フランク‐おうこく〔‐ワウコク〕【フランク王国】
フランク王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/27 23:48 UTC 版)
フランク王国(フランクおうこく、ラテン語: Regnum Francorum, ドイツ語: Fränkisches Reich,フランス語: Royaumes francs)は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。カール1世(カール大帝・シャルルマーニュとも)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフランス・ドイツ・イタリア北部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリアおよびスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島とイタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼした。カール1世以降のフランク王国は、しばしば「フランク帝国」「カロリング帝国」などとも呼ばれる。
注釈
- ^ この名前は「勇敢な人々」[2]、「大胆な人々」[3]、あるいは「荒々しい」「猛々しい」「おそろしい」人々という意味である[4]。
- ^ ベルギーとオランダにまたがる地域。
- ^ ブルグント族は後にフン族との戦いで壊滅的な損害を被り、サバウディア(サヴォワ)地方に移りその地で王国を再建した[11]。
- ^ この分割割り当ては即興で決まったものではなく、ある程度計画的に予定が建てられていたものである。それはランス近辺を継承したシギベルト1世の名前が、クローヴィス1世によって滅ぼされたライン・フランク人の王シギベルトから取られており、旧ブルグント領を含むオルレアンの王国を継承したグントラムの名が、典型的なブルグント王族の名であることからわかる。彼らがあらかじめその地を継承することを想定して命名されていることは明らかである[29][28]。
- ^ ピピン1世(大ピピン)の娘ベッガと、アルヌルフの息子アンセギゼルの息子。グリモアルドの甥にあたる。
- ^ ピピン3世の即位はゲルマン法の慣習に則り、成員による選挙による形態をとった。一方で旧約聖書の記述による国王塗油の儀式を通じてキリスト教的観点から強化された。この国王塗油については既にイベリア半島の西ゴート王国が滅亡前に慣例化しており、西ゴートの慣習がフランク王国に影響を及ぼした可能性もある[58]。
- ^ カール1世のローマ皇帝戴冠は西ヨーロッパの政治史、宗教史において決定的な事件であったが、それが当時決定された理由については議論の中にある。カール大帝の伝記を遺したアインハルト(エジナール)は「カールは皇帝位に嫌悪を感じていたので、もし彼が教皇の意図を事前に察知していたら、彼は尊ぶべき祭日にもかかわらず、教会へいくことはなかったであろう」と記し[84][85]、カール1世にとって皇帝戴冠は青天の霹靂であったかのように記録している。しかし、今日的理解としてはカール1世は自身の戴冠について事前に知っていたと想定して問題はない[85]。中世初期フランク史の研究者オイゲン・エーヴィヒは「カールがこのような行為によって驚かされたとか、皇帝位そのものを拒否したというようなことは、今日の研究水準からすれば、もはや認められない[84]。」としている。また、教皇側の意図についてバラクロウは、「全体として見るなら、教皇には先を見通した上での目的などなかったのではないだろうか。799年、道徳的にも政治的にも信用を失ったレオは陰謀に遭い、命の危険に晒されていた。したがって、教皇はカールに皇帝の権力を授けることで、自分を苦境から救い出してくれる権威をローマに確立しようと考えたにすぎなかったとみるのが自然であろう。」と述べ、その場しのぎの対応として用意されたのであり、壮大な計画を伴って用意されたものではないとしている[83]。
- ^ Karoulus serenissimus Augustus, a Deo coronatus, magnus et pacificus imperator, Romanum gubernans imperium qui et per misercordiam Dei rex Francorum et Lngobardorum. 訳文は瀬原訳、エーヴィヒ 2017, p. 103に依った。
- ^ このストラスブールの宣誓は、フランク王国(カロリング帝国)が言語の上において東西に分裂しつつあった状況を証明している[96]。帝国の西と東で、それぞれの言語文化が育まれ、東側でも8世紀頃から古代高地ドイツ語の書物が編纂されていた[96]。
