メロバウデスとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 外国人名の読み方 > メロバウデスの意味・解説 

メロバウデス

名前 Merobaudes

メロバウデス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/21 02:47 UTC 版)

フラウィウス・メロバウデスラテン語: Flavius Merobaudes、? - 388年)は、4世紀フランク人で、西ローマ帝国の政治家および軍人。377年383年388年執政官

生涯

メロバウデスは4世紀のフランク人で、西ローマ帝国の政治家および軍人。メロバウデスは西帝ユリアヌスの東征に従って頭角を現し[1]363年にユリアヌスが戦死した際にはユリアヌスの死体の護送を担当している。375年頃、ウァレンティニアヌス1世によってマギステル・ペディトゥム(歩兵長官)もしくはマギステル・ミリトゥムに任命された。

375年にウァレンティニアヌス1世が死亡すると、イリュリクムのローマ軍団が不穏な動きを見せた。ウァレンティニアヌス1世の長男で共同皇帝でもあったグラティアヌスは当時イリュリクムからは遠く離れたトリーアを拠点としていたため、メロバウデスはウァレンティニアヌス1世の後妻ユスティナ英語版の子ウァレンティニアヌス2世シルミウムにおけるグラティアヌスの共同皇帝に擁立し、軍団にウァレンティニアヌス2世への忠誠を誓わせることで事態を収拾した[2]。この緊急処置にグラティアヌスは不満もあったようだが、結果としてはメロバウデスの処置を受け入れることとした。以後メロバウデスはグラティアヌスおよびウァレンティニアヌス2世の後見人としてリコメルフラウィウス・バウトらとともに幼い皇帝たちの政務を代行した[1]。メロバウデスは377年383年388年と3度の執政官を務めている[1][3]。当時の執政官職は皇帝や皇帝の親族によって独占されることが多かったので、これは非常に稀有で名誉なことだった[4]

388年に没し、おそらくはトリーアに埋葬された。子孫からは5世紀の詩人メロバウデス英語版(fl.432-446)が出た。

アキタニアのプロスペロ英語版によれば、メロバウデスは383年にグラティアヌスを裏切ってマグヌス・マクシムスを支持したために没落し、それを苦にして385年に自殺したとされる。しかし現代の歴史家たちの多くは、メロバウデスがグラティアヌスおよびウァレンティニアヌス2世の後見人として実質的に帝国を支配できる立場であったことや、彼が388年に3度目の執政官に就任している記録などから、これらの話はありそうもないことだと考えている。

脚注

  1. ^ a b c 南川2013、p.153。
  2. ^ 尚樹1999、p.65。
  3. ^ 「メロバウデース」『西洋古典学事典』。
  4. ^ 佐藤1995、p.134。

参考文献



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「メロバウデス」の関連用語

メロバウデスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



メロバウデスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのメロバウデス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS