ローマ帝国とフランク人とは? わかりやすく解説

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ローマ帝国とフランク人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:30 UTC 版)

フランク人」の記事における「ローマ帝国とフランク人」の解説

フランク人最初期記録においてローマ帝国の敵として現れる。彼らは既にローマ化されていたガリア3世紀侵入した。しかし、フランク人ローマ敵対関係ローマ司令官ユリアヌスと関係を持ったことで大きな転換点迎えたフランク人サリー族ユリアヌスによって358年ブラバント北部のトクサンドリア地方英語版)への移住認められ国境警備の任にあたるようになった。この時からサリー族ローマ補助軍に組み込まれフランク族特有の武器戦術備えた部隊(numeri)」を形成した361年ユリアヌスローマ皇帝即位した後も、サリー・フランク人は彼の指揮下でローマ軍として戦い軍役終了した後にはガリア退役兵として土地割り当て受けた。彼らはロワール川からセーヌ川にいたる地域定住し、その生活様式現地人同化ていったまた、ローマ軍としての勤務サリー族支配層ローマ帝国組織内において栄達していく切っ掛けとなった部族指導的家系出身考えられるメロバウデス377年382年西ローマ帝国執政官コンスル)職に就任した。これは皇族でない者としては未曽有のことであったまた、380年にはグラティアヌス帝によってフランク人フラウィウス・バウト軍司令官任命されその5年後には執政官コンスル)に就任したバウトの甥にあたるテウドメール(英語版)は「フランク人の王(rex Francorum)」という称号帯びた最初の人物であり、マロバウデス(英語版)というフランク人ローマ軍将軍務めた後、「フランク人の王」になり378年アレマン族との戦い勝利導いたとされるバウトの娘アエリア・エウドクシア(英語版)は395年に東の皇帝アルカディウスの妃となり、後の皇帝テオドシウス2世生んでいる。このように4世紀後半にはほぼ1世代にわたり、ローマ帝国内でフランク人出身者目覚ましい躍進遂げたとはいえこの躍進は、フランク部族統合意味しなかった。380年頃、ライン・フランク人(リプアリー・フランク人)たちは、ゲンノバウド(英語版)、マルコメール(英語版)、スンノ(英語版)という三人指導者の下、ライン川越えてローマ領に侵入し周辺荒らしまわった。やはりフランク人であり帝国仕えていたアルボガスト英語版)は、皇帝ウァレンティニアヌス2世に、これらのライン・フランク人の首長たちが略奪品返還首謀者引き渡し応じなければ、ライン・フランク人を殲滅すべきである進言したと伝えられている。ウァレンティニアヌス2世人質引き渡し交渉開始されただけで満足したが、ウァレンティニアヌス2世死後傀儡エウゲニウス帝を推戴しアルボガストはライン・フランク人に対して大規模な軍事行動起こし、このフランク人の王たちを鎮撫した。その後アルボガストテオドシウス1世との戦い敗れ自決追い込まれた。これを契機に、ローマ中央政界におけるフランク人進出退潮向かい、代わってゴート人たちがその権勢拡大していくこととなった

※この「ローマ帝国とフランク人」の解説は、「フランク人」の解説の一部です。
「ローマ帝国とフランク人」を含む「フランク人」の記事については、「フランク人」の概要を参照ください。

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