ属州でバル・コクバの乱が発生した。ハドリアヌス皇帝は鎮圧後、ユダヤ教徒による割礼を禁止した。この乱以後、ユダヤ人のエルサレム居住は禁止され、ユダヤ教祭儀の実践は死刑となった。138年にアントニヌス・ピウス皇帝が割礼を許可したが、ユダヤ教の宗教活動を制限するために非ユダヤ人の割礼を禁止した。 3世紀のローマ帝国ではユダヤ教よりも新興宗教のキリスト教が迫害された。当時キリスト教は制度化が未熟で、キリスト教聖典学者はラビに教えを請うていた。しかし、キリスト教神学者からの反ユダヤ主義もみられ、オリゲネスは『ケルソス駁論』でユダヤ人は救い主に対して陰謀を企て、その罪のためにエルサレムは滅亡し、ユダヤ民は破滅し、神による至福の招きはキリスト教徒に移行したと論じた。 313年、ローマ帝国皇帝リキニウスとコンスタンティヌス1世は「キリスト者およびすべての者らに、何であれその望む宗教に従う自由な権限を与える」とのミラノ勅令を出した。 この頃、ユダヤ人はライン川流域に奴隷、ローマ軍兵士、商人、職工、農民としてやってきており、321年の勅令ではケルンのユダヤ人住民が記されている。 330年、コンスタンティヌス1世がローマからコンスタンティノープルへ遷都し、やがて西ローマ帝国と東ローマ帝国に分かれていった。 380年にローマ帝国がキリスト教を国教とすると、392年にはキリスト教以外の宗教、ローマ伝統の多神教が禁止された。ユダヤ教は多神教でなく一神教なのでこの時に迫害は受けていない。 4世紀から5世紀になると、ゲルマン諸民族がヨーロッパに勢力を拡大し、西ゴート族のアラリック1世がローマ帝国への侵入を繰り返し、457年には東西ローマ帝国が分離し、オレステスとオドアケルのクーデターによって476年に西ローマ帝国が滅亡した。以後、東ローマ帝国にローマ帝国は継承された。 カッパドキア教父ニュッサのグレゴリオスはユダヤ教徒を悪魔の一味、呪われた者と罵倒した。 コンスタンティノープル総主教ヨアンネス・クリュソストモスは、ユダヤ人は盗賊、野獣で「自分の腹のためだけに生きている」と罵倒し「もしユダヤ教の祭式が神聖で尊いものであるならば、われわれの救いの道が間違っているに違いない。だが、われわれの救いの道が正しいとすれば、ーもちろんわれわれは正しいのだがー、彼らの救いの道が間違っている」とし、ユダヤ教徒による不信心は狂気であり「神の御子を十字架に懸け、聖霊の助けを撥ねつけたのなら、シナゴーグは悪魔の住まい」だと述べた。 以来、ビザンティン帝国で反ユダヤ主義の伝統が形成され、千年後のモスクワ大公国でのユダヤ人恐怖をもたらした。ゴールドハーゲンはヨアンネスの事例は西洋近代へもつながり、キリスト教徒にとってのユダヤ教徒は有害で害虫であり、キリスト教徒であることそれ自体がユダヤ人への敵意を生み出し、ユダヤ人を悪の権化、悪魔とみなしていったとする。ヨアンネスの『ユダヤ人に対する説教(Adversus Judaeos)』はナチス・ドイツにおいて頻繁に引用された。 東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世(在位408-50)はユダヤ人を公職追放し、この布告はヨーロッパで受け継がれ18世紀まで効力を持った。 5世紀初頭にアウグスティヌスはユダヤ人はキリスト教信仰を受け入れるだろうとし、ユダヤ人はイエス殺害により死に値するが、カイン同様地上を彷徨わせるべきで、再臨の時にユダヤ人は過ちを認めてキリスト教に帰依する、さもなければ悪魔の国に落ちるとし、ユダヤ人を悲惨な状態のままで生き永らえさせよと主張した。 キリスト教徒にとってのユダヤ人は、イエスの啓示を否定するとともにイエスを殺害した特別な民族であり、ユダヤ人は神の冒涜者で世界の道徳秩序の破壊者であり、これはキリスト教文化の原理となった。4世紀にキリスト教教会が勝利を収めてから中世を通じて反ユダヤ主義は断絶しなかった。
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