- ^ ロタール1世にはリエージュ、ルートヴィヒ2世にはフランクフルト、インゲルハイム、ヴォルムス、シャルル2世にはラン、ソワソン、パリ、オワーズ、コンピエーニュなど、メロヴィング朝時代からの伝統ある離宮が割り当てられた[100]。
- ^ イタリア王としてのルートヴィヒ「2世」であり、東フランクのルートヴィヒ2世とは別人。イタリア語式にロドヴィコ2世とも呼ばれる。西フランクにも同名の王ルートヴィヒ2世がいる。
- ^ ル・ジャンもまた、以下のように述べる。「人類学者たちによると、王権が現れるのは、親族集団に自分の価値を認めさせ、多様性を維持しながら一体性を保証し、繁栄や公共福祉を保証することのできる上級権威を必要とするほど社会が複雑になったときである。フランク族に関して言えば、王権の出現はローマ世界への編入の結果である[127]」。
- ^ カロリング朝時代のフランク王国は、同時代人にとっては現代的な意味での「国家」として捉えられておらず、それ自体一つの「教会」(ecclesia)と認識していたとされる。この場合の「教会」とは、単なる聖堂や集会場所と言う意味での教会ではなく、キリスト教の教義における「神の国」の現実世界における実体、「キリストの体」としての「教会」(ecclesia)であった[134]。このような捉え方は日本の歴史学会においては山田欣吾が「「教会」としてのフランク王国」の中で詳述し、フランク王国を理解する上での基本的見解となっている[135][136]。
- ^ a b ガロ・ローマ人(Gallo-Roman)とはガリア(Gallia 概ね現代のフランスに相当する地域)に住むローマ系住民を指す学術用語である。あくまでも現代歴史学の用語であり、古代ローマ時代およびフランク王国時代にこれに対応する概念が存在していたわけではない。ミシェル・ソはこの用語について「私たちはガロ=ローマ人について、二十世紀の立場で語っているが、五世紀には、また、そのあとの何世紀かにも、そのような呼び名は存在しなかった。ガリアでは、読み書きのできる人々は、自らを『ローマ人』であり、普遍的帝国とローマ文化の継承人と考えていた。」と述べ、ガロ=ローマ人とは(ガリアに住む)キリスト教徒ローマ人であるとしている[229]。ローマに対する「ガリア民族意識」というものはいかなる意味でも存在しなかったのであり、ガリア人とは諸民族に君臨すべきローマ人の一部であった[229]。
- ^ 6世紀の伯(comes)の半数前後はガロ・ローマ系の名前を持っていた[148]。フランク時代の伯、ないし都市伯(comes civitas)はローマ帝国末期の都市伯にその起源を持っていると考えられ、フランク王国がローマ領ガリアの接収にあたりローマ的要素を大幅に採用しなければならなかったことを示している[148]。7世紀にはその多くがフランク系となっており、伯(comes)職のフランク化が進んでいたことが見て取れる[148]。
- ^ 伝統的に大公位はゲルマン古来の部族と関連付けてとらえられている。カール1世(大帝)によるバイエルン大公位廃位などのような圧力の後も、カロリング朝の分裂と瓦解の時期には再び歴史の担い手として表舞台に登場するものとされていた。10世紀に完結した形をとって現れる五大公領(ザクセン、フランケン、バイエルン、シュヴァーベン、ロートリンゲン)はそのような部族の再結集した姿に他ならないとされ新部族大公国(領)と言う用語で呼ばれてきた。しかし、ドイツの中世史学者ヴェルナーは、この「部族」と言う概念が実態のない学術上の造語に過ぎず、(例えばロートリンゲン族という部族が存在しない事は歴史上明白である)これらの大公国は直接部族(エトノス)に繋がるものでは無く、何よりもフランク王国の行政上の単位として成立したものであると主張した。この考え方は、各地域の差異を無視しているという批判はあるものの、ドイツ史学界においてその基本的な主張は受け入れられている[156]。
- ^ このようなブルンナーの説には多数の批判が寄せられているが、その基本的な論理はなお定説としての地位を維持しているとされる[162]。アメリカの中世史家リン・ホワイトはブルンナーの説を踏襲するが、フランクの騎兵制創出をトゥール・ポワティエ間の戦いではなく、鐙の導入を契機とするとしている[162]。中世史家森義信はこうしたブルンナーやホワイト以来の定説は史料上の根拠が薄弱であり近年(1988年頃)の歴史学・考古学の成果に照らすと既に説得力を失っているとして、これらを「古典学説」と呼んでいる[178]。ただし21世紀でも、この定説に沿った説明がなされる例は多く、例えば日本の歴史学者では堀越宏一がホワイトの説と同様の論を概説書に掲載している[173]。
- ^ 聖職者の戦闘禁止規則は必ずしも順守されておらず、前線で武装して戦闘に加わっていた司教の存在が知られている[179]。
