ブルグント族、バガウダエ、西ゴート族との戦役
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「アエティウス」の記事における「ブルグント族、バガウダエ、西ゴート族との戦役」の解説
433年から450年の期間、アエティウスは西ローマ帝国における最有力人物となった。続く435年9月5日にはパトリキの称号を受け、母后ガッラ・プラキディアと未だ若年の皇帝ウァレンティニアヌス3世の「守護者」の役割を演じている。同時に彼はガリアへの専念を継続していた。436年、ブルグント王グンダハールはアエティウスに敗れて和平を受け入れさせられたが。翌年、さらにアエティウスはブルグント族を撃滅するためにフン族を送りこんだ。2万人のブルグント族が虐殺されたといわれる。この事件は後にドイツの英雄叙事詩ニーベルンゲンの歌の元となった。同年、アエティススはおそらくリトリウス(fr)とともにアルモリカ(ブルターニュ半島周辺)でバガウダエ (en) (ガリアの農民反乱軍)の鎮圧にあたっている。 437年にアエティウスは二度目の執政官に就任した。またウァレンティニアヌス3世が、東ローマ皇女リキニア・エウドクシアがコンスタンティノープルで結婚し、アエティウスが出席したであろうこの婚儀が親政開始の印となった。続く2年間はスエビ族そして西ゴート族との戦争に費やされ、438年にアエティウスは大規模な戦闘で勝利した。だが、439年に西ゴート族はフン族傭兵を率いたリトリウスを撃破して彼を殺害し、アエティウスは復讐戦を挑むが結局和平が結ばれた。イタリアへの帰還に際して、アエティウスは皇帝の命によって、元老院とローマ市民による彫像が建てられる栄誉に浴した。これはおそらく桂冠詩人フラウィウス・メロバウデス (en) による演説の際のことであろう。 443年、アエティウスはブルグント族の残余をレマン湖南方のサヴォイアに定住させた。440年代における彼の最大の関心事は、ガリアとイベリアにおけるバガウダエであった。彼は現在のブルターニュ半島周辺における反乱を抑え込むためにヴァランスとオルレアンにアラン族を定住させた。 447年または448年に、アルモリカに定住したアラン族が問題を引き起こした。クローディオ (en) に率いられたフランク族によって、ガリア・ベルギカのアラス近郊への攻撃が行われ、続いてトゥール近くで戦闘が行われたのはこの時期である。侵略者はウィクス・ヘレナ近くの渡河地点周辺での戦闘で食い止められた。この戦いにおいてアエティウスは作戦を指揮した。なお、この戦闘ではマヨリアヌス(後の西ローマ皇帝)が騎兵を率いて戦っている。450年にアエティウスは有利な条件でフランク族と和平を結んで帰還している。 同年フランク王が死去すると、アエティウスはこのフランク王の王子の一人が行った王位主張を支持した上で、彼を養子に迎えて、多くの贈物とともにローマ(王子は大使として派遣されていた)からフランク宮廷へと送った。一方、フランク王の長子の王子はフン族の王アッティラに援助を求めた。
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