- ^ 古典荘園制は、中世初期社会研究の一つの軸として扱われてきた。19世紀の古典学説では、カロリング期の所領明細帳に見られる領主直営地と農民保有地と言う二つの部分から構成され、領主直営地は農民保有地を持つ農民によって耕作されるというモデルを古典荘園制と名付け、封建的土地所有形態の始原的形態と位置付けた。このような古典荘園制がカロリング期に排他的に存在していたとする見解は20世紀前半以降根本的批判に晒され、古典荘園制をカロリング期の基本的な所領形態とする見方は下火となった。1960年代には実際にこのようなモデル化が可能な古典荘園制が典型的に展開されたのは、フランク王国の中枢部であるロワール川とライン川の間の地域に限られ、他の地域では十分に発達しなかったことがアドリアン・フェルフルスト(Adriaan Verhulst)により強調された。しかし、フェルフルストは同時に、所領を古典荘園制的構成に再編しようとする動きが広く西欧各地で見られることを指摘し、実際の実施の程度がまちまちであっても同時代の理想的な所領構造として位置付けられるという新しい見解を示唆した。1980年代以降には古典荘園制が再評価されるとともに、これについての見解は相対化され、その位置付けも論者により多様なものとなっている[198][199][200]。
- ^ このような構造変化をアンリ・ピレンヌはイスラーム勢力による地中海東岸、南岸、イベリア半島の制圧により、コンスタンティノープルを中心とする地中海世界が消滅した結果、地中海の東西を結び付けていた政治・経済関係が遮断され、カロリング朝時代に入る頃のフランク王国ではローカルな閉鎖的経済への移行を余儀なくされたものであるとした[207]。更にイスラームの地中海制圧が、フランク王権とローマ教皇権の歩みよりをも惹起し、独自の西ヨーロッパ世界の確立につながったとした[208]。このピレンヌの明解な見解(ピレンヌ・テーゼ)は多くの研究者に多大な影響を与えた。現代ではこれは各種の批判に晒されているものの、研究史を概観する際には常に触れられる。
- ^ ただし、このような文書行政を伴う法律行為はフランク王国の全てで一様に実施されていたわけではない。旧ローマ帝国領に成立したゲルマン人の王国ではいずれも同様であるが、フランク王国は単一の部族集団ではなかった。フランク王国はフランク人の他に、ガロ・ローマ人やゲルマン人の諸部族(アレマン人やバイエルン人、テューリンゲン人、ブルグント人、ランゴバルド人等)が含まれる多民族国家であった。これらのローマ系の人々やゲルマン人諸部族は、それぞれの言語や法、習俗、慣習を維持し続けた[231]。ただし、ローマ系住民の行政組織はフランク王国の全土に適用される「国家法」の起源となったが、その実効性は王国の部分ごと、部族ごとに大きな隔たりがあった[231]。
- ^ トゥールのグレゴリウスは当時の「フランク人」の認識についても興味深い著述を残している。彼はアクィタニアのガロ・ローマ人の名門家系の出身であり、その一族からはラングル、リヨン、クレルモンの司教を輩出している[243]。そしてグレゴリウス自身はトゥールの司教職をシギベルト1世から拝命し、死ぬまでその地位にあった[243]。彼はクローヴィス1世のカトリック改宗を極めて重要視しており、その記述によれば、「フランク人たちはローマ帝国を破壊しなかった。彼らは、カトリック教徒になることによってローマ人になったのである。」(ミシェル・ソによる要約)とされた[244]。
- ^ ただし、北ガリアでは既に4世紀にはこうした学校は消滅していた。南ガリアでは7世紀半ばまで存続したが、その後完全に消滅した。それ以降は、主として司教職を担う名門家系による「家伝」によって古典が継承されたが、「家」によって伝えられるだけであった古典の知識は世代を経るごとに貧弱化していったと考えられている[248]。
- ^ こうした聖人伝は対象の聖人の記念日に朗誦することを前提として作られており、ラテン語による朗誦を当時の民衆が未だ理解できていたことを示している[250]。
- ^ カロリング・ルネサンスにはヨーロッパ各地から集まった外国人が多大な貢献をしていた。カール1世のラテン語の師であったピサのピエトロや、パウルス・ディアコヌスのようなイタリアの知識人たちが遠征を通じて集まった他、アルクィンのようなブリテン諸島出身者も大きな役割を果たした。ブリテン諸島ではラテン語の古写本の残存状態が良く、ブリテン諸島の聖職者たちとともに質の良い写本がフランク王国にもたらされた。独自の修道制を発達させていたアイルランド人の修道士は、独特の風貌で奇異の目を向けられたが知識の豊富さでは定評があり、ランの司教座学校では教師の大部分をアイルランド人が占めた。イスラームの支配下にあったヒスパニアからは聖職者がフランク王国に移動し、教理論争に参加し西ゴート時代の貴重な写本をもたらした[262]。
- ^ これは現代の欧文では全く常識的なことであるが、8世紀以前のギリシア語やラテン語の文書では単語と単語の間に空白が置かれることはなく、全て一繋ぎで文章が綴られていた[267]。
- ^ 合字(連綴文字)は2文字を合成してまるで1つの文字であるかのように綴るもので、例えば現代でも使用される&はラテン語etの合字を起源としている[267]。
出典
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フランク王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:09 UTC 版)
5世紀末にフランク族の王クローヴィス1世はパリを征服し、508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ(カール大帝)以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。 885年から886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。このとき、フランク王シャルル3世(カール3世)は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い、代わってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。
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フランク王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:23 UTC 版)
「フランクフルト・アム・マイン」の記事における「フランク王国」の解説
フランクフルト・アム・マインは、794年2月22日にカール大帝がレーゲンスブルクの聖エメラム修道院宛に発した文書に初めて記述されている。この文書にはラテン語で次のように書かれている "… actum super fluvium Moin in loco nuncupante Franconofurd"「マイン川の畔にフランクフルトと名付けられた村がある」 すなわち、ドームヒューゲルの集落は新石器時代から継続的に存続していることが証明されている。この村は、おそらくローマの軍事基地となり、メロヴィング朝時代にフランク王国の王宮所在地となった。 カール大帝はこの地に長期間滞在したが、以後1378年までに王・皇帝のここでの滞在は約300回に及んだ。カールの時代には国王荘館(Königlicher Wirtschaftshof)があったと推測される。続くルートヴィヒ1世(敬虔王)の治世には26,5m x 12mの広間を擁する王宮(Königspfalz)があった。特にルートヴィヒ2世(ドイツ王)にとってはお気に入りの滞在地で(833年10月から876年8月までに33回)、フランクフルトは、876年にプリュムのレギノに「東国王の主要居住地」(principalis sedes regni orientalis)と呼ばれ、ほとんど国王居城地的性格(Residenzcharakter)を持っていた。カロリング朝歴代の王はこの地で頻繁に宮廷会議(Hoftage)や帝国会議(Reichsversammlungen)を開催し、広大な御料林(Reichsforst)「ドライアイヒ」(Dreieich)で狩りを行った。こうして、この「王宮は都市形成の過程における旧市区的核」となった。
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フランク王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 05:43 UTC 版)
詳細は「フランク王国」、「カロリング王国」、および「カロリング朝ルネサンス」を参照 カール大帝の戴冠式 メロヴィング朝はガリアの嘗てローマが支配し現在は権力空白地域に建国し、トルビアクの戦い(英語版)(496年)でアラマンニ人に勝ったクローヴィス1世は、優勢な中世西欧キリスト教国フランク王国を建国してキリスト教に改宗した。 9世紀初めにフランク王国とともに始まり、カール大帝は今日のフランスの多くとドイツ西部、イタリア北部をカロリング王国(英語版)に統一した。20世紀の歴史家が「カロリング朝ルネサンス」と名付けた学問や古典研究の復興がカール大帝の下でなされ繁栄した。 840年代は初めはヴァイキング、後にマジャル人によるフランク王国の崩壊と蛮族の新たな増加の始まりで新たな混乱が起きた。
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フランク王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 13:39 UTC 版)
「トリニティ・ブラッド」の記事における「フランク王国」の解説
現在のフランスに位置する農業国。アルビオン、ゲルマニクス、ヒスパニアと並んで「四王国」と称されるがブルターニュ半島が水没するなど北部は荒廃しており他の3国と比較すると国力は低い。首都はマッシリア。
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フランク王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 05:30 UTC 版)
詳細は「フランク王国」を参照 5世紀末、このサリー・フランクのクローヴィス1世が、全てのフランク勢力を統一してフランク王国を建設し、キリスト教に改宗した。以降、フランク人はイベリア半島、ブリテン島、イタリア半島南部、ブルターニュ半島を除く、西ヨーロッパ全域を支配する王国を打ち立てていく。
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フランク王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 05:10 UTC 版)
-843年:詳細は「フランク王国」を参照。 4世紀後半より、ゲルマン人がライン川・ドナウ川を越えて本格的な移住を進め、旧ローマ帝国の領内にゲルマン人諸国家が成立した。その中で、5世紀末のガリアに登場したクロヴィスは、481年にフランク族を統一しフランク王国を建国、メロビング王朝を興した。フランク王国は、ローマ・カトリックを受容してラテン系住民からの支持を集めるなど、徐々に勢力を拡大させていった。ゴート戦争(535年–554年)。751年に至り、臣下であった小ピピン(ピピン3世)が教皇の支持を得て王位につき、カロリング王朝が興る。 ピピン3世の子カール大帝は、ザクセン人(現在のドイツ北西部)を平定し、バイエルン(現在のドイツ南部)にも勢力を伸ばして西ヨーロッパ世界の政治的統一を推進しつつ、東方から侵入してきたアジア系遊牧民のアヴァールを撃退するなどの活躍をみせ、800年にローマ帝国皇帝の冠をローマ教皇から授かって古代における皇帝の理念的継承者となった。このことは、東ローマ帝国に対する西ローマ帝国の再興を意味した。また、カール大帝はアーヘン(現在のドイツ北西部)の宮廷にブリタニアの僧アルクィンを招いて古典古代のラテン語文化を復興させ(カロリング・ルネサンス)、古典文化、ローマ・カトリック、ゲルマン人の諸要素を加えた独自のヨーロッパ世界を築き上げた。
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フランク王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/27 03:16 UTC 版)
民族大移動期にローマ帝国はフランク人のサリ族を傭兵として利用するためにフォエデラティの資格でネーデルラント南部のトクサンドリアに入植させたが、西ローマ帝国の衰退にともない、サリ族入植地から発展して成立したフランク王国に、ネーデルラント全体が取り込まれていった。フランク王国の初代国王クローヴィス1世がカトリックに改宗したことにより、ネーデルラントにもキリスト教がもたらされた。 フランク王国の史料によれば、7世紀から8世紀においても、ネーデルラント北部からドイツ北部の海岸線に沿った地域はフリースラント王国が独立を保っており、その中心地はユトレヒトであった。734年のボールンの戦いでフランク王国がフリースラント王国を破り、現在のフリースラント州付近までがフランク王国の領土となった。その後、785年にザクセン公ヴィドゥキントがカール大帝に降伏し、ネーデルラントは完全にフランク王国の領土となった。この時点でのフランク王国の中心地は、現在のベルギーと北フランス一帯であった。 843年にフランク王国が西フランク王国、中フランク王国、東フランク王国に分裂すると、ネーデルラントは中フランク王国に属することになった。その後、中フランク王国は再度分裂し、ネーデルラント(現在のオランダ語圏)は東フランク王国に吸収される。 800年頃から1000年頃にかけては、激しいヴァイキングの侵攻に晒された。841年から873年にかけてはネーデルラントの大部分が占領され、ロリック率いる占領者がドレスタット(現在のユトレヒト付近にあった中世の町)からネーデルラント全域の統治を行った。
※この「フランク王国」の解説は、「オランダの歴史」の解説の一部です。
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「フランク王国」の例文・使い方・用例・文例
- フランク王国という,古代の国
フランク王国と同じ種類の言葉